朝、ハナダシティの光がカーテンの隙間からやわらかく差し込んでいた。
水の町の朝は静かだ。
窓の外から聞こえるのは、遠くの橋を渡る足音と、水路を流れる水の音くらい。
その穏やかな気配の中で、カエデはゆっくり目を開けた。
最初に視線が向いたのは、部屋の床に敷いた布の上だった。
ゼニガメは、昨日と同じ場所で丸くなっている。
でも、眠り方が少し違った。
甲羅にこもるみたいに固く縮こまっていた昨日までと違って、今は足が少しだけのびている。
呼吸も落ち着いていて、ひとつひとつが深い。
「……まだ寝てる」
小さく呟くと、ベッドのそばで丸くなっていたガーディが耳を動かした。
少し離れた場所では、ニドもゆっくり目を開ける。
「おはよ」
声をかけると、ガーディは喉を鳴らして、ニドは短く鳴いた。
二匹とも、ゼニガメを起こさないようにしているのが分かる。
カエデはそっとベッドを降りた。
急に大きな音を立てないように気をつけながら、顔を洗って、部屋の中を軽く整える。
それから床にしゃがみ込んで、ゼニガメの様子をもう一度見た。
まだ痩せてはいる。
傷も、完全に消えたわけじゃない。
でも、昨日よりずっと穏やかな顔だった。
「……よかった」
そう零した時、ゼニガメの瞼がぴくりと動く。
少しして、ゆっくり目が開いた。
寝起きのぼんやりした視線が、最初にカエデを捉える。
それからガーディ、ニドへと順番に動いて、またカエデへ戻ってきた。
逃げようとはしなかった。
「おはよう」
できるだけやさしく、いつも通りの声で言う。
ゼニガメは少しだけ瞬きをしたあと、昨日より遅くない動きで首を起こした。
まだ完全には元気じゃないけれど、自分の力で体を支えられている。
その様子に、胸の奥がふっとあたたかくなる。
「起きれたね」
思わず少し笑ってしまう。
「えらい」
その言葉に、ゼニガメの目がほんの少しだけ揺れた。
まだ慣れないのだろう。
褒められることも、やさしく声をかけられることも。
それでも、嫌がるように目をそらすことはしなかった。
朝食の時間になって、ジョーイが部屋を訪ねてきた。
トレーの上には、カエデたちの分の食事と、ゼニガメ用に少しやわらかくしたポケモンフードが載っている。
「おはようございます。どうですか?」
「……昨日より、だいぶ」
カエデがそう答えると、ジョーイも微笑んだ。
「顔つきが少し落ち着いてきましたね」
ゼニガメの前に器を置く。
ゼニガメはすぐには手をつけなかったけれど、昨日みたいに完全に固まることもなかった。
匂いを嗅いで、それからゆっくり、小さく口をつける。
ひと口。
少し間を置いて、もうひと口。
「……食べてる」
あまり大きな声を出したくなくて、でもうれしさを隠せなくて、そんな半端な声になる。
ジョーイは頷いた。
「少しずつ、ですね」
「……うん」
ガーディは自分の器を食べ終えてから、じっとゼニガメの方を見ていた。
ニドは食べながらも、ときどきそちらへ目を向ける。
昨日より明らかに、二匹ともゼニガメのことを“部屋にいるよく分からない子”じゃなく、“気になる相手”として見ているのが分かった。
食事が終わる頃には、ゼニガメの器は半分近く空になっていた。
「すごいね」
カエデがそう言うと、ゼニガメは少しだけ気まずそうに顔をそむける。
でも、その反応が昨日よりずっと幼くて、少しだけ年相応に見えた。
ジョーイが診察をしながら言う。
「だいぶ落ち着いていますし、今日は無理のない範囲で部屋の中を動いても大丈夫そうです」
「……ほんと?」
「ええ。ただし、嫌がることはしないでくださいね」
「うん」
ジョーイが部屋を出たあと、カエデはしばらく考えて、それから図鑑を手に取った。
赤い表紙を膝の上に置いて、ゼニガメの方を見る。
「……見る?」
そう聞くと、ゼニガメは少しだけ首を傾げた。
