誰にも祝われない旅立ち   作:ひよこ大福

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ゼニガメの目

朝、ハナダシティの光がポケモンセンターの窓からやわらかく差し込んでいた。

 

水路を流れる水の音は静かで、昨日より少しだけ近く感じる。

カエデは椅子の上で浅く眠っていたらしく、目を開けた時、最初に見えたのは診察台の上で丸くなっているゼニガメの背中だった。

 

「……あ」

 

小さく声が漏れる。

 

昨日の夕方から、カエデはずっとこの部屋の隅でゼニガメのそばにいた。

ガーディは椅子の足元で丸くなっていて、ニドは少し離れた壁際で眠っていた。

二匹とも、珍しく夜のあいだほとんど動かなかった。

 

カエデはそっと体を起こす。

急に大きく動いて驚かせないように、できるだけ静かに。

 

ゼニガメはまだ眠っていた。

でも、昨日みたいな苦しそうな息じゃない。

呼吸はずっと落ち着いていて、甲羅の上下もゆるやかだ。

 

「……よかった」

 

その一言は、ほとんど吐息みたいだった。

 

ちょうどその時、ジョーイが静かに部屋へ入ってきた。

カエデに気づくと、やわらかく笑う。

 

「おはようございます」

「……おはよう」

まだ少し掠れた声で返す。

 

ジョーイはゼニガメの様子を見て、そっと記録用の紙へ何かを書き込んだ。

 

「夜のあいだに熱も落ち着きました。だいぶ楽になっていると思います」

「……ほんと?」

カエデが思わず身を乗り出すと、ジョーイは頷く。

「ええ。ただ、体力はまだ戻っていません。食べられるようになるまでは、無理は禁物ですけど」

 

その言葉に、胸の奥が少しだけやわらぐ。

助かったのだと、今度こそちゃんと実感が湧いてくる。

 

ガーディも起きたらしく、小さく喉を鳴らして伸びをした。

ニドも耳をぴくりと動かして、ゆっくり顔を上げる。

 

「おはよ」

カエデが声をかけると、二匹とも短く鳴いた。

その鳴き声に反応したみたいに、診察台の上のゼニガメの瞼が、ほんの少しだけ動く。

 

カエデは息を呑んだ。

 

ゼニガメが、ゆっくりと目を開ける。

 

まだぼんやりしている。

でも昨日みたいに、すぐ閉じてしまう感じじゃない。

焦点の合わない視線が少し揺れて、それから真正面にいたカエデを見つけた。

 

「……おはよう」

 

できるだけ、やさしく言う。

ゼニガメはすぐには反応しなかった。

ただ、そのままじっとカエデを見ている。

 

警戒しているのか、何を考えているのかは分からない。

でも、逃げようとはしなかった。

 

ジョーイが小さな器を持ってきた。

中には、水で少しやわらかくしたポケモンフードが入っている。

 

「食べられそうなら、少しだけあげてみましょう」

「……うん」

 

カエデは器を受け取って、診察台のすぐそばへ寄る。

いきなり近すぎないように、でもちゃんと見える位置でしゃがみ込んだ。

 

「……食べられる?」

 

小さく問いかける。

ゼニガメは器とカエデを見比べた。

それから、ほんの少しだけ顔をそむける。

 

「……だよね」

 

すぐには無理だろうと思っていた。

知らない人に囲まれて、助かったばかりで、すぐに安心なんてできるはずがない。

 

それでも、器はそのまま置いておく。

急かさない。

離れすぎない。

 

カエデはその距離のまま、そっと言った。

 

「昨日ね、河川敷で見つけたの」

ゼニガメは黙っている。

「コラッタに囲まれてて……すごく痛そうだった」

指先が少しだけ震える。

「でも、お前、逃げなかったよね」

 

ジョーイは黙って見守っていた。

ガーディもニドも、邪魔をしないように静かにしている。

 

「……すごいと思った」

カエデは続ける。

「怖かったはずなのに」

 

ゼニガメの目が、ほんの少しだけ揺れる。

言葉の意味を全部分かっているかは分からない。

でも、声はちゃんと届いている気がした。

 

しばらくして、ゼニガメがほんの少しだけ首を伸ばす。

器の匂いを嗅いで、またカエデを見る。

そして、恐る恐る、小さくひと口だけ食べた。

 

「……っ」

 

カエデの目が開く。

ジョーイも、ほっとしたように息をついた。

 

「えらい」

カエデは思わず笑ってしまう。

「えらいよ、ゼニガメ」

 

その言葉に、ゼニガメは一瞬だけ動きを止めた。

褒められること自体が、久しぶりだったのかもしれない。

あるいは、もう自分には関係ないものだと思っていたのかもしれない。

 

ゼニガメはもうひと口だけ食べた。

それ以上は進まなかったけれど、それでも昨日とは大違いだった。

 

ジョーイがそっと言う。

 

「十分ですよ。最初はそれくらいで」

カエデは頷く。

「……うん」

 

午前のあいだ、カエデはずっとゼニガメのそばにいた。

ジョーイの手伝いをして、水を替えたり、タオルを受け取ったり、食べられそうな時に少しだけ器を近づけたり。

大したことはしていない。

でも、離れたいとは思わなかった。

 

ガーディは途中で診察台の近くまで来て、じっとゼニガメを見つめていた。

ニドは最初こそ警戒していたけれど、カエデが大丈夫だと分かると、少し離れた場所で落ち着いていた。

 

「……お前たちも、気になるんだよね」

 

そう言うと、ガーディは小さく鳴く。

ニドはそっぽを向いたけれど、否定はしなかった。

 

