イワヤマトンネルの入口の前は、昼間よりずっと静かだった。
日が傾くにつれて、岩肌に残っていた赤みも少しずつ薄れていく。
ぽっかり開いた暗い口だけが、夜を先取りしたみたいにそこにあった。
カエデは岩陰に広げた布の上へ腰を下ろして、小さく息を吐いた。
ここまで歩いてきた疲れはちゃんとあるのに、気持ちの方はまだ落ち着いてくれない。
「……なんか、緊張するね」
小さくそう言うと、コハクがすぐに近くへ来て鼻先を押しつけた。
ニドも足元へ寄ってきて、スイは少し離れた場所からトンネルの入口を見たまま耳を動かす。
「うん、分かってる」
カエデはコハクの頭を撫でる。
「でも、今日は入らないからね。明るくなってから」
そう続けると、ニドが短く鳴いた。
それは、ちゃんと分かってるよっていう返事みたいだった。
荷物袋の中をもう一度確かめる。
ランタン。
キズぐすり。
水。
食べ物。
モンスターボール。
大事なものを順番に触れていくと、少しだけ心が落ち着く。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
「ちゃんと準備してるし」
コハクはその言葉に満足したみたいに喉を鳴らした。
けれどスイはまだ、入口の暗がりを見ていた。
その横顔を見て、カエデは少しだけ目を細める。
「スイ」
名前を呼ぶと、ゆっくり振り返る。
「怖い?」
そう聞いてから、すぐに首を振る。
「……私も、ちょっとそうだから」
正直に言うと、スイの目が少しだけ揺れた。
完全に平気じゃないのは、自分だけじゃない。
それが分かるだけで、少しだけ楽になる。
カエデは立ち上がって、スイのそばへ歩いていく。
暗い入口の前に並んで立つと、中から流れてくる空気はひんやりしていた。
おつきみ山の時とも違う、もっと深くて乾いた冷たさだった。
「明日、ここ入るんだよね」
ぽつりと零す。
「たぶん、すごく暗いし、長いし……」
そこまで言って、小さく笑う。
「でも、お前たちがいるから、進める気もする」
コハクが後ろから近づいてきて、カエデの足に体を寄せる。
ニドも、少し遅れてその横へ来た。
四つの影が、夕方の最後の光の中で重なる。
「……ありがと」
その一言を落としてから、カエデはみんなを連れて岩陰へ戻った。
簡単な食事を分け合って、少しだけ火を起こす。
大きな火は危ないから、ほんとうに小さく。
赤い火がぱちりと鳴るたび、暗くなっていく周りが少しだけ遠くなる気がした。
「コハクは、明日も前の方見てくれる?」
そう言うと、コハクはすぐに鳴く。
「ニドは足元」
ニドは少しだけ得意そうに胸を張った。
「スイは……」
そこで少しだけ考えて、笑う。
「トンネルの中でも、たぶんお前が一番落ち着いてるかも」
スイは一瞬だけ目を丸くして、それから静かに視線を落とした。
照れたのかもしれない。
「私は、ちゃんとランタン持つ」
そう言って荷物の横に置いた明かりを見る。
「みんなが見えるようにするから」
火が小さく揺れる中で、カエデはふと袋の奥からバッジのケースを取り出した。
グレーバッジとブルーバッジ。
石の色と、水の色。
「……二つ」
ぽつりと呟く。
「まだ二つだけど、もう二つあるんだよね」
コハクがケースをのぞき込み、ニドも少しだけ身を乗り出す。
スイは静かにその光を見ていた。
「マサラタウンにいた時は、こんなの持つ日なんて来ないと思ってた」
そう言いながら、カエデはケースを閉じる。
「でも、来た」
その声は思っていたより静かだった。
「だから……たぶん、トンネルの先にもちゃんと行けるよね」
返事みたいに、コハクが鳴く。
ニドも短く声を返して、スイも小さく鳴いた。
「……うん」
そのやり取りだけで、胸の奥のざわつきが少しずつほどけていく。
夜が深くなると、トンネルの向こうから時々かすかな物音が聞こえてきた。
羽音のようなもの。
小石が転がるような音。
何かがいるのだと分かるだけで、背筋が少しだけ冷える。
「……聞こえた?」
小声で言うと、ニドがぴくっと耳を立てた。
コハクも顔を上げる。
スイはじっと暗がりの方を見た。
「でも、来ないね」
カエデは火のそばで膝を抱える。
「向こうも、こっちを見てるのかな」
そう考えると少しだけ不思議だった。
明日には自分たちもその暗がりの中へ入っていく。
今はまだ別々の場所にいるのに、もう気配だけは触れ合っているみたいだった。
やがて火も小さくなって、夜の冷たさが岩陰へ入り込んでくる。
カエデは布の上に横になって、いつものように近くの気配を確かめた。
コハク。
ニド。
スイ。
それぞれの体温がちゃんとそばにある。
「……おやすみ」
小さくそう言うと、三匹がそれぞれ短く返してくれた。
その声を聞きながら目を閉じると、少しずつ眠気が近づいてくる。
真夜中、ふと目が覚めた時、トンネルの入口は月明かりの下で黒く沈んでいた。
昼間よりもずっと深く、どこまで続いているのか分からない。
けれど、その前で眠っている三匹の影を見ると、不思議と前ほど怖くはなかった。
「……だいじょうぶ」
誰に言うでもなく呟く。
すると足元でコハクが少しだけ動いて、ニドも耳を揺らし、スイがゆっくり目を開けた。
「ごめん、起こした」
小さくそう言って、カエデはそっとスイの甲羅へ触れる。
「もう寝る」
スイは少しだけその手に額を寄せて、それからまた静かに目を閉じた。
その仕草に胸があたたかくなって、カエデももう一度目を閉じる。
朝は、思っていたより早く来た。
空が白み始めて、岩肌が少しずつ色を取り戻していく。
カエデが体を起こすと、コハクはもう起きていて、入口の方を見ていた。
ニドも眠そうな顔をしながら立ち上がり、スイは静かに伸びをする。
「……朝だね」
声に出すと、いよいよなんだと実感が湧いた。
怖さもある。
でも、それだけじゃない。
ここまで来たんだから、進みたい気持ちもちゃんとある。
顔を洗って、荷物をまとめて、ランタンを取り出す。
布を畳む手は少しだけ固かったけれど、止まらなかった。
「……行こっか」
その言葉に、コハクが低く鳴いた。
ニドは耳をぴんと立て、スイは静かに一歩前へ出る。
四つの影が、朝の光の中でトンネルの方へ伸びていく。
イワヤマトンネルは、昨日と同じように黒い口を開けていた。
でも今日はもう、ただ見上げるだけじゃない。
カエデはランタンに火を入れて、ゆっくり持ち上げる。
小さな明かりが揺れて、入口のすぐ先の岩肌を照らした。
「……行こう」
今度は、はっきりそう言えた。
コハクが先に一歩。
その少し後ろにニド。
スイはカエデのすぐ隣。
そしてカエデも、自分の足でその暗がりへ向かって踏み出した。