イワヤマトンネルの中へ一歩踏み込んだ瞬間、外の朝の光がすっと遠くなった。
入口のすぐ近くにいるはずなのに、もう背中側の明るさは薄くて、目の前には岩肌の影が重なっている。
カエデはランタンを少し高く持ち上げた。
小さな灯りが揺れて、足元の石と壁の凹凸をぼんやり照らす。
「……ほんとに、暗いね」
小さくそう言うと、声が少しだけ遅れて返ってきた。
おつきみ山でも似たような感覚はあったけれど、こっちはもっと閉じている。
空気が乾いていて、音の響き方も少し違った。
コハクが一歩前で立ち止まり、耳を立てる。
ニドはカエデのすぐ近くで足元を見ていて、スイは反対側から静かに周囲を見回していた。
「……だいじょうぶ」
カエデは自分にも言い聞かせるように呟く。
「昨日、ちゃんと準備したもんね」
そう言って、ランタンを持つ手を握り直した。
明かりがあるだけで、おつきみ山に入った時よりずっと落ち着いていられる。
足元が見えることが、こんなに安心に繋がるなんて思わなかった。
少し進むと、すぐに外の光は背後の小さな輪になった。
前を見ても後ろを見ても、岩の壁と暗がりが続いている。
天井は高いところもあれば急に低くなるところもあって、ところどころから小さな石が転がり落ちていた。
「コハク、あんまり先に行きすぎないでね」
そう声をかけると、コハクが短く鳴いて足を少し緩めた。
「ニドは……そのまま足元、お願い」
ニドは耳をぴくっと動かす。
「スイは、左右見ててくれる?」
スイは小さく鳴いて、ランタンの光の届かない端の方まで気にするように視線を動かした。
四人で進む足音だけが、かり、かり、とトンネルの中へ響く。
ときどき、遠くの方から羽音みたいなものが返ってきて、カエデは思わず肩をすくめた。
「……ズバットかな」
言葉にすると、天井の暗がりの向こうで何かが動いた気がした。
でも、こちらへ近づいてはこない。
コハクも低く唸りかけたけれど、カエデが首を振ると、すぐに口を閉じた。
「まだいいよ。こっちも何もしないから」
そう言うと、不思議と気持ちも落ち着く。
全部と戦わなきゃいけないわけじゃない。
ただ通るだけなら、刺激しない方がいいこともある。
旅に出てから、そういうことを少しずつ覚えてきた。
少し先で、通路が左右に分かれていた。
カエデは足を止めて図鑑を取り出す。
ランタンの明かりと図鑑の表示を見比べると、簡単な地図が浮かび上がった。
「……こっち、かな」
右の通路を指さすと、コハクが一歩前へ出る。
ニドはその場で地面の傾きを確かめるように前足を置き直してから進み、スイも静かについてきた。
右へ曲がってしばらく進むと、道は少し下りになった。
岩の色も入口の近くより濃くて、湿っているようには見えないのに空気は少しだけひんやりしている。
その時、ニドが急に立ち止まった。
「……どうしたの?」
カエデが声をひそめると、ニドは前方の地面をじっと見たまま耳を立てる。
ランタンを近づけてみると、足元に小さな石がいくつも転がっていた。
ただの石かと思った次の瞬間、そのうちのひとつが、ぴくっと動いた。
「……っ」
思わず息を呑む。
イシツブテだった。
地面に紛れるように丸くなっていたらしく、光が近づいてきたことで目を覚ましたようにゆっくり腕を動かす。
コハクが低く唸る。
スイも少しだけ身構えた。
「待って」
カエデはすぐに小さく言う。
「起こしちゃっただけだよね」
イシツブテはまだ完全には起きていないのか、半分だけ目を開けたままこちらを見ていた。
敵意というより、邪魔するなと言いたそうな顔だった。
「……ごめんね」
カエデはそっと一歩下がる。
「通るだけだから」
そのまま少し遠回りするように壁際を進むと、イシツブテはそれ以上動かなかった。
コハクもニドも、カエデが止めた意味を理解したのか、黙ってあとをついてくる。
少し離れてから、カエデはようやく小さく息を吐いた。
「……びっくりした」
素直にそう零すと、コハクが振り返って喉を鳴らす。
「うん。お前もだよね」
その様子に少しだけ笑ってしまう。
怖いけれど、前よりはちゃんと息を整えられる。
それだけでも、少しずつ変わっているのかもしれなかった。
さらに奥へ進むと、天井の低い場所があった。
コハクはすぐに身を低くして抜けていく。
ニドも小さな体だから問題ない。
けれどカエデはランタンを下げて、頭をぶつけないようにゆっくり進まなければならなかった。
「……狭い」
小さく言うと、スイが後ろから軽く体を寄せてくる。
暗い場所が続く中で、そのぬくもりが少しだけ安心をくれた。
狭い通路を抜けると、今度は少し広い場所へ出た。
天井も高くなっていて、いくつかの大きな岩が壁際に転がっている。
遠くから水の音……ではなく、風が抜けるような低い音も聞こえた。
「……ここなら、少し休めるかも」
カエデは壁際の平らな岩のそばにしゃがみ込んで、ランタンを置いた。
灯りが揺れて、四人の影が岩肌へ大きく映る。
「入り口から、まだそんなに来てないよね」
図鑑を見ながらそう言うと、ニドが少しだけ鼻を鳴らした。
「うん、分かってる。まだまだだよね」
でも、一度立ち止まるだけでも違う。
水を少し飲んで、みんなの顔を見る。
コハクはまだ元気そうだけれど、ずっと耳を立てていたせいか少しだけ真剣な顔をしていた。
ニドは落ち着いているけれど、足元を見る集中が続いている。
スイは静かに息をしていて、暗さの中でもちゃんと周囲を見ていた。
「……みんな、ありがと」
カエデは小さく言う。
「今のとこ、いい感じだよ」
コハクが短く鳴く。
ニドは耳を揺らし、スイは少しだけ目を細めた。
「次は、もう少し奥まで行って」
ランタンの火を見つめながら続ける。
「出口に近いところか、休めそうな場所を探したいな」
その時だった。
広い空間の向こう、ランタンの光が届かない暗がりの中で、何かが動いた。
大きな影ではない。
でも、確かに人の足音みたいな音がした。
「……っ」
カエデはすぐに口を閉じる。
コハクが低く唸り、ニドは足を踏ん張る。
スイも静かに視線をその暗がりへ向けた。
また、音がする。
今度は小石を踏む音と、かすかな息づかい。
人かもしれない。
でも、まだ姿は見えない。
カエデはランタンの取っ手をしっかり握った。
暗いトンネルの奥で、何かがこちらへ近づいてきていた。