昼前になると、ゼニガメは少しだけ自分で体を起こせるようになっていた。

まだふらついてはいるけれど、昨日みたいな力の抜け方じゃない。

 

カエデはその様子を見て、そっと笑う。

 

「……がんばってるね」

 

その時だった。

ゼニガメの視線が、ふとカエデの手元へ落ちる。

その先にあるのは、カエデがいつも握っている図鑑だった。

 

「……これ?」

カエデが少し持ち上げてみせると、ゼニガメの目が動く。

気になっているらしい。

 

カエデは少しだけ迷ってから、図鑑を開いた。

ゼニガメのページを表示する。

 

『ゼニガメ。かめのこポケモン。こうらにこもって、みをまもる。みずをあやつるのがとくいなポケモン』

 

機械音声が静かに響く。

ゼニガメは画面を見て、それからカエデの顔を見る。

その目に浮かんだものは、驚きだったのか、戸惑いだったのか、カエデにはまだよく分からなかった。

 

「……ゼニガメ、っていうんだよね」

カエデは画面を見ながら、やわらかく続ける。

「みずでっぽう、とか、からにこもる、とか……」

指先で技の欄をなぞる。

「ほんとは、いろいろできるんだ」

 

ゼニガメの目が、少しだけ揺れた。

 

できる。

その言葉が、痛かったのかもしれない。

あるいは、忘れかけていたのかもしれない。

 

ジョーイが後ろで小さく息をつく。

カエデは振り返らないまま、そっと続けた。

 

「……できなくてもいいよ、今は」

画面から目を上げて、ゼニガメを見る。

「今は休むのが仕事」

 

それは、自分にも言い聞かせるみたいな声だった。

 

しばらくの沈黙のあと、ゼニガメはほんの少しだけ顔を下げた。

それが頷きだったのか、ただ疲れただけなのかは分からない。

でもカエデは、ちゃんと届いた気がした。

 

午後になると、ゼニガメは少しだけ食べる量が増えた。

水も自分で飲めるようになってきて、診察台の端までならゆっくり歩ける。

 

カエデはそのたびに、あまり大げさにならないように気をつけながら、でもちゃんと声をかけた。

 

「……うん、えらい」

「だいじょうぶ。ゆっくりでいいよ」

「転ばないでね」

 

それらの言葉に、ゼニガメは最初、戸惑った顔ばかりしていた。

けれど少しずつ、警戒の色が薄くなっていく。

 

夕方近く、ジョーイが言った。

 

「もう少ししたら、部屋へ移してもよさそうですね」

「……ほんと?」

「ええ。完全に元気になるにはまだかかりますけど、看病しやすいように」

 

その言葉に、カエデは少しだけ目を瞬いた。

 

「……私の部屋、でも?」

ジョーイは微笑んだ。

「カエデさんが嫌でなければ」

 

嫌なわけがなかった。

むしろ、少しほっとした。

診察台の上で一匹きりにしておくより、そばにいたかったからだ。

 

ポケモンセンターの部屋へ移る時、ゼニガメは最初少しだけ身を固くした。

でも、カエデが先に歩いて、ガーディとニドも一緒だと分かると、逃げようとはしなかった。

 

部屋へ入って、やわらかい布を床に敷く。

その上へゼニガメを落ち着かせると、少しだけ周りを見回してから、ようやく体の力を抜いた。

 

ガーディは少し離れた位置で伏せて、ニドはその隣に座る。

二匹とも、今日は妙に静かだ。

 

「……ありがとね」

カエデは二匹を見てそう言う。

「お前たちがいてくれると、安心する」

 

ガーディは喉を鳴らし、ニドは少しだけ耳を揺らした。

 

それからカエデは、ゼニガメの前にしゃがみ込んだ。

 

「……ここ、少しは落ち着く?」

 

ゼニガメはすぐには答えない。

でも、昨日みたいに強張った目ではもう見てこない。

 

カエデはそっと手を差し出した。

無理に触らない。

いつものように、相手から来るのを待つ。

 

しばらくして。

ゼニガメはほんの少しだけ首を伸ばして、その指先の匂いを嗅いだ。

昨日より、ずっと長く。

 

そして、一瞬だけ、額の横を手へ軽く預けた。

 

「……っ」

 

カエデの息が止まる。

 

ほんの一瞬だった。

すぐにゼニガメは離れてしまったけれど、それでも逃げたわけじゃない。

ただ、自分でも何をしたのか分からないみたいに、少し気まずそうな顔で下を向いている。

 

「……うん」

カエデは目を細めた。

「それで、いいよ」

 

その言葉に、ゼニガメは黙ったまま、でも少しだけ肩の力を抜いた。

 

窓の外では、水の町の夕方がやわらかく色づいていた。

橋の向こうの水面がオレンジ色に光って、部屋の中へまでその色が差し込んでくる。

 

カエデはゼニガメのそばに座ったまま、そっと壁にもたれた。

ガーディとニドの気配。

ゼニガメの小さな呼吸。

それらが全部、同じ部屋の中にある。

 

「……もう、大丈夫だよ」

 

昨日より少しだけ、はっきり言えた。

 

捨てられたことは消えない。

傷ついたことも、簡単にはなくならない。

でも、少なくとも今は。

ここには追い払う人も、置いていく人もいない。

 

それを、ちゃんと伝えたかった。

 

ゼニガメは目を閉じる。

その顔はまだ少しだけ緊張していたけれど、昨日のような怯えとは違っていた。

 

カエデはその様子を見ながら、ゆっくり息を吐く。

 

今はまだ、それで十分だった。

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