翌朝、ハナダシティの空は高く晴れていた。
窓の外を流れる水路は朝日を受けてきらきらしていて、見ているだけなら気持ちのいい朝だったけれど、カエデの胸の奥は少しだけ落ち着かなかった。
ハナダジム。
まだ挑むと決めたわけじゃない。
でも、もうすぐそこまで来ている気がする。
そのことを考えるだけで、胸のあたりがじわじわ熱くなるみたいだった。
「…起きよっか」
小さく声をかけると、床で丸くなっていたコハクが先に耳を立てた。
ニドも少し遅れて目を開け、窓の近くにいたスイもゆっくり振り返る。
三匹の顔を見ると、少しだけ気持ちが落ち着く。
「今日は、スイの訓練をもうちょっとしたいの」
そう言いながら身支度を整える。
「ハナダジム、水の中で動く相手が多そうだし」
そこで少しだけ笑う。
「スイに頼る場面、たぶん増えると思うから」
スイはその言葉を聞いて、小さく瞬きをした。
まだ“頼られる”ことには慣れていない顔だ。
でも、目を逸らしたりはしなかった。
「もちろん、コハクもニドも一緒ね」
続けてそう言うと、コハクが元気よく鳴いた。
ニドは少しだけ得意そうに胸を張る。
朝食を済ませたあと、四人でいつもの水辺へ向かう。
ハナダシティの朝はもう何度も見ているはずなのに、今日の光は少しだけ鋭く見えた。
たぶん、自分の気持ちのせいだろうとカエデは思う。
水辺に着くと、カエデは図鑑を開いてから、スイへ目を向けた。
「今日はね、ただ動くだけじゃなくて」
言葉を選びながら続ける。
「ちゃんと“戦う時の動き”を見たいの」
スイは静かにこちらを見ている。
「みずでっぽうはもう使える」
カエデは昨日の動きを思い出す。
「でも、それをいつ使うかとか、どこから撃つかとか」
少しだけ首を傾げる。
「そういうの、一緒に考えたい」
その言葉に、スイは小さく鳴いた。
迷いはまだある。
でも、嫌ではないらしい。
「うん。ありがとう」
カエデは目を細めた。
「じゃあ、まずは浅いところで」
最初は単純な動きから始めた。
水辺の石をいくつか並べて、その間をスイに動いてもらう。
止まる。
向きを変える。
隠れるように石の影へ回り込む。
そこからみずでっぽうを撃つ。
スイはやっぱり、水の中だと動きが違った。
するりと滑るみたいに位置を変えて、石の横から顔だけ出す。
水面が揺れているせいで、どこにいるか一瞬分からなくなるくらいだった。
「…すごい」
思わず声が漏れる。
「その動き、かなりいいかも」
スイは少しだけ動きを止める。
褒められると、まだどう受け取っていいか分からない顔になる。
でも、前みたいに縮こまることはない。
そのまま小さく鳴いて、もう一度同じ動きを見せてくれた。
コハクはその横で水辺の石から石へ移る練習をしている。
今日は昨日よりも滑り方が少ない。
飛ぶ前に一瞬だけ足場を見る癖がついてきていた。
「コハク、そのまま止まって」
声をかけると、ぴたりと止まる。
「うん。そこから右」
次の指示にもすぐ動く。
「…上手になってるね」
そう言うと、コハクはしっぽを大きく振った。
ニドは少し離れた湿った地面で、つつくとにどげりの入り方を練習していた。
濡れた地面に足を取られても、すぐに体勢を戻す。
昨日よりも、嫌そうな顔をする回数が減っている。
「ニド、今のよかった」
声をかけると、ニドは顔をそらしながらも、耳だけはぴんと立っていた。
少ししてから、カエデは新しい練習を思いついた。
「コハク、ニド、ちょっとこっち来て」
二匹がすぐに集まる。
スイも浅い水の中からこちらを見る。
「三人で動くの、やってみたいの」
カエデは水辺の石と、岸辺の位置を見比べる。
「たとえば、スイが水の中からみずでっぽうで相手を動かす」
次にコハクを見る。
「そこへコハクが外から回り込んで、にらみつける」
最後にニドへ。
「相手が岸辺に近づいたら、ニドが入る」
