ハナダジムの入口に立った時、カエデは小さく息を吐いた。
朝の光を受けた建物は、昨日見た時よりもさらに眩しく見える。
大きなガラス越しに水の光が揺れていて、壁にも床にも青い反射が落ちていた。
ジムというより、水族館かショーの会場みたいだと改めて思う。
「……行こっか」
小さくそう言うと、コハクが低く鳴いた。
ニドは耳を立て、スイは静かに前を見ている。
扉を開けて中へ入ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
広いフロアの中央には大きなプールがあり、その周りに足場がいくつも浮かんでいる。
奥の水槽の中では水ポケモンの影がゆっくり揺れていて、天井から落ちる光が水面に反射して、空間全体がきらきらしていた。
「いらっしゃい」
明るい声がして、カエデは顔を上げる。
そこにいたのは、長い髪をまとめた女性だった。
やわらかい笑みを浮かべていて、でも立ち方はきれいで、ショーの舞台に立つ人みたいな華やかさがある。
「私はサクラ。ハナダジムの姉妹の一人よ」
そう言って、サクラは少しだけ首を傾げた。
「挑戦者、でいいのよね?」
「……はい」
カエデが頷くと、サクラはにこっと笑う。
「ふふ、ようこそ。……って言いたいところなんだけど、今日は最初にちゃんと伝えておくわね」
少しだけ表情をやわらげて、続ける。
「カスミは今、旅に出ていてここにはいないの。サトシって子たちと一緒にね」
カエデは小さく瞬きをした。
「……じゃあ、今日は」
「ええ。今は私たち姉妹でジムを預かってるわ」
サクラは水面の方へ視線をやる。
「ハナダジムのバトルも、ショーも、ちゃんと守らないといけないもの」
その言い方が、この場所への誇りみたいに聞こえて、カエデは少しだけ背筋を伸ばした。
サクラはカエデの足元にいる三匹へ目を向ける。
「ガーディに、ニドラン♂……それからゼニガメ」
視線がスイへ止まる。
「へえ。水の子もちゃんと連れてきたのね」
スイは少しだけ身構えたけれど、逃げはしなかった。
コハクが足元で小さく鳴く。
ニドも、足場とプールをじっと見ている。
サクラはくるりと背を向けて、中央の足場へ歩いていく。
「それじゃあ、せっかくだから」
振り返ったその顔は、さっきより少しだけ真剣だった。
「ハナダジム、姉妹のサクラが相手をするわ」
カエデの胸が小さく跳ねる。
いよいよだと、改めて実感が湧いた。
「ルールは二対二」
サクラの声が、水の広い空間へきれいに響く。
「どちらかのポケモンが二匹とも戦闘不能になった時点で決着」
それから、周りの水を示すように手を広げる。
「見ての通り、ここは水辺のフィールド。足場も濡れるし、水の中を使う子の方が有利になることも多いわ」
「……はい」
カエデは小さく頷く。
昨日までやってきたことを胸の中でなぞる。
水辺での動き。
滑る足場。
スイの水の中での速さ。
コハクの外から動かす形。
ニドの足場際での動き。
「それじゃあ、始めましょうか」
サクラがボールを構える。
「いって、トサキント!」
赤い光の中から現れたトサキントが、水面から跳ねるように姿を見せた。
陽の光を受けて、ひれがきらっと光る。
カエデは小さく息を吸う。
「……ニド、お願い」
ニドが足場の上へ出る。
体は小さいけれど、ぴんと気を張っていた。
「では、バトル開始!」
サクラの声と同時に、トサキントが水の中へ身を沈めた。
「……見えない」
思わずそう漏らした瞬間、水面が揺れる。
「トサキント、みずでっぽう!」
斜め下から飛び出してきた水の弾が、足場の端を叩く。
ニドがとっさに跳んでかわすけれど、濡れた足場に着地した瞬間、少しだけ体が滑った。
「ニド、止まって!」
ニドが踏ん張る。
昨日までの練習がなかったら、そのまま水へ落ちていたかもしれない。
「うん、いい判断」
