朝、目を覚ました時、部屋の中にはやわらかな光が満ちていた。
ハナダシティの朝はいつも水の音と一緒に来る。
窓の外を流れる水路の音が静かに響いていて、それだけでこの町らしいと思う。
カエデは布団の中で少しだけ目を細めてから、ゆっくり体を起こした。
最初に目に入ったのは、床の上だった。
ガーディはベッドのそばで丸くなっていて、ニドは少し離れたところで静かに眠っている。
そしてゼニガメは、昨日まで自分の布の上で休んでいた場所じゃなく、窓の近くで伏せていた。
「……おはよう」
小さく声をかけると、ゼニガメが振り返る。
その目はもう、最初に会った時みたいなひどい怯えをほとんど残していなかった。
警戒が全部なくなったわけじゃない。
でも、少なくとも今のカエデを見て身を固くすることはない。
ガーディも耳を動かして起き上がり、ニドも遅れて目を開ける。
三匹の視線がカエデへ集まる。
「……みんな、おはよ」
そう言ってから、少しだけ息を吐く。
昨日、ジョーイに全快だと言われた。
ゼニガメはもう歩けるし、食べられるし、ちゃんと元気になった。
だから、本当ならもう、ここで一区切りなのだと思う。
でも、カエデの胸の中には、昨日の夜からずっと残っていることがあった。
朝食を済ませてから、ジョーイに挨拶をしに行く。
ハナダシティのジョーイは、いつものやわらかい笑顔で迎えてくれた。
「おはようございます。ゼニガメちゃんの様子はどうですか?」
「……元気」
そう答えてから、カエデは少しだけ迷う。
「元気、なんだけど……」
ジョーイはその先を急かさずに待ってくれた。
カエデは受付の前で指先を少しだけ握る。
「この子、これから……どうなるのかな」
ようやくそれだけ言う。
ジョーイは少しだけ目を伏せた。
それから、静かに答える。
「本来なら、捨てた元のトレーナーを探す、という形もあります」
カエデの胸が小さく冷える。
でもジョーイはすぐに続けた。
「でも……首輪の跡や状態を見る限り、わざと手放された可能性が高いです」
「……うん」
「それに、こういうケースで戻しても、また同じことになる場合があります」
分かっていたことだった。
でも、ちゃんと口にされるとやっぱり苦しい。
「ポケモンセンターで一時的に預かることはできます」
ジョーイの声はやわらかい。
「保護先を探すこともできますし、場合によっては、新しいトレーナーと出会うこともあります」
そこで少しだけ微笑む。
「もちろん、この子自身の気持ちも大事ですけど」
その言葉に、カエデは少しだけ視線を落とした。
新しいトレーナー。
保護先。
どれも間違ってはいない。
きっと、安心できる場所もあるのだと思う。
でも。
「……誰かのところに行くまで、ここにいるの?」
「そうなりますね」
「……そっか」
それ以上は聞けなかった。
ガーディが足元に鼻先を寄せる。
ニドも、黙ったまま近くにいる。
ジョーイは少しだけカエデを見てから、静かに言った。
「焦って決めることじゃありませんよ」
「……うん」
「でも、カエデさんがその子のことを大事に思っているのは、見ていて分かります」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
カエデは小さく頭を下げて、部屋へ戻った。
部屋の中では、ゼニガメが窓辺からこちらを見ていた。
今朝の光を受けた甲羅は、最初に見た時よりずっときれいに見える。
「……ちょっと、外行こっか」
そう声をかけると、ガーディがすぐに鳴いた。
ニドも耳を動かす。
ゼニガメは少しだけ首を傾げたけれど、嫌そうではなかった。
ポケモンセンターの裏手にある水辺は、今日も静かだった。
浅い水が流れていて、陽射しを受けた水面が細かくきらめいている。
ゼニガメはそこへ来ると、迷うことなく水の近くまで歩いていった。
それだけで、カエデは少しだけほっとする。
