イワヤマトンネルを抜けてからしばらく、道の空気は少しずつ変わっていった。
岩肌の多い地面はやがて土の道に戻り、ところどころに草が揺れるようになる。
明るい空の下を歩いているはずなのに、不思議と風はあまりあたたかくなかった。
ハナダの水辺とも、ニビの石の町とも違う、どこか静かな乾き方をしている。
カエデは肩にかけた荷物の紐を持ち直して、小さく息を吐いた。
イワヤマトンネルを抜けた安堵はまだ胸の奥に残っている。
でも、それとは別に、前方に広がる景色には言葉にしにくい気配があった。
「……なんか、静かだね」
ぽつりとそう言うと、コハクが耳を動かした。
ニドは足元を確かめるように歩きながら、前方へ視線を向ける。
スイも、今日はいちばん外側じゃなくて、カエデの少し近くを歩いていた。
道の脇には木々が増えてきていた。
でも、明るい緑という感じじゃない。
葉の色は少しくすんで見えて、風に揺れるたびに、さらさらというより、かさりと乾いた音を立てる。
遠くに小さな町が見え始めたのは、昼を少し過ぎたころだった。
「……あ」
カエデは立ち止まる。
低い屋根がいくつか並んでいる。
町の規模はそこまで大きくない。
でも、空気が違った。
建物の色も、道の色も、どこか薄い灰色を帯びていて、昼間なのに夕方みたいに見える。
「……シオンタウン、かな」
図鑑の地図を開いて確かめる。
位置は合っていた。
イワヤマトンネルを抜けた先にある町。
次の目的地。
コハクが小さく鳴く。
ニドも耳を立てたまま町を見ている。
スイはしばらく無言で見つめてから、少しだけカエデの足元へ寄った。
「……うん」
カエデは小さく頷く。
「たぶん、着いたんだね」
けれど、足はすぐには動かなかった。
怖いわけじゃない。
でも、今までの町に入る時とは少し違う感じがした。
ハナダに入る時は水の明るさがあって、ニビには石の重たさがあった。
シオンタウンには、それとは別の静けさがある。
人の気配がないわけじゃないのに、声の届き方まで控えめだった。
「……行こっか」
自分に言い聞かせるみたいにそう言って、カエデはまた歩き出す。
コハクが少しだけ前に出て、ニドはその後ろ、スイはカエデのすぐ横についた。
町へ近づくにつれて、その静けさの正体が少しずつ分かってきた。
人通りが少ないのだ。
家はあるし、煙突から細い煙が上がっている家もある。
でも、外を歩く人があまりいない。
いても、どこか足早で、大きな声で話す人はいなかった。
町の入口に立つ看板には、シオンタウンの文字が静かに書かれている。
その向こうに広がる通りは、まっすぐ伸びていて、道の脇には古い建物がいくつか並んでいた。
「……ほんとに、静か」
小さく呟くと、コハクが周囲を見回す。
ニドは少し警戒しているようで、耳がぴんと立ったままだ。
スイも、あたりの空気を確かめるみたいにじっとしていた。
カエデは町の中をゆっくり歩く。
足音がやけにはっきり聞こえる。
遠くでポッポの鳴く声がしたけれど、それもすぐに消えた。
道の端に小さな花屋があった。
店先には白や紫の花が並んでいて、風が吹くたびにやわらかく揺れている。
その先には、どこか大きな建物の影が見えた。
町の空気の中心みたいに、静かにそこに立っている。
カエデはほんの少しだけ視線をそらす。
「……あとで、かな」
自分でも何に向けて言ったのかよく分からなかった。
ただ、今すぐそこへ目を向けるには、まだ少しだけ心の準備が足りない気がした。
先に見つけたのは、赤い屋根のポケモンセンターだった。
それだけで、胸の奥に小さな安堵が広がる。
どの町でも、まずそこが見つかると少しだけ呼吸がしやすくなる。
旅に出る前は、こんなふうにポケモンセンターの建物を見るだけでほっとする日が来るなんて思っていなかった。
「……まず、ここだね」
そう言うと、コハクがすぐに鳴いた。
ニドも少しだけ力を抜いたみたいに耳を揺らす。
スイは静かにポケモンセンターの入口を見た。
自動ドアが開いて、中のあたたかい空気が頬に触れる。
シオンタウンの外の静けさと違って、ここにはいつもの落ち着いた機械音と、やわらかな人の気配があった。
受付にいたジョーイが顔を上げる。
シオンタウンのジョーイは、他の町のジョーイより少しだけ声を低くして話す人だった。
「いらっしゃいませ。おつかれさまでした」
その声は静かだけれど、ちゃんとあたたかい。
「……こんにちは」
カエデは小さく頭を下げる。
「部屋、お願いしたいです」
「もちろんです」
ジョーイは優しく頷く。
「トンネルを抜けてきたんですか?」
「……うん。イワヤマトンネルを」
「それは大変でしたね」
ボールを預けるほどの傷はないけれど、今日はみんな少し疲れている。
そのことを伝えると、ジョーイは三匹の様子を見てやわらかく微笑んだ。