サクラが少しだけ目を細めた。
「ちゃんと足場を見てるのね」
「ニド、にらみつける!」
ニドが水面へ向かって鋭く睨む。
トサキントそのものには効いていないかもしれない。
でも、水面から顔を出した瞬間の動きが少しだけ鈍る。
「そのまま右!」
ニドが足場を走る。
「つつく!」
トサキントが跳ね上がった一瞬を狙って、ニドが鋭く突いた。
ひれの近くへ当たり、トサキントが小さく鳴く。
「やるわね」
サクラが声を上げる。
「でも、水の中に戻れば話は別よ。トサキント、しっぽをふるからの、たいあたり!」
水面が弾ける。
トサキントが一気に足場近くまで上がってきて、そのまま体当たりの勢いでぶつかってきた。
「ニド!」
まともには受けない。
でも、かすめただけでも十分重い。
ニドの小さな体が足場の上でぐらつく。
カエデは唇を結ぶ。
「……まだいける?」
ニドが短く鳴く。
その目は、まだ終わっていないと言っていた。
「じゃあ、もう一回」
カエデは前を見る。
「水の上に出てきた時だけでいい。にどげり!」
トサキントが次に跳ねた瞬間、ニドが踏み込む。
一発目は浅い。
でも、二発目がしっかり入った。
トサキントが水面へ落ちて、大きく波紋が広がる。
しばらくしても浮かび上がってこない。
サクラが手を上げる。
「トサキント、戦闘不能!」
カエデの胸の奥が少しだけ熱くなる。
「……やった」
小さく零すと、ニドが振り返って少しだけ胸を張った。
「よくやったわ」
サクラはトサキントを戻しながら、素直にそう言った。
「小さいのに、ちゃんと相手の出てくる瞬間を待ててる」
その言葉に、ニドの耳がぴくりと動く。
褒められたのが分かったのかもしれない。
「じゃあ、次はこの子」
サクラが二つ目のボールを構える。
「いって、ヒトデマン!」
光と一緒に現れたヒトデマンは、トサキントよりずっと読みづらい雰囲気があった。
水面の近くを滑るみたいに移動して、真ん中の赤いコアがきらっと光る。
ニドが低く唸る。
でも、その足は少し重い。
さっきのバトルで削られているのが分かった。
カエデはニドを見る。
ニドもこっちを見る。
まだやれる。
そういう目だ。
「……お願い、もう少しだけ」
ニドが短く鳴いた。
「ヒトデマン、こうそくスピン!」
一気に回転しながら近づいてくる。
水しぶきが飛ぶ。
足場もさらに濡れる。
「左!」
ニドが跳ぶ。
でも、追いきれない。
ヒトデマンの回転の余波が当たり、ニドの体が崩れる。
「ニド!」
ニドは立ち上がろうとする。
でも足が少しもつれる。
カエデの胸がきゅっと縮んだ。
「……戻って」
悔しそうにニドが一度だけ鳴く。
それでも、ボールの光を拒まなかった。
「ありがとう」
小さくそう言ってから、カエデは次のボールを握る。
コハクじゃない。
このフィールドで、いちばん力を出せるのは。
「スイ、お願い」
赤い光の中からスイが足場へ出る。
水の匂いのするこの場所で、スイはここに来た初日よりずっと落ち着いて見えた。
サクラの目が少しだけ細くなる。
「やっぱりゼニガメで来るのね」
その声には、試すような色と、少しの期待が混ざっていた。
カエデはスイから目を逸らさない。
「……大丈夫。いけるよね」
スイは小さく、でもはっきり鳴いた。
「続けるわよ!」
サクラが声を張る。
「ヒトデマン、みずでっぽう!」
細い水の弾が飛ぶ。
でもスイは正面から受けなかった。
足場のきわから半身を水へ落とすようにして、するりと避ける。
「……っ」
サクラの目が少しだけ開く。
「そのまま、石の影!」
スイが水の中を滑るように動く。
足場の影へ回って、姿を見えにくくする。
昨日まで何度も練習した形だった。
「ヒトデマン、右!」
サクラがすぐ指示を出す。
でもその瞬間、
「今、みずでっぽう!」
スイの水の弾が、影からまっすぐ飛んだ。
ヒトデマンの横を打って、水面が大きく揺れる。
