誰にも祝われない旅立ち   作:ひよこ大福

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元気になった青い背中

朝、部屋の窓から差し込む光が、昨日までより少しだけ眩しく感じた。

 

ハナダシティの水路は今日もきらきらしていて、流れる音まで明るい。

カエデは目を開けて、いつものように最初に床の方を見た。

 

そこには、ゼニガメがいた。

 

布の上で丸くなって眠っていたはずのその子は、今日はもう起きていて、窓の方をじっと見ている。

昨日より背中がしっかりして見える。

甲羅の色も、少しだけつやを取り戻したみたいだった。

 

「……おはよう」

 

小さく声をかけると、ゼニガメが振り返る。

その目は、初めて会った時の怯えた色とはもうだいぶ違っていた。

警戒が消えたわけじゃない。

でも、少なくとも今のカエデを“怖いもの”としては見ていない。

 

ガーディもベッドのそばで起き上がり、ニドも壁際からゆっくり体を伸ばす。

三匹の気配が、もう自然に同じ部屋の中にある。

 

「……今日は、ちょっと顔つき違うね」

 

そう言ってしゃがみ込むと、ゼニガメは少しだけ首を傾げた。

カエデはそっと手を差し出す。

ゼニガメはもう迷わずにその匂いを嗅いで、それからほんの少しだけ額を預けてきた。

 

「……ふふ」

 

思わず頬がゆるむ。

昨日より長い。

触れ方も、少しだけやわらかい。

 

「お前、だいぶ元気になってる」

 

その声が聞こえたみたいに、ガーディが喉を鳴らして寄ってくる。

ニドも無言のまま近くまで来て、ゼニガメの様子をじっと見た。

 

朝食の時間になって、ジョーイが部屋を訪ねてきた。

トレーの上にはいつもの食事と、ゼニガメ用の器が載っている。

 

「おはようございます。今日は診察してみましょうか」

「……うん」

 

ゼニガメは最初こそ少しだけ体を固くしたけれど、昨日までみたいに強く身を引くことはなかった。

ジョーイの手が傷の跡を見て、甲羅の状態を確かめて、呼吸や体温を診る。

そのあいだ、カエデは少しだけ息を詰めて見守っていた。

 

やがてジョーイが顔を上げる。

 

「もう大丈夫ですね」

「……え」

思わず聞き返す。

ジョーイはやわらかく笑った。

「傷も塞がっていますし、衰弱もかなり戻っています。体はもう、ほとんど問題ありません」

その言葉が胸の中へ落ちてくるまで、ほんの少しだけ時間がかかった。

「……ほんと?」

「ええ。全快と言っていいと思います」

 

全快。

 

その言葉を聞いた瞬間、カエデの胸の奥がじんわり熱くなった。

最初に河川敷で見つけた時の、泥だらけで震えていた小さな体が頭に浮かぶ。

あの子が、今、全快したと言われている。

 

「……よかった」

 

それしか出てこなかった。

でも、その一言だけで十分なくらい、胸の中がいっぱいだった。

 

ジョーイはゼニガメの頭をやさしく撫でる。

 

「よく頑張りましたね」

ゼニガメは少しだけ目を細めた。

褒められることにまだ少し戸惑いはあるみたいだったけれど、それでも昨日までみたいに固まったりはしない。

 

ジョーイはカエデへ向き直る。

 

「体は元気になりました。でも……」

その続きを、カエデは少しだけ息を止めて待った。

「心の方は、無理に急がなくて大丈夫です」

「……うん」

その意味は分かっていた。

元気になったからって、すぐに全部が平気になるわけじゃない。

「でも、ここまで戻ってこれたのは、カエデさんたちがそばにいてくれたからですよ」

 

その言葉に、ガーディが小さく鳴く。

ニドも耳を揺らした。

カエデは二匹を見て、それからゼニガメへ目を戻す。

 

「……みんなで、だよ」

 

朝食のあと、ゼニガメは昨日までよりずっとしっかり食べた。

器を自分から覗き込んで、途中で止まることなく食べる。

その当たり前のことが、カエデにはたまらなくうれしい。

 

「すごいね」

そう言うと、ゼニガメは少しだけ気まずそうに顔をそむける。

でも、そのあとでもうひと口食べた。

 

「……ふふ。照れてるの?」

 

ガーディはそんなゼニガメの反応を面白がるみたいに見ていて、ニドは相変わらず少し離れたところから静かに観察していた。

でも、もう最初みたいな張りつめた空気はない。

同じ部屋で、同じ時間を過ごすことに、みんなが慣れてきている。

 

昼前、カエデは部屋の窓を少しだけ開けた。

外から入ってくる風はやわらかくて、水の匂いがする。

 

「……外、気になる?」

 

そう言ってゼニガメを見ると、その目が窓の方へ向く。

それだけで答えは分かった気がした。

 

カエデは少しだけ迷ってから、ジョーイに許可をもらいに行った。

軽く外の空気を吸うくらいなら大丈夫だと言われて、戻ってきた時には、自分まで少しそわそわしていた。

 

「……じゃあ、ちょっとだけ行ってみよっか」

 

ガーディはすぐに立ち上がる。

ニドはやや慎重な顔をしつつも、ちゃんとそのあとへ続く。

ゼニガメは最初、部屋の入口で少しだけ足を止めた。

 

カエデは振り返って、その目を見た。

 

「だいじょうぶ」

小さく言う。

「すぐ戻れるし、嫌なら戻っていいから」

 

ゼニガメはしばらく迷って、それからゆっくり一歩を踏み出した。

 

ポケモンセンターの裏手には、小さな水辺のある休憩スペースがあった。

川ほど広くはないけれど、浅い水が流れていて、日向の石もある。

ジョーイが、落ち着いたポケモンを少し外へ出す時に使うこともある場所らしかった。

 