この子はもう、水を見て怯えることはない。
ガーディは相変わらず水辺ぎりぎりで楽しそうにしていて、ニドは少し離れた乾いた場所を選んでいた。
三匹それぞれが、もう何となく自然にここにいる。
カエデは水辺の石の上へ座った。
風が頬を撫でて、水の音が静かに続いている。
「……ねえ」
小さく呼ぶと、ゼニガメが振り返る。
ガーディも、ニドも、こっちを見る。
言おうと思っていたのに、いざ口にしようとすると少しだけ怖かった。
でも、ここで言わなかったら、たぶんずっと引っかかる気がした。
「お前、元気になったでしょ」
そう言って、ゼニガメを見る。
「だから……もう、ちゃんと自分で歩けるし」
その先の言葉を探しながら、視線を少し落とす。
「本当なら、どこか別の場所に行っても……大丈夫なんだと思う」
ゼニガメは黙っている。
でも、その目は逸らさない。
「ジョーイさんがね、保護先を探すこともできるって言ってた」
言いながら、自分の声が少しだけ頼りなくなるのが分かった。
「だから、ここにいてもいいし……」
そこまで言って、カエデは一度、唇を結んだ。
違う。
それだけじゃない。
本当に言いたいことを、そのまま言わなきゃいけない。
カエデはゆっくり顔を上げる。
ゼニガメの目を見る。
「……でも」
小さく息を吸う。
「お前が嫌じゃなかったら、一緒に来てほしい」
言った瞬間、胸がどきっと大きく鳴った。
ガーディが耳を立てる。
ニドも、少しだけ体を起こした。
ゼニガメは動かない。
ただ、じっとカエデを見ている。
「無理にじゃないよ」
カエデは急いで続ける。
「ちゃんと元気になったから、私とじゃなくてもいいの」
声が少しだけ震える。
「でも……」
その先は、思っていたよりずっと簡単に出てきた。
「私は、お前と一緒に行きたい」
河川敷で見た、傷だらけの小さな体。
誰も助けてくれないのが当たり前みたいに、それでも踏ん張っていた姿。
ポケモンセンターの部屋で、少しずつここへ来てくれたこと。
その全部が胸の中にあった。
「旅の途中だから、ずっと安全な場所とは言えないかもしれない」
カエデは正直に言う。
「ジムもあるし、知らない町にも行くし、たぶん大変なこともある」
ガーディとニドを見る。
「でも、この子たちもいる」
それからもう一度、ゼニガメへ視線を戻す。
「一人にはしない」
静かな水の音だけが聞こえる。
ガーディはカエデの言葉を聞き終えると、ゼニガメの方へ歩いていった。
すぐ近くまでは行かない。
でも、少し前で止まって、くん、と短く鳴く。
その声は、カエデにはすぐ分かった。
来いよ。
たぶん、そんな意味だ。
ニドは少しだけ遅れて動いた。
相変わらず素直じゃない足取りで、でもゼニガメの横の方へ回り込む。
それから、小さく鼻を鳴らした。
それもきっと、ニドなりの合図だった。
ゼニガメはしばらく動かなかった。
水面が揺れて、その光が青い体に映る。
その中で、ゼニガメの目だけが少しずつ揺れていた。
やがて。
ゆっくり、ほんとうにゆっくりと、ゼニガメが歩き出す。
カエデの方へ。
心臓がまた大きく鳴る。
動かない。
手を伸ばしすぎない。
ただ、来てくれるのを待つ。
ゼニガメはカエデのすぐ前まで来ると、一度だけ立ち止まった。
それから、ためらうように、でも確かに、カエデの膝へ前足をかける。
「……っ」
思わず息を呑む。
ゼニガメはそのまま、顔を上げてカエデを見た。
その目にあるのは、怯えじゃなかった。
まだ少し不安はある。
でも、それ以上に、ちゃんと自分で決めようとしている目だった。
カエデはゆっくり手を差し出す。
「……来てくれるの?」
小さく、確かめるように聞く。
ゼニガメは声の代わりみたいに、額をその手に預けた。
昨日までよりずっと自然に、ずっと長く。
そして、もう片方の前足もカエデの膝へ乗せる。
「……そっか」
その一言が、少しだけかすれる。
