誰にも祝われない旅立ち   作:ひよこ大福

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いまさらの名前

ハナダシティの朝は、今日も水の音と一緒に始まった。

 

窓の外を流れる水路が朝日を受けてきらきらしている。

部屋の中にもやわらかな光が差し込んでいて、ポケモンセンターの白い壁を淡く照らしていた。

 

カエデは目を覚まして、しばらくぼんやり天井を見ていた。

ベッドのそばではガーディが丸くなっていて、少し離れた場所にはニド、窓の近くにはスイがいる。

 

三匹。

 

その並びを見た時、不意に胸の奥で何かが引っかかった。

 

「……あ」

 

小さく声が漏れる。

 

ニド。

スイ。

 

二匹には、もうちゃんと呼び方がある。

けれど、一番最初から隣にいたこの子だけ、ずっと“ガーディ”のままだった。

 

カエデはゆっくり体を起こす。

その気配で、ガーディが先に目を開けた。

眠そうに耳を動かしてから、すぐに立ち上がってベッドのそばまで来る。

 

「……おはよ」

 

そう言って頭を撫でると、いつものように喉を鳴らす。

それがあまりにも自然で、カエデは少しだけ困ったように目を細めた。

 

「……お前だけ、ずっとそのままだったね」

 

ガーディは首を傾げる。

何の話か分からない、と顔に書いてあるみたいだった。

 

ニドも起きたらしく、少し離れたところからこちらを見ている。

スイも窓辺から振り返って、小さく瞬きをした。

 

「ニドも、スイも……ちゃんと名前、あるのに」

ぽつりと続ける。

「お前だけ、ずっとガーディって呼んでた」

 

言葉にしてみると、自分でも少し不思議だった。

一番最初に出会って、一番長く一緒にいるのに。

どうして今まで、ちゃんと名前をつけなかったんだろう。

 

朝食を食べに行っているあいだも、そのことが頭から離れなかった。

食堂の席でスープを飲みながら、カエデは何度もガーディの方を見てしまう。

 

「……なんでだろ」

 

ぽつりと零すと、ガーディが器から顔を上げる。

ニドは少し怪訝そうに耳を揺らし、スイは静かにこちらを見た。

 

「別に、考えてなかったわけじゃないの」

カエデは小さく言う。

「つけようかなって、思ったことはあったんだよ」

そこで少しだけ目を伏せる。

「でも……なんか、つけないままここまで来ちゃった」

 

本当は、理由が少しだけ分かっていた。

 

森で初めて出会った時、この子はまだ“自分のもの”なんかじゃなかった。

ただ、森で会う子。

たまに隣にいてくれる子。

それだけだった。

 

それに、あの頃のカエデは、何かに名前をつけることが少し怖かったのかもしれない。

名前をつけたら、大事になる。

大事になったら、失った時が怖い。

そんなふうに、どこかで思っていたのだと思う。

 

でも今は違う。

 

この子は最初からずっと隣にいた。

旅に出る前も、出てからも。

誰もいなかった時から、ずっと。

 

部屋へ戻ってから、カエデはベッドの端に腰を下ろした。

ガーディはすぐにその足元へ来る。

ニドとスイも、何となく空気を読んでいるのか、少し離れた場所で静かにしていた。

 

「……ねえ」

 

カエデが呼ぶと、ガーディが顔を上げる。

 

「お前にも、名前つけたい」

ちゃんと言葉にする。

「いまさらだけど」

 

ガーディは一瞬きょとんとしたあと、少しだけ耳を立てた。

嫌そうではない。

でも、まだよく分かっていない顔だった。

 

「ずっと、ガーディって呼んでたから」

カエデはそっと頭を撫でる。

「今さらすぎるかなって思ったんだけど……でも、ちゃんと呼びたい」

 

その言葉に、ガーディは小さく喉を鳴らした。

それは、たぶん嫌じゃないって意味だった。

 

「……考えてたの」

カエデは少しだけ照れくさくなって、目を逸らしそうになるのをこらえる。

「お前、色違いでしょ。毛の色、すごくきれいだし」

そう言いながら、指先で背中の毛をそっと撫でる。

朝の光の中で見ると、その色はただ明るいだけじゃなくて、少しだけ透けるようなあたたかさがあった。

 

最初に森で見つけた時も、綺麗だと思った。

でもそれ以上に、この子のあたたかさに何度も助けられてきた。

 

寒い朝も。

ひとりでいるしかなかった夜も。

旅に出てからの不安も。

 

この子はずっと、火みたいにあたたかかった。

 

「……コハク」

 

小さく、その名前を口にする。

 

ガーディが耳をぴくりと動かした。

ニドも、スイも、静かにこちらを見ている。

 

「琥珀の色、っていうか」

カエデは少し慌てて続ける。

「お前の毛の色にも似てるし、あったかい感じがするから」

言いながら、だんだん恥ずかしくなってくる。

「あと、綺麗なのに、ちゃんと強い感じも……あるし」

 

そこまで言って、カエデは少し口をつぐんだ。

なんだか言い訳みたいになってしまった気がしたからだ。

 

「……変かな」

 

小さくそう聞く。

 

ガーディ――まだガーディだけど、その子はしばらくカエデの顔を見ていた。

それから、ゆっくりと顔を近づけて、カエデの膝へ鼻先を押しつける。

 

「……っ」

 

カエデの目が少しだけ開く。

そのまま見ていると、今度はいつもより少しだけ強めに、ぐい、と押しつけてきた。

 