そこへ出た瞬間、ゼニガメの足が止まる。

 

水が、光っている。

その揺れる青を、ゼニガメはじっと見ていた。

 

カエデは何も言わず、少し離れた場所に立つ。

ガーディも今日は前へ出すぎず、ニドも珍しく静かだった。

 

しばらくして。

ゼニガメが、ほんの少しだけ前へ進む。

水辺まで行って、しゃがみ込むようにして水面を見る。

それから、そっと前足を入れた。

 

小さな波紋が広がる。

 

ゼニガメの目が、わずかに見開かれる。

 

「……」

 

言葉は出なかった。

でも、その顔には怯えよりも、懐かしさみたいなものが浮かんでいた。

 

もう片方の前足も入る。

それから、少しだけ体を近づける。

やがて、ゼニガメはするりと浅い水の中へ入った。

 

「……っ」

 

カエデは思わず息を呑む。

ゼニガメは浅瀬の中でじっとしていたけれど、少しずつ肩の力を抜いていく。

水が好きなのだと、一目で分かった。

怖い思いも、つらいこともあったはずなのに、それでもその体は水をちゃんと覚えている。

 

ガーディが少し羨ましそうに前へ出る。

ニドは逆に、水から少し距離を取った。

 

「……お前は好きなんだね」

カエデがそう言うと、ゼニガメはほんの少しだけ振り返った。

それは、今まででいちばん自然な顔だった。

 

カエデはそのまま、その子が水の中で少しずつ動くのを見ていた。

浅瀬を歩いて、くるっと向きを変えて、もう一度水面を見る。

ほんのわずかだけど、その動きは昨日までの弱った子とは違っていた。

 

「……よかった」

ぽつりと零す。

「ほんとに、元気になったんだね」

 

その時だった。

ゼニガメが少しだけ深いところへ行って、ふっと顔を上げる。

次の瞬間、小さな水の弾がぴゅっと飛んだ。

 

「わ……っ」

 

カエデの頬に、ひんやりしたしずくが当たる。

 

一瞬、何が起きたのか分からなかった。

でも、水面の向こうで、ゼニガメが少しだけ目を丸くしている。

自分でも無意識だったのかもしれない。

それでも、その口元には、かすかな自信みたいなものがあった。

 

「……みずでっぽう」

 

カエデは目を瞬いて、それから思わず笑った。

 

「できるじゃん」

 

その言葉に、ゼニガメの肩がぴくっと揺れる。

照れたのか、すぐに水面の方へ顔をそらした。

でも、嫌そうではなかった。

 

ガーディが負けじと鳴く。

ニドも、少しだけ身を乗り出す。

 

「分かってるって」

カエデは笑いながら二匹を見る。

「お前たちもすごいよ」

 

そのあと、ほんの少しだけ賑やかな時間になった。

ガーディは水辺ぎりぎりまで行って、跳ねるしずくにじゃれるみたいに動く。

ニドは相変わらず濡れるのは嫌そうだったけれど、それでも前よりは近づけるようになっていた。

ゼニガメは浅い水の中を動きながら、ときどきカエデたちの方を見る。

 

その視線は、もう“ここにいていいのか確かめる目”じゃなかった。

“ここにいる”ことを、少しずつ受け入れ始めた目だった。

 

午後、部屋へ戻ると、ゼニガメは自分から水を飲んで、食事もきちんと食べた。

ガーディと並んでいても、ニドが近くにいても、必要以上に身を固くしない。

その変化が、あまりにも自然で、カエデは何度も目で追ってしまう。

 

「……全快、なんだね」

 

あらためてそう呟く。

言葉にすると、やっぱり少しだけ信じられなかった。

でも、目の前にいるゼニガメは、ちゃんとそこにいる。

元気になった体で、部屋の中を歩いている。

 

夕方、ジョーイが様子を見に来た時も、ゼニガメは落ち着いたままだった。

診察の結果をもう一度聞いて、問題なしと言われる。

それでようやく、本当に一区切りなんだと思えた。

 

「……ありがとうございます」

カエデが頭を下げると、ジョーイはやさしく笑う。

「元気になってよかったですね」

「……うん」

 

よかった。

その一言が、今日は何度でも胸に落ちてくる。

 

夜、部屋の灯りを少し落としたあと、カエデは床に座り込んだ。

ガーディはすぐそばで丸くなり、ニドは少し離れたところで伏せている。

ゼニガメは窓辺から戻ってきて、カエデの手が届く場所に座った。

 

「……ねえ」

 

小さく呼ぶ。

ゼニガメが顔を上げる。

 

「元気になって、よかった」

その言葉は、昼間よりずっと静かだった。

「ほんとに」

 

ゼニガメはじっと見ている。

それから、ゆっくりと近づいてきた。

そして、今度は昨日みたいに一瞬じゃなく、自然にカエデの膝へ額を預ける。

 

「……っ」

 

カエデは息を呑んで、それからそっと頭を撫でた。

ゼニガメはそのまま動かない。

逃げない。

力も抜けている。

 

ガーディが喉を鳴らす。

ニドも、小さくひとつ鳴いた。

 

カエデは三匹を見て、やわらかく笑う。

 

「……今日は、ほんとにいい日だね」

 

水の町の夜は静かだった。

窓の向こうでは、水路が月の光を細く返している。

 

捨てられて、傷ついて、ひとりでいたゼニガメは、もうここで眠れる。

それが全部解決したわけじゃない。

でも、少なくとも今は、ちゃんと元気だと言える。

 

カエデはゼニガメの頭を撫でながら、ゆっくり目を細めた。

 

今日だけは、全快っていう言葉を、そのまま信じてよかった。

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