気になるらしい。
昨日も、その画面をじっと見ていた。
カエデはゼニガメのページを開いた。
『ゼニガメ。かめのこポケモン。こうらにこもって、みをまもる。みずをあやつるのがとくいなポケモン』
いつもの機械音声が静かに流れる。
ゼニガメはその画面と、カエデの顔を見比べた。
「みずでっぽう、とか」
カエデは技の欄を指先でなぞる。
「しっぽをふる、とか、からにこもる、とか」
そこで少しだけ笑う。
「なんか、ちゃんとゼニガメって感じだね」
ゼニガメは一瞬だけ目を丸くした。
その反応が可愛くて、カエデはもう少し声をやわらかくする。
「でも、今は使わなくていいよ」
そう言って、図鑑を少し閉じる。
「今は元気になる方が先だもんね」
しばらく沈黙があった。
部屋の中には、水路の音がかすかに届いている。
その静かな時間の中で、ゼニガメはゆっくりと立ち上がった。
まだ少しふらついている。
でも、昨日みたいに支えがないと無理な感じではない。
「……歩けるの?」
カエデが思わず声をかけると、ゼニガメは返事の代わりみたいに一歩進んだ。
それから、もう一歩。
ガーディがその様子を見て、そっと立ち上がる。
近づきすぎない距離で、ただ見ている。
ニドも耳を立てた。
ゼニガメは部屋の真ん中まで歩いてきて、そこで少しだけ止まった。
視線はまっすぐ前。
でも、行きたい場所があるというより、自分で動けることを確かめているみたいだった。
「……すごい」
カエデは思わず立ち上がりかけて、それから慌ててまたしゃがむ。
驚かせたくなかったからだ。
「ちゃんと歩けてる」
その言葉に、ゼニガメの肩がほんの少しだけ揺れる。
照れたのかもしれない。
褒められると、まだどうしていいか分からないのだろう。
その時、ガーディがゆっくり前へ出た。
ゼニガメの正面までは行かず、少し横の位置で止まる。
それから、くん、と短く鳴いた。
カエデは息を止めるみたいにその様子を見る。
ゼニガメは最初、びくっとして身を固くした。
でも、ガーディがそれ以上近づいてこないと分かると、じっとその顔を見る。
少しの沈黙のあと、ゼニガメもごく小さく鳴いた。
「……挨拶?」
思わずそう言うと、ガーディが少し得意そうにしっぽを揺らした。
その隣から、今度はニドが一歩だけ前へ出る。
でも、ガーディほど素直にはいかないらしく、少し遠回りしてゼニガメの横へ回るような動きだった。
ニドなりの警戒と気遣いが混ざっているのが分かる。
ゼニガメはまた少し身構えたけれど、逃げなかった。
ニドは数秒じっと見てから、小さく鼻を鳴らす。
それだけだった。
でも、その短い仕草が、ニドなりの“もう敵じゃない”の合図みたいに見えた。
「……よかった」
カエデの胸の奥がじんわりあたたかくなる。
誰かと打ち解けるのに、無理に言葉はいらないのかもしれない。
ただ、近くにいて、急がなくて、少しずつ距離を縮めていけばいい。
昼前、ゼニガメは少し疲れたのか、また布の上へ戻っていた。
でも今度は、昨日みたいに隅へ小さく縮こまるんじゃなくて、ガーディとニドの見える位置にいた。
それだけでも、カエデには大きな変化だった。
カエデは床へ座って、荷物袋の中からあの赤い布切れを取り出した。
河川敷で見つけた時から、ジョーイが外して洗っておいてくれたものだ。
首輪だったらしい跡は、見れば見るほど痛々しい。
ゼニガメの視線が、その布に向いた。
「……これ」
カエデは少し迷ってから言う。
「もう、いらないなら……捨ててもいいかな」
ゼニガメは黙っている。
その目の中に、分かりやすい答えはなかった。
でも、嫌がるようには見えなかった。
カエデは布を両手で持ったまま、ゆっくり続ける。
「無理に取っとかなくて、いいと思う」
喉の奥が少しだけ詰まる。