言葉にしながら、自分でも少しずつ形が見えてくる。
「うまくいくかは分からないけど、やってみよっか」
最初は全然うまくいかなかった。
スイのみずでっぽうが早すぎて、コハクが回り込む前に終わる。
コハクが動くと、今度はニドが入りづらい。
ニドが待ちすぎると、流れが切れる。
「…むずかしい」
カエデは思わず眉を寄せた。
でも、すぐに首を振る。
「ううん、もう一回」
何度かやってみるうちに、少しずつタイミングが見えてきた。
スイが水の中で半身だけ隠しながら、相手役の小枝へみずでっぽうを撃つ。
その瞬間、コハクが外側から回り込み、枝の逆方向へ飛び込む。
枝が動いた先へ、ニドが短く踏み込む。
もちろん、枝相手だから本物のバトルみたいにはいかない。
でも、三匹の動きが一度だけ綺麗に繋がった時、カエデは思わず声を上げた。
「今の…!」
目を開いて三匹を見る。
「今の、すごくよかった」
コハクが嬉しそうに鳴く。
ニドも少しだけ得意そうに胸を張る。
スイは水の中で止まったまま、少しだけ目を丸くしていた。
「スイ、お前の最初の一発、すごくよかった」
そう言うと、スイの肩がぴくっと揺れる。
「ちゃんと相手を動かせてた」
続けてコハクを見る。
「コハクは早かったし、無理に水際へ入りすぎなかった」
ニドにも目を向ける。
「ニドも、待つの上手だったよ」
一匹ずつ褒めていくと、三匹とも少しずつ表情が変わる。
コハクは分かりやすくうれしそうで、ニドは照れていて、スイはまだ戸惑っている。
でも、その戸惑いの奥に、ほんの少しだけ自信みたいなものが混ざっているのが見えた。
しばらく休憩してから、今度はスイだけの動きを見た。
「スイ、少しだけ本気でやってみて」
そう言うと、スイは水の中で静かに向きを変える。
水面がゆらりと揺れる。
カエデは岸辺の石の上に細い枝を三本立てた。
一本は正面。
一本は少し左。
もう一本は石の影になる位置。
「どこからでもいい」
声をかける。
「狙いやすいところ、選んで」
スイは数秒だけ動かなかった。
それから、するりと水の中を滑るように横へ回る。
石の影へ潜り込んで、姿を半分隠した。
「…っ」
次の瞬間、みずでっぽうが飛ぶ。
正面の枝じゃない。
いちばん見えにくい位置にあった、影の枝へ当たった。
「すごい」
カエデは思わず息を呑む。
「そこ、ちゃんと見えてたんだ」
スイは水の中からこちらを見た。
褒められるのを待っているようにも、信じきれていないようにも見える。
カエデはしゃがみ込んで、できるだけまっすぐその目を見る。
「ほんとにすごいよ」
やわらかく、でもはっきり言う。
「お前、ちゃんと強い」
その言葉に、スイは小さく鳴いた。
今まででいちばん素直な返事だった。
昼を過ぎるころには、四人ともだいぶ疲れていた。
河原の草の上に座って、水を分け合う。
コハクはカエデの膝へ鼻先を押しつけ、ニドはそのすぐ横へ座る。
スイは水辺から少しだけ上がった位置で、静かに息を整えていた。
「…みんな、おつかれさま」
カエデはそう言ってから、空を見上げる。
雲は少なくて、光が高い。
「明日、どうしよっか」
ぽつりと漏らした言葉に、三匹が顔を上げた。
「ハナダジム」
口にするだけで、胸が少しだけざわつく。
「挑みたい、気はするの」
正直にそう言う。
「でも、まだかなって気持ちもある」
その気持ちは嘘じゃなかった。
ニビジムの時みたいに、勢いだけで入るのは違うと思う。
でも、今日こうして三匹の動きを見ていると、ただ怖がっているだけでもない自分がいる。
「…どう思う?」
聞いても答えが返るわけじゃない。
でも、聞いてみたかった。
コハクはすぐに鳴いた。
行こう、と言っているみたいだった。
ニドは少しだけ考えるように間を置いてから、小さく声を返す。
それは、ちゃんと見るならいいんじゃない、という感じに聞こえた。
