翌朝、ハナダシティの空は少しだけ白く霞んでいた。
窓の外を流れる水路は変わらず明るいのに、風は昨日より少し冷たい。
カエデは目を覚ましてから、しばらく天井を見つめていた。
ハナダジムのことを考えると、胸の奥がまだ少しだけ落ち着かない。
でも、ただ怖がっているだけじゃだめだとも思う。
「……今日は、ちゃんと特訓しよっか」
小さくそう言うと、床で丸くなっていたコハクがすぐに耳を立てた。
ニドも顔を上げて、まだ少し眠たそうな目でこちらを見る。
窓の近くにいたスイも、ゆっくり振り返った。
「スイも、だよ」
カエデがそう続けると、スイは少しだけ目を瞬いた。
「ハナダジムに行くなら、お前にも一緒に考えてほしいの」
その言葉に、スイはしばらく黙っていた。
でも、嫌そうにはしなかった。
それだけで、カエデは少しだけほっとする。
朝食を済ませたあと、四人でポケモンセンターの裏手の水辺へ向かった。
もう見慣れてきた浅い流れと、日向の石。
ニドにとってはまだ少し苦手な場所で、コハクにとっては楽しい場所。
そしてスイにとっては、少しずつ自分を取り戻してきた場所だ。
「……よし」
カエデは水辺の前で立ち止まる。
図鑑を開いて、昨日までに考えていたことを頭の中で並べ直した。
「ハナダジムは、水の中とか、水の近くで動く相手が多いと思う」
そう言いながら、三匹の顔を順番に見る。
「だから、今日は三人とも別々に練習したい」
コハクがやる気いっぱいみたいに鳴く。
ニドは少し緊張した顔で耳を揺らし、スイは静かに待っていた。
「まず、コハク」
名前を呼ぶと、すぐに前へ出る。
「お前は火の技があるけど、水相手だとそこに頼りすぎない方がいいと思うの」
コハクは真剣な顔で聞いている。
「だから、今日は速さと動き」
カエデは水辺に点々と並ぶ平たい石を指さした。
「そこを踏み外さないで移動するの。止まる時も、すぐ向きを変える時も、ちゃんと足を使って」
コハクは石を見る。
それからカエデを見て、すぐに頷くように鳴いた。
「うん、お願い」
コハクは水際へ飛び出した。
最初の石へ軽く乗って、次の石へ移る。
その動きは軽いけれど、勢いのまま行くと濡れた石で滑りそうになる。
一度前足を取られて、慌てて踏ん張る。
「止まって!」
カエデが声をかける。
コハクがその場で動きを止めた。
「今の感じ。そこ、滑りやすいから、飛ぶ前にちゃんと見て」
コハクは石を見下ろしてから、もう一度足場を確かめるみたいに前足を置き直した。
「うん。それでいいよ」
次はニドだった。
「ニドは……」
名前を呼ぶと、少しだけ身構える。
「今日は水に入らなくていい」
その言葉に、ニドの耳がぴくっと動く。
「でも、水辺の近くでちゃんと戦えるようにはなってほしいの」
ニドはまだ少しだけ警戒していたけれど、逃げはしなかった。
カエデは岸辺の少し湿った場所に、小石をいくつか並べた。
「ここを走って、向こうの木の枝をつつく」
そう言って少し先に落ちていた細い枝を指さす。
「濡れた地面で足が滑っても、そこで止まらないで、すぐに次の動きに繋げる練習」
ニドは地面を見る。
乾いた場所と湿った場所の違いを見ているのが分かった。
「だいじょうぶ。無理ならすぐやめるから」
そう言ってしゃがみ込み、目線を合わせる。
「でも、お前ならちゃんと見て動けるでしょ」
その言葉に、ニドの目が少しだけ変わる。
照れたような、でもやるしかないみたいな顔になる。
「……うん。お願い」
ニドは細い足で地面を蹴った。
最初は慎重すぎるくらいだった。
湿った土へ足を乗せるたびに、ぎゅっと体を固くしているのが分かる。
それでも枝の前までたどり着いて、つつくを入れて戻ってくる。
「すごい」
カエデは思わず笑う。
「ちゃんとできてる」
ニドは戻ってきてから、少しだけ得意そうに胸を張った。
でも、まだ二回目は気が重いらしい。
その顔が分かりやすくて、カエデは少しだけ頬をゆるめた。
最後に、スイを見る。
スイはずっと静かに川の流れを見ていた。
水辺に立つ姿は、もう最初みたいな怯えた感じじゃない。
でも、“戦う”となるとまた別なのかもしれないと、カエデは思った。
「スイ」
名前を呼ぶ。
スイがこちらを見る。
「お前は、水の中でどう動くかを見たい」
そう言って、浅い流れの中を指さした。
「ただ泳ぐだけじゃなくて、相手を見ながら、止まったり、向きを変えたり」
スイは少しだけ視線を落とした。
不安なのかもしれない。
それでもカエデは、急がずに続ける。
「無理しなくていいよ。でも、お前の動き、ちゃんと見たい」
その言葉に、スイはしばらく黙っていた。
やがて小さく鳴いて、静かに水の中へ入っていく。