「ふふ……いい動き」
サクラが思わず笑う。
「ちゃんと水を使えてるじゃない」
カエデの胸が高鳴る。
でも、ヒトデマンもすぐには崩れない。
「ヒトデマン、バブルこうせん!」
無数の泡が広がる。
揺れる水面まで巻き込んで、避けづらい。
「スイ、下がって!」
スイが身をひねって避ける。
でも全部は無理だった。
いくつかの泡が肩をかすめる。
「スイ!」
スイは苦しそうに息をする。
でも、まだ立てる。
いや、水の中でちゃんと向きを変えている。
カエデは喉の奥の緊張を飲み込んだ。
「スイ」
小さく、でもはっきり呼ぶ。
「昨日みたいに。ちゃんと見えてるから」
その言葉に、スイの目が少しだけ揺れる。
ヒトデマンが次の動きに入る。
水の上を大きく回って位置を変える。
速い。
でも、水を切る向きが少し見えた。
「……今!」
カエデは息を吸う。
「左の影から、みずでっぽう!」
スイが足場の影へ潜り込む。
そこから飛んだ一発目で、ヒトデマンが避けるようにずれる。
「その先!」
二発目のみずでっぽうが、今度はコアの近くへ当たった。
ヒトデマンの動きが止まる。
「ヒトデマン!」
サクラの声が飛ぶ。
でも、その前に。
「たいあたり!」
スイが一気に前へ出る。
足場のきわから飛び込むようにして、まっすぐぶつかった。
ヒトデマンがのけぞる。
そのまま水面を滑って、足場の端へぶつかる。
しばらく動かない。
水の音だけが静かに響く。
サクラが手を上げた。
「ヒトデマン、戦闘不能!」
一拍置いて、その声がはっきり響いた。
「勝者、挑戦者カエデ!」
カエデはその場で目を瞬いた。
「……勝った」
口から零れた声は小さかった。
でも、その中にちゃんと実感があった。
スイがゆっくり振り返る。
息は少し荒い。
でも、その目はまっすぐカエデを見ていた。
カエデは足場を渡って駆け寄る。
「スイ!」
しゃがみ込んで、その小さな体を抱きしめる。
スイは驚いたように目を丸くしたけれど、逃げなかった。
「すごい」
胸の奥が熱い。
「すごいよ、スイ……っ」
スイが小さく鳴く。
その声は、河川敷で見つけた時とは全然違っていた。
そこへサクラが歩いてくる。
ヒトデマンを戻したあと、カエデたちの前で足を止めた。
「見事だったわ」
その声には、ちゃんと認める響きがあった。
「ゼニガメの動きをちゃんと信じてた」
カエデはスイを抱いたまま顔を上げる。
サクラは少しだけ笑う。
「それに、最初のニドラン♂もよかった。水辺での入り方をちゃんと考えてる戦い方だったわ」
その言葉に、カエデの胸がまた熱くなる。
サクラは小さなケースを取り出した。
「ハナダジム勝利の証、ブルーバッジよ」
中には、水のしずくみたいな形の青いバッジが入っていた。
「受け取って」
カエデはスイをそっと下ろして、両手でケースを受け取る。
「……ありがとうございます」
その声は少しだけ震えていた。
でも、ちゃんと届いた。
サクラはやわらかく目を細める。
「カスミがいたら、きっと悔しがったでしょうね」
少し楽しそうにそう言ってから、続ける。
「でも、あの子もたぶん、いいバトルだったって言うと思う」
カエデは小さく頷いた。
足元では、戻ってきたニドが短く鳴く。
少し離れたところでは、コハクがしっぽを大きく振っている。
みんなで取った勝ちなんだと、ちゃんと分かった。
カエデは青いバッジを見つめる。
水みたいに光る、小さな証。
おつきみ山を越えて、この町に来て。
ジョーイにジムのことを聞いて。
河川敷で練習して。
スイを助けて。
その全部が、ちゃんとここへ繋がっていた。
「……行こっか」
小さくそう言うと、コハクが鳴き、ニドが耳を揺らし、スイが静かに寄ってくる。
ハナダジムの水の光は、まだ床にも壁にも揺れていた。
その中でカエデは、二つ目のバッジの重みをたしかに感じていた。