スイは最後まで黙っていたけれど、やがてゆっくり水辺から上がってきて、カエデの前で止まった。
そして、そっと額を膝へ預ける。
「…っ」
カエデは目を瞬く。
それは、前へ進む時のスイの返事みたいだった。
「そっか」
思わず、少しだけ笑う。
「…じゃあ、明日」
三匹を順番に見る。
「行ってみようかな」
ポケモンセンターへ戻る道は、朝より静かに感じた。
もう答えは出ているのかもしれないと、カエデは思う。
怖いけど、逃げたいわけじゃない。
ちゃんと見て、考えて、それでも行こうと思える。
夕方、部屋へ戻ってからは、明日のために荷物を整えた。
図鑑。
モンスターボール。
キズぐすり。
水筒。
必要なものを何度も確かめる。
コハクはその様子を落ち着かないみたいに見ていて、ニドは少し離れた場所から静かにしている。
スイは窓辺で水路を見ていたけれど、ときどきこちらを振り返った。
「…緊張してるの、ばれてる?」
カエデがそう言うと、コハクが小さく鳴く。
ニドは耳を揺らし、スイは静かに目を細める。
「だよね」
少しだけ笑う。
「私も、してる」
夜、食事を終えて部屋へ戻ると、ハナダシティの水の音が昼よりはっきり聞こえた。
静かなのに、どこか眠れなくさせるような音だった。
カエデはベッドの上に座って、三匹を見た。
「明日、ジムに行く」
そうはっきり言う。
言葉にした瞬間、胸がどくんと鳴った。
でも、もう引っ込めたいとは思わなかった。
「勝てるかは分からない」
正直に続ける。
「でも、逃げないで行ってみる」
コハクがすぐに鳴く。
ニドも短く声を返す。
スイはしばらく黙っていたけれど、やがて小さく、でもはっきり鳴いた。
カエデは少しだけ目を細める。
「ありがとう」
それから、順番に名前を呼ぶ。
「コハク」
コハクが前足をベッドにかける。
「明日も、速さ、頼りにしてる」
「ニド」
ニドが耳をぴんと立てる。
「足場の悪いとこ、お前がいちばんよく見えてる」
「スイ」
スイが静かにこちらを見る。
「水の中は、お前の場所だよ」
その言葉を口にした時、スイの目が少しだけ揺れた。
でも、今度は逸らさなかった。
「…みんなで、行こう」
部屋の灯りを落としてからも、しばらくは眠れなかった。
布団の中で目を閉じるたび、ハナダジムの明るい水のステージが浮かぶ。
失敗したらどうしよう。
足が滑ったら。
相手が思ったより速かったら。
そんなことばかり考えてしまう。
その時、ベッドのそばで小さな気配がした。
目を開けると、コハクがいつの間にか近くへ来ていて、ベッドの縁へ前足をかけている。
ニドも床のすぐそばまで寄っていて、スイは少しだけ離れた位置からじっと見ていた。
「…眠れないの?」
聞くと、コハクが喉を鳴らす。
それが“お前がでしょ”みたいに聞こえて、カエデは小さく笑ってしまう。
「…私も」
そう言うと、少しだけ緊張がほどけた。
カエデは布団の端から手を伸ばして、まずコハクの頭を撫でる。
次に、ニドの額へ触れる。
それから、スイの甲羅の端をそっとなぞった。
「…だいじょうぶかな」
ぽつりと漏らす。
誰に聞かせるでもない、本音だった。
しばらくして、スイがゆっくり近づいてくる。
ベッドのすぐそばまで来て、カエデの手の届く位置に座った。
逃げない。
ただ、そこにいる。
「…そっか」
それだけで、少し安心した。
「勝てなくても」
カエデは静かに言う。
「ちゃんと戦えたら、まずはそれでいいよね」
コハクが小さく鳴く。
ニドも短く声を返す。
スイは静かに目を閉じた。
ハナダシティの夜は、水の音と一緒に更けていく。
明日になれば、きっとまた緊張する。
それでも、もう行くと決めた。
カエデは三匹の気配を近くに感じながら、ゆっくり目を閉じる。
ジムに挑む前の日の夜は、不安と少しの覚悟が、静かに胸の中で並んでいた。