ガーディが嬉しそうに鳴いた。
ニドも小さく声を上げる。
カエデはもう片方の手も伸ばして、ゼニガメの頭をそっと撫でた。
「ありがとう」
ありがとう、が正しい気がした。
来てくれて。
信じてくれて。
また誰かと一緒に歩く方を選んでくれて。
カエデは目を細めたまま、少し笑う。
「じゃあ……一緒に行こう」
そう言って、少しだけ首を傾げる。
「でも、そのままずっとゼニガメって呼ぶのも、なんか変かな」
ガーディが反応するように耳を動かし、ニドも少しだけ近づく。
名前の話だと分かったらしい。
カエデは少し考える。
青い体。
水。
でも、ただ見たままの名前は違う気がした。
この子が河川敷で一人で踏ん張っていた姿を思い出す。
傷ついていても、逃げずに立っていた姿。
「……スイ」
口にしてみる。
ゼニガメが少しだけ目を瞬く。
「水の“スイ”」
カエデは少しだけ照れくさくなりながら続ける。
「ハナダで会ったし、お前、水が好きそうだし……」
ゼニガメ……スイは、しばらく黙ってカエデを見ていた。
それから、小さく鳴いた。
「……いいの?」
今度は、ほんの少しだけはっきりした声が返る。
「そっか」
カエデはふっと笑う。
「じゃあ、今日からスイだね」
ガーディが元気よく鳴く。
ニドは少しだけ得意そうに胸を張った。
仲間が増えたことを、ちゃんと分かっているみたいだった。
そのあと、四匹で少しだけ水辺にいた。
スイは浅いところへ入って、前よりずっと自由に動いた。
ガーディはその近くではしゃぎすぎないようにしながら嬉しそうで、ニドは相変わらず濡れない位置から見守っていた。
カエデはその様子を見ながら、水辺の石の上に座っていた。
マサラタウンを出た時は、こんなふうに誰かと一緒に座って、誰かに来てほしいって口にできるなんて思っていなかった。
一人でいる方が当たり前で、何かを望む方が怖かった。
でも今は、ちゃんと望めた。
一緒に来てほしいって、言えた。
それが叶ったことが、胸の中で静かにあたたかかった。
ポケモンセンターへ戻る帰り道、スイは最初こそ少しだけ周りを気にしていたけれど、逃げようとはしなかった。
ガーディの隣を歩いて、時々ニドの方を見る。
ニドは気づかないふりをしていたけれど、歩幅を少しだけ合わせていた。
部屋へ戻ってから、カエデは荷物袋の中身を広げた。
図鑑、ボール、食べ物、薬、ランタン。
旅に必要なものたち。
そこへ、スイのボールがひとつ加わる。
それを見た瞬間、胸の奥がじんわり熱くなる。
「……ほんとに、増えたね」
そう呟くと、ガーディがすぐに鳴く。
ニドも短く声を返す。
スイは少しだけ不思議そうにしてから、小さく鳴いた。
カエデは三匹を見て、やわらかく笑った。
「明日から、またちゃんと考えなきゃ」
そう言って、スイの頭を撫でる。
「ハナダジムのこともあるし」
ガーディを見る。
「お前は、お水の練習」
ニドを見る。
「ニドも、ちょっとずつ」
最後にスイを見る。
「スイは……まず、ここに慣れることかな」
スイはその言葉を聞いているのかいないのか、じっとカエデを見ていた。
でも、その目にはもう、最初のころの遠さはほとんどなかった。
夜、水の町の静けさが部屋を包むころ。
カエデはベッドの上に座って、床の三匹を見下ろしていた。
ガーディ。
ニド。
スイ。
三つの気配が、ちゃんとこの部屋にある。
「……一緒に行こうって、言ってよかった」
それは誰に聞かせるでもない、小さな独り言だった。
でも、ガーディが喉を鳴らして、ニドが耳を揺らして、スイが少しだけ顔を上げる。
それだけで、返事は十分だった。
カエデは灯りを落として、ゆっくり横になる。
窓の外では、水路が月の光を返している。
捨てられて、傷ついて、ひとりだったゼニガメは、もう“ひとりでいた子”じゃない。
今はもう、スイとして、ここにいる。
そのことが、今日は何よりもうれしかった。