その動きを見た瞬間、カエデは思わず息を呑んだ。
やっぱり、きれいだった。
浅い流れの中を、スイは無駄なく動く。
水の抵抗をほとんど感じさせないまま、するりと向きを変えて、石の間を抜ける。
陸の上では少し慎重に見えるのに、水の中では別の子みたいだった。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
コハクも動きを止めてそっちを見ていた。
ニドも枝の前で、少しだけ目を丸くしている。
スイは少し先まで行ってから振り返った。
たぶん、次はどうするのと聞いているのだ。
「えっと……」
カエデは慌てて考える。
それから、水辺の石の上に小枝を一本置いた。
「そこ、狙える?」
そう言うと、スイは小さく鳴く。
次の瞬間、口元から細い水の弾が飛んだ。
みずでっぽう。
小枝が弾かれて、水面に落ちる。
「……っ」
カエデの目が開く。
「上手」
その言葉に、スイは少しだけ動きを止めた。
褒められることにはまだ完全に慣れていない。
でも、嫌そうではない。
むしろ、少しだけ胸を張ったように見えた。
それから特訓は少しずつ形になっていった。
コハクは石から石へ移る時に、飛ぶ前に一瞬止まって足場を見ることを覚えていく。
水辺ぎりぎりで急に方向を変える練習もした。
「今、左!」
「止まって!」
その声に、コハクは前よりずっと早く反応する。
ニドは湿った地面を走る回数を増やした。
最初よりも足運びが軽くなって、滑ってもすぐに立て直せるようになる。
枝へのつつくも、慌てずに入れられるようになってきた。
「うん、いいよ」
「今の戻り方、上手」
そう声をかけるたびに、ニドは照れたように顔をそらしながらも、ちゃんと次をやる。
スイは水の中での動きを広げていった。
小枝を狙うだけじゃなく、石の後ろへ隠れるように動いて、そこからみずでっぽうを撃つ。
水流を使って一気に横へ回り込む。
カエデが「そこで止まって」と言えば、ちゃんと水の中で踏みとどまれる。
見ているうちに、カエデの頭の中にも少しずつ作戦が形になっていく。
「……そっか」
思わず呟く。
コハクとニドとスイが、同時にこっちを見る。
「スイが前で、水の中の相手を見る」
そう言いながら、水辺に指で簡単な線を描く。
「コハクは無理に水に近づきすぎないで、外から動かす」
次にニドを見る。
「ニドは、相手が上がってきた時とか、足場の近くで狙う」
声に出すと、自分でも少し実感が湧いた。
ただの思いつきじゃなくて、三匹の動きを見た上で考えられている気がする。
休憩の時間、四人で河原の草の上に座る。
「……みんな、すごいね」
そう言うと、コハクはしっぽを大きく振った。
ニドは少しだけ疲れた顔で鼻を鳴らし、スイは静かにこちらを見る。
「スイも」
カエデはやわらかく続ける。
「お前、水の中だとほんとにすごい」
スイの目が少しだけ揺れる。
「まだ全部を信じなくていいけど……強いのはほんとだよ」
その言葉に、スイは少しだけ目を伏せた。
でも、逃げるみたいにはそらさなかった。
午後、もう一度だけ軽く特訓してから、四人はポケモンセンターへ戻ることにした。
帰り道、コハクは疲れているはずなのにどこか機嫌がよく、ニドは今日は珍しくそんなに文句を言いたそうな顔をしていない。
スイも静かだけれど、朝より少しだけ肩の力が抜けていた。
部屋へ戻ると、カエデは荷物を下ろして、その場に座り込んだ。
「……つかれたぁ」
ぽつりと本音が漏れる。
するとコハクがすぐに寄ってきて、膝へ鼻先を押しつけてくる。
ニドも足元へ来て、スイは少し遅れてその隣に座った。
「でも、やってよかった」
カエデは三匹を見て言う。
「ちゃんと作戦っぽくなってきたし」
図鑑を開いて、三匹のページを順番に見る。
コハク。
ニド。
スイ。
「……ハナダジム、やっぱり簡単じゃないと思う」
正直にそう言う。
「水の中で戦う相手って、見え方も違うし、動きも速いし」
そこで少しだけ笑う。
「でも、今日みたいにちゃんと考えたら、どうにかなるかもしれない」
コハクが小さく鳴く。
ニドも短く声を返す。
スイは少しだけ間を置いてから、小さく鳴いた。
その返事がそろったことが、カエデにはうれしかった。
「……うん」
そっと頷く。
「次も、みんなで考えよう」
夕方の光が部屋の中へ差し込んで、三匹の影を床へ落としていた。
コハクの明るい毛並み。
ニドの小さな体。
スイの青い甲羅。
それを見ながら、カエデは胸の奥に少しずつ形になるものを感じていた。
怖いだけじゃない。
まだ不安もある。
でも、三匹と一緒に考えて、少しずつ前へ進めている。