研究所を出たあとも、カエデはしばらく足を止めなかった。
背中に刺さる視線も、ひそひそと交わされる声も、そのまま置いていくみたいに歩く。
隣にはガーディがいる。さっきまで研究所の中で張っていた空気も、外へ出た途端に少しだけほどけていた。
手の中のポケモン図鑑はまだ新しく、モンスターボールの重みもひどく不思議だった。
本当に旅に出るんだと、歩くたびに少しずつ実感が追いついてくる。
マサラタウンの端へ近づくと、人の気配はだんだん薄くなった。
見慣れた草むら。
風に揺れる木々。
町外れの空気は、中心よりずっと息がしやすい。
ガーディが先へ行きかけて、ふと足を止める。
振り返ったその金色の目に、カエデは立ち止まった。
「……どうした」
小さく尋ねると、ガーディは少し首を傾けてから、森の方へ視線を向けた。
そこは、初めて出会った場所に近かった。
まだ寒さの残る朝だった。罠か何かに引っかけたのか、前足を痛めたガーディが茂みの陰で低く唸っていた。
人なら近づけば逃げると思ったのに、あの時のカエデはなぜか足を止めた。
無理に触れず、少し離れた場所へ木の実と水を置いた。
次の日も、またその次の日も。
何も言わずに、ただ置いて帰るだけだった。
ある日、ガーディは逃げなかった。
その次の日には、少しだけ距離が縮まった。
気づけば、森へ行けば会うのが当たり前になっていた。
カエデはゆっくりしゃがみ込んだ。
ガーディの目線に合わせる。
「……行く前に、ちゃんとしたい」
そう言って、ポケットからモンスターボールを一つ取り出す。
新品の赤い表面が朝日に光った。
ガーディはボールを見て、それからカエデを見た。
警戒ではない。ただ、じっと確かめるような目だった。
「今までみたいに、勝手についてくるんじゃなくて」
カエデは少し言葉を探してから、続ける。
「これから先も、一緒に来るなら……ちゃんと、相棒になりたい」
喉の奥が少し詰まる。
人にはうまく言えないことも、ガーディには言わなければいけない気がした。
「嫌なら、いい」
視線を落としながら、カエデは小さく息を吐く。
「無理にはしない。森にいたいなら、それでもいい。でも……」
言葉が止まる。
その続きを、口にするのは思っていたより難しかった。
それでもカエデは、そっとボールを握り直す。
「……一緒に来てほしい」
風が吹き、木の葉が揺れた。
森の匂いがかすかに流れる。
ガーディはしばらく動かなかった。
やがて一歩、また一歩と近づいてくる。
カエデの前で立ち止まり、その手の中のボールに鼻先をそっと触れた。
カエデは目を見開く。
「……いいのか」
ガーディは小さく鳴いた。
迷いのない声だった。
胸の奥がじわりと熱くなる。
カエデはそっと立ち上がり、震えないように気をつけながらボールを構えた。
近すぎる距離で投げるのも変な気がして、少しだけ下がる。
ガーディは逃げない。まっすぐこちらを見ている。
「……いくぞ」
小さく言って、ボールを投げた。
赤い光がふわりと広がって、ガーディの体をやさしく包む。
ボールは草の上に落ちて、一度、二度、三度と揺れた。
かちり、と静かな音がした。
それだけだった。
派手なことは何もない。
けれどカエデには、その音がひどく大きく聞こえた。
しばらく動けずにいたあと、ゆっくり近づいてボールを拾い上げる。
手のひらに収まるそれは、さっきまでよりずっと重い気がした。
「……ガーディ」
名前を呼ぶと、もう一度ボールを見下ろしてしまう。
こんなふうに捕まえる日が来るなんて、少し前まで考えもしなかった。
カエデはボールの開閉ボタンを押した。
赤い光と一緒に現れたガーディは、着地するとすぐにカエデの隣へ寄る。
「わっ」
勢いよく鼻先を押しつけられて、カエデの体が少しだけよろめく。
それでも逃げずに、その頭を撫でた。
「あぶない……」
言いながら、声は思ったよりやわらかかった。
「……でも、ありがと」
ガーディは嬉しそうに喉を鳴らす。
その音に、カエデはほんの少しだけ笑った。
笑ったのは、いつぶりだろうと思う。
町の中ではそんな顔をする必要もなかった。
しても仕方がなかった。
けれど今は違う。
カエデはボールを大事にしまい、研究所でもらった図鑑を抱え直す。
空を見上げると、朝の青がどこまでも高かった。
「行こう、ガーディ」
呼ぶと、ガーディはすぐ隣へ並んだ。
二人で、マサラタウンの外れの道を進む。
見慣れたはずの景色が、もう後ろへ流れていくものに変わっていく。
ボロ屋も、森も、研究所も、遠ざかればただの過去になるのかもしれない。
町の境目が見えてきたところで、カエデは一度だけ足を止めた。
振り返れば、マサラタウンは朝の光の中に静かにあった。
ここで生きた。
ここで耐えた。
寒い夜も、空腹の日も、誰にも見向きもされない朝も、全部ここに置いていく。
もう、戻りたいとは思わなかった。
けれど、胸の奥に残る痛みまで消えたわけじゃない。
それでもいいと、今は思えた。
痛みごと抱えたままでも、前へ進める。
ガーディが足元で小さく鳴く。
カエデはその声に頷いた。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、そう呟く。
「今度は、一人じゃない」
その言葉は、風にさらわれずにちゃんと隣へ届いた気がした。
カエデは前を向く。
トキワへ続く道は長く、見知らぬ景色の中へ伸びていた。
誰にも祝われない旅立ちだった。
でも、もうそれでよかった。
隣には、自分で選んだ相棒がいる。
その事実だけで、十二歳の旅はちゃんとはじまっていた。