「わ、ちょっと……」

少しよろけそうになって、でも思わず笑う。

「それ、いいってこと?」

 

その問いに応えるみたいに、大きめの声でひとつ鳴いた。

 

ガーディの、いや。

 

「……コハク」

 

呼んでみる。

その瞬間、耳がぴんと立った。

 

「……あ」

カエデは目を瞬かせる。

「今、分かった?」

 

もう一度、少しだけはっきり言う。

 

「コハク」

 

今度は迷いなく、嬉しそうに鳴き返してきた。

 

「……そっか」

 

その一言が、少しかすれる。

うれしかった。

思っていたよりずっと。

 

ニドが短く鳴く。

スイも、小さく声を返した。

二匹とも、新しい名前が決まったことを分かっているみたいだった。

 

カエデはコハクの頭を両手で包むみたいに撫でる。

 

「今まで、ずっとガーディって呼んでてごめんね」

そう言うと、コハクは全然気にしていないみたいに喉を鳴らした。

「でも、今日からはちゃんと呼ぶ」

目を細めて、その顔を見つめる。

「コハク」

 

呼ぶたびに、胸の奥へその名前がすっと落ちていく。

まるで最初から、ここにあったみたいに自然だった。

 

しばらくして、四匹で少しだけ外へ出た。

ポケモンセンターの裏手の水辺。

朝の光を受けてきらめくそこを、スイは気持ちよさそうに眺めている。

ニドは相変わらず少し水から距離を取っていて、コハクはその真ん中で機嫌よく歩いていた。

 

「コハク」

 

カエデが呼ぶ。

すると、すぐに振り返る。

 

「……ふふ」

 

それだけなのに、少し笑ってしまう。

何度も呼びたくなる。

今までずっと隣にいた子なのに、ちゃんと名前で呼ぶだけで、少しだけ世界が変わる気がした。

 

「コハク、こっち」

また呼ぶと、今度は嬉しそうに駆け寄ってくる。

ニドがそれを見て、少しだけ呆れたみたいに耳を揺らした。

スイも、水辺から顔を上げてこちらを見る。

 

「……お前、分かりやすいね」

 

カエデがそう言って笑うと、コハクは胸を張った。

その仕草が可愛くて、カエデはしゃがみ込んで頭を撫でる。

 

「でも、似合ってる」

そっと言う。

「やっぱり、コハクだ」

 

それから少しだけ、胸の奥に残っていた言葉を口にした。

 

「……名前、つけるの怖かったのかもしれない」

 

コハクの耳が動く。

ニドも、スイも、静かにしている。

 

「大事になるの、分かってたから」

水面に目を向けながら、ぽつりと続ける。

「大事って思ったら、いなくなった時、怖いから」

言いながら、自分でその言葉の重さに少しだけ驚く。

でも、もう隠す必要もない気がした。

 

コハクは何も言わない。

ただ、カエデの手の下でじっとしている。

 

「でも……もういいやって思った」

目を閉じて、小さく息を吐く。

「怖くても、ちゃんと大事にしたい」

それから、コハクの顔を見る。

「お前は、最初からずっとそうだったもんね」

 

森で出会った日から。

ボロ屋の朝も、旅立ちの日も、トキワの森も、ニビジムも、ハナダまでの道も。

コハクはずっと隣にいた。

 

その事実に、今さら名前を与えるんじゃなくて。

本当は、ようやく自分の気持ちが追いついただけなのかもしれない。

 

「……ありがとう、コハク」

 

そう言うと、コハクはいつもみたいに喉を鳴らして、カエデの肩口へ鼻先を押しつけてきた。

少しだけ前足までかけられて、カエデは思わず笑う。

 

「重いって……」

言いながらも、声はやわらかい。

「でも、うれしい」

 

その様子を見て、ニドが小さく鼻を鳴らす。

スイも、水辺から上がってきて少しだけ近くへ寄る。

四匹が自然に同じ場所に集まっている。

 

それが、たまらなくあたたかかった。

 

昼過ぎ、部屋へ戻ってからも、カエデは何度もその名前を口にした。

 

「コハク」

呼ぶたびに、ちゃんと反応が返る。

「コハク、こっち」

来る。

「コハク、待って」

止まる。

「……コハク」

それだけで、嬉しそうに鳴く。

 

「……ほんとに、気に入ったんだね」

 

カエデがそう言うと、コハクは得意そうに胸を張った。

ニドは少しだけあきれた顔をしていて、スイは静かに見ている。

でも、二匹ともどこか認めているみたいな空気だった。

 

夜、灯りを落とす前。

カエデはベッドの上に座って、床の三匹を見下ろした。

 

ニド。

スイ。

そして、コハク。

 

それぞれの名前を胸の中で順番に呼ぶ。

どの名前も、ちゃんとその子の顔と結びついている。

 

「……今日で、やっと揃ったね」

 

小さくそう呟くと、ニドが耳を揺らし、スイが少しだけ顔を上げる。

そしてコハクは、まるでそれを待っていたみたいに鳴いた。

 

カエデは思わず目を細める。

 

「うん。お前のこと」

そっと、やわらかく言う。

「これからは、ちゃんと名前で呼ぶからね」

 

その言葉に、コハクは安心したみたいに丸くなる。

ニドも、スイも、それぞれの場所で目を閉じる。

 

水の町の夜は、今日も静かだった。

窓の外では水路が月の光を返している。

 

カエデは布団の中で目を閉じながら、もう一度だけ心の中でその名前を呼んだ。

 

コハク。

 

ようやく形になったその名前は、思っていたよりずっとあたたかかった。

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