「しっかり歩いてきた顔をしていますね」
コハクが少しだけ胸を張る。
ニドは照れたように顔をそらし、スイは黙っていたけれど、その目は少しだけやわらかく見えた。
部屋へ通されて、荷物を下ろす。
窓の外にはシオンタウンの町並みが見えた。
ハナダの水の明るさとも、ニビの石の落ち着きとも違う。
淡い色ばかりなのに、どこか目を離せない町だった。
「……着いたね」
カエデがそう言うと、コハクが足元に寄ってきて鼻先を押しつけた。
ニドは部屋の中を一度だけ見回してから、いつもの場所へ落ち着く。
スイは窓辺へ近づいて、外の町をじっと見ていた。
カエデもその隣へ行く。
「気になる?」
そう聞くと、スイは少しだけ目を動かした。
何かを怖がっているというより、いつもと違う空気をちゃんと感じ取っているようだった。
「……うん。私も」
窓の向こうには、静かな町が広がっている。
遠くに見える大きな建物の影。
通りを急がずに歩く人。
花屋の前で立ち止まる年配の女の人。
その全部が、シオンタウンの色を作っていた。
少し休んでから、食堂へ降りる。
今日のスープは湯気が立っていて、体の奥へあたたかさが落ちていくのが分かる。
コハクもニドもお腹が空いていたらしく、いつもより少しだけ食べるのが早い。
スイも静かに食べていて、トンネルを越えた疲れがちゃんとあるのだと分かった。
「……みんな、おつかれさま」
小さくそう言うと、三匹がそれぞれ短く鳴く。
それだけで、今日ここまでちゃんと来られたんだと実感が湧いた。
食事のあと、ロビーの窓から外を見る。
夕方にはまだ少し早いのに、シオンタウンの光はすでにやわらかかった。
明るさがないわけじゃない。
でも、どこか陽が沈み始めたあとの町みたいに見える。
ジョーイが近くを通りかかった時、カエデは少しだけ迷ってから声をかけた。
「……あの」
「はい?」
「この町、なんか……静か、だよね」
ジョーイは少しだけ目を細めた。
その質問を何度も受けてきた人の顔だった。
「シオンタウンは、そういう町なんです」
やわらかい声のまま、静かに言う。
「ここには、ポケモンタワーがありますから」
その名前に、カエデは小さく息を止める。
さっき遠くに見えた、大きな建物の影が頭をよぎった。
「亡くなったポケモンたちのための場所です」
ジョーイはそれ以上、重たく言いすぎない。
でも、その言葉だけで十分だった。
「だから、町全体も少しだけ静かな空気なんですよ」
「……そっか」
カエデは小さく頷く。
言われてみれば、町の静けさはただ人が少ないからじゃないと分かる。
ここには、そういう想いが集まる場所があるのだ。
ジョーイは少しだけ笑って続ける。
「怖い町だと思われることもありますけど、そうじゃないんです」
その言葉に、カエデは顔を上げる。
「大事に想う気持ちがあるから、静かなんです」
その言い方がすごくやさしくて、カエデは胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じた。
「……うん」
それしか言えなかったけれど、ちゃんと分かった気がした。
部屋へ戻ると、コハクはすぐに丸くなった。
ニドも少し疲れていたのか、今日はいつもより早く落ち着いた。
スイだけが、まだ窓辺で外を見ている。
カエデはその隣に座る。
「シオンタウン」
小さくその名前を口にする。
「静かだけど……たぶん、やさしい町なんだね」
スイは答えない。
でも、窓の外を見つめるその横顔は、前よりずっと落ち着いていた。
「明日、少し見てみようか」
そう言ってから、少しだけ間を置く。
「タワーとか……町のこととか」
怖さがまったくないわけじゃない。
けれど、ここまで来たのなら、ちゃんと見たいとも思う。
この町がどういう場所なのか、自分の目で知りたい。
「……急がなくていいけどね」
そう続けると、スイが少しだけこちらを見た。
その時、コハクがベッドのそばで小さく鳴く。
眠たいらしい。
ニドも耳を揺らして、もう目を閉じかけている。
「……ふふ」
カエデはやわらかく笑う。
「うん、今日は休もっか」
灯りを落として、布団に入る。
シオンタウンの夜は、ハナダともニビとも違っていた。
外は静かなのに、どこか遠くで鈴みたいな音が聞こえた気がする。
風が通る音かもしれないし、気のせいかもしれない。
でも、その曖昧さごと、この町らしいと思えた。
「……着いたんだね」
眠る前に、もう一度だけそう呟く。
ニビを越えて、ハナダを越えて、イワヤマトンネルも抜けて。
今、自分はシオンタウンにいる。
そのことが少しだけ不思議で、でもちゃんと現実だった。
コハクの寝息。
ニドの小さな気配。
スイの静かな呼吸。
その全部を近くに感じながら、カエデはゆっくり目を閉じる。
シオンタウンの夜は、静かに、でもやわらかく四人を包んでいた。