「つけてた人のこと、忘れろって意味じゃないよ」
自分でも、うまく言えているか分からない。
それでも言葉を探しながら、ちゃんと伝えたかった。
「でも……痛いものは、持ってなくてもいいから」
しばらくの沈黙のあと、ゼニガメは小さく目を伏せた。
それが頷きだったのかは分からない。
でも、カエデにはそう見えた。
「……そっか」
カエデはその布をきゅっと握ってから、部屋の隅のごみ箱へ捨てた。
小さな音がする。
それだけだった。
けれど、部屋の空気が少し変わった気がした。
戻ってくると、ゼニガメはまだこちらを見ている。
その目には昨日までの怯えだけじゃなくて、少しだけ戸惑いと、少しだけ安堵みたいなものが混ざっていた。
「だいじょうぶ」
カエデはまた、あの時みたいにそっと手を差し出す。
「急がなくていいから」
ゼニガメはしばらく迷っていた。
でも今日は、昨日よりずっと早かった。
ゆっくり首を伸ばして、指先の匂いを嗅ぐ。
それから、今度はほんの一瞬じゃなく、ちゃんと額を手に預けた。
「……っ」
カエデは息を呑む。
うれしいのに、驚かせたくなくて、声が出ない。
そっと、ほんとうにそっと、頭の横を撫でる。
ゼニガメは逃げなかった。
ガーディが喉を鳴らし、ニドが小さく鳴く。
その音に押されるみたいに、カエデの口元がやわらかくゆるむ。
「……ありがと」
それはたぶん、自分を少しだけ信じてくれたことへの言葉だった。
午後、ゼニガメは窓辺まで歩けるようになった。
部屋の外へはまだ出ない。
けれど窓の向こうを流れる水路を、じっと見ている時間が増えた。
「……水、好き?」
そう聞くと、ゼニガメは少しだけ顔を動かした。
好きかどうかは分からない。
でも、水を見る目は、さっき布を見ていた時よりずっと穏やかだった。
カエデはその隣へ座る。
「ハナダシティ、きれいだよね」
小さく言ってから、窓の外を見る。
「水がいっぱいあって、光も明るくて」
少しだけ笑う。
「ニドはちょっと苦手そうだけど」
その名前に、ニドが後ろで不満そうに鼻を鳴らした。
ガーディは面白そうにそれを見ている。
ゼニガメは、ほんの少しだけ目を細めた。
笑ったわけじゃない。
でも、昨日までよりずっと表情がやわらかい。
それだけで十分だった。
夕方、ジョーイが様子を見に来た時、ゼニガメが窓辺に座っているのを見て、驚いたように目を丸くした。
「すごいですね。こんなに落ち着くの、思っていたより早いです」
「……ほんと?」
「ええ。もちろん、まだ安心しきっているわけではないでしょうけど」
ジョーイはカエデを見て微笑む。
「ちゃんと、そばにいてくれる人がいるって分かってきたんでしょうね」
その言葉に、カエデは少しだけ目を伏せた。
そばにいる。
それだけしか、できていない気もする。
でも、それでいいなら、今はそれを続けたかった。
夜になる頃には、ゼニガメは昨日よりずっとしっかり食べていた。
量はまだ少なめだけど、自分から器へ顔を向ける。
その一つひとつが、カエデにはうれしかった。
部屋の灯りを落とす前、カエデは床へ座り込んで、ガーディとニド、それからゼニガメの顔を順番に見た。
「……今日は、ちょっと進んだね」
ガーディが短く鳴く。
ニドはいつもの少し照れた顔で耳を揺らす。
ゼニガメは、しばらく考えるみたいに沈黙してから、小さくひとつだけ鳴いた。
その声はまだ弱い。
でも、昨日よりずっとちゃんと、ここへ向いていた。
「……うん」
カエデはそっと笑う。
「また、明日ね」
水の町の夜は静かだった。
窓の外を流れる水の音と、部屋の中の小さな寝息が重なって、やわらかな時間をつくっていく。
捨てられた痛みがすぐ消えるわけじゃない。
それでも、少しずつ。
ほんの少しずつでも、ここへ来られるなら。
カエデはそう思いながら、ゆっくり目を閉じた。