マサラタウンを背にしてから、どれくらい歩いただろう。
振り返ればまだ町の屋根は見える距離にあったはずなのに、いつの間にかそれも木立に隠れていた。
代わりに目の前にあるのは、まっすぐ伸びる土の道と、風に揺れる草むらだけだ。
カエデは肩に掛けた古い袋の位置を直し、少しだけフードを深くかぶった。
朝より高くなった日差しが白い髪に落ちる。眩しさに目を細めると、隣を歩いていたガーディがこちらを見上げた。
「……平気」
そう言うと、ガーディは納得したように前を向いた。
一人で生きてきた二年間、町の外へ出ることはほとんどなかった。
森へ木の実を取りに行くことはあっても、それはあくまで“帰るため”の外だった。
でも今は違う。
今日は戻るためじゃない。
進むために歩いている。
その事実が、足元を少しだけ軽くしていた。
道端の草の先に、小さな影が跳ねた。
コラッタだ。
茶色い体が草の中へ消えていくのを見て、カエデは脇に抱えていた図鑑をそっと取り出す。
新品の表面はまだ固く、開くたびに少し緊張する。
スイッチを押すと、機械音声が響いた。
『コラッタ。ねずみポケモン。なんでもかじってしまうため、家の木材や食べ物を荒らすことがある』
淡々とした説明を聞き終えて、カエデは小さく息を吐く。
「……本当に喋るんだな」
研究所でもらった時は、ただ手渡された道具でしかなかった。
けれどこうして道の上で使うと、旅に出た実感が少しずつ形になる。
ガーディが図鑑に鼻を近づけた。
気になるらしい。
「お前のも見てみるか」
そう言って図鑑を向ける。
ガーディは一歩引いたが、逃げはしなかった。
『ガーディ。こいぬポケモン。人になつきやすく、賢い性質を持つ。忠誠心が強く、主人を守るためなら恐れず立ち向かう』
そこまで聞いて、カエデはそっと視線を落とした。
人になつきやすい。
そう言われても、目の前のガーディは最初から誰にでも懐くような子ではなかった。
森で出会った時は、痛めた前足を庇いながら、低く唸って近づくもの全部を拒んでいた。
あの時の警戒を知っているからこそ、今こうして隣を歩いてくれることが、余計に特別に思える。
「……忠誠心、強いって」
ぽつりと呟くと、ガーディは首を傾げた。
カエデはその頭を軽く撫でる。
「そのままだな」
撫でられると気持ちよさそうに目を細める。
その反応だけで、胸の奥に張っていた何かが少しやわらいだ。
道はやがて森の縁に沿うように続いていた。
草の匂いに混じって、土と木の湿った匂いが濃くなる。
時折、ポッポの羽音が頭上を横切り、ビードルが木の幹を這う姿が見えた。
旅は始まったばかりなのに、世界はもうマサラタウンの外の顔を見せ始めている。
ぐう、と小さく腹が鳴った。
カエデは立ち止まり、袋の中を探る。
朝の残りの固いパンが少しと、干した木の実がいくつか。
多くはない。
でも、尽きるまではまだ余裕がある。
「休むか」
道から少し外れた木陰にしゃがみ込み、パンを半分に割る。
自分の分より先に、ガーディへ木の実を差し出した。
「食べろ」
ガーディは差し出された実とカエデの顔を見比べる。
それから自分の分だけ咥えると、残りのパンに鼻先を寄せて、押し返すように前足で触れた。
「……いらないのか」
もう一度差し出しても、ガーディは食べない。
代わりにカエデの手元へ鼻先を寄せ、くん、と小さく鳴いた。
分かった瞬間、少しだけ目を見開く。
「……お前」
自分に食べろと言っているのだ。
人間相手なら、そんなふうに譲られたことはほとんどなかった。
カエデはしばらく何も言えずにいたが、やがて小さく息を吐いた。
「じゃあ、半分ずつ」
もう一度パンを割り、今度は同じ大きさにして片方を渡す。
ガーディは満足そうに受け取った。
二人で並んで食べる固いパンは、いつもの朝より少しだけましに感じた。
食べ終えて、また道に戻る。
昼に近づくにつれて日差しは強くなり、カエデは自然と影の多い側を選んで歩くようになった。
長く歩いていると、旅慣れていない体に少しずつ重さが溜まっていく。
それでも口には出さず、ただ足を前に出した。
その時だった。
草むらの奥から、甲高い鳴き声が響いた。
カエデはすぐに足を止める。
ただの鳴き声じゃない。怯えた、短い悲鳴に近い音だった。
「ガーディ」
名前を呼ぶより早く、ガーディの耳がぴんと立つ。
二人で音のした方へ駆け寄ると、草の陰の小さな窪地で、一羽のポッポの雛が羽をばたつかせていた。
まだうまく飛べないのか、地面から離れられない。
その前に、コラッタが二匹、じりじりと距離を詰めていた。
カエデはすぐに状況を呑み込む。
巣から落ちた雛を狙っているのだ。
コラッタの一匹が飛びかかった。
ポッポが小さく鳴く。
「ガーディ!」
呼んだ瞬間、ガーディが土を蹴った。
低く唸りながらコラッタの前へ割って入る。
ぶつかる寸前で体をひねり、相手を横へ弾き飛ばした。
もう一匹が背後から飛びかかる。
カエデはとっさに叫ぶ。
「右っ」
ガーディはすぐに振り返り、鋭く吠えた。
ひるんだ隙に前へ出て、体当たりで押し返す。
二匹のコラッタはすぐには逃げない。
獲物を取られた苛立ちで歯を剥き、低く唸り声を漏らす。
カエデは息を整えた。
森で野生ポケモンと距離を取ることには慣れていたけれど、こうして正面から向き合うのは初めてだ。
それでも、不思議と頭は冷えていた。
コラッタの視線はガーディに向いている。
背後のポッポへ行かせなければいい。
「ガーディ、ひだり」
短く言う。
ガーディはすぐ左へ回り込んだ。
一匹が追うように動き、もう一匹がわずかに遅れる。
「今、ひのこ!」
次の瞬間、ガーディの口元に赤い火の粉が灯った。
小さな炎が弾けるように飛び、前にいたコラッタの足元で散る。
驚いて飛び退いたところへ、ガーディがさらに一歩踏み込んだ。
炎そのものは大きくなかった。
けれど野生のコラッタにとっては十分だったらしい。
二匹は威嚇するように鳴いたあと、草むらの奥へ一目散に逃げていく。
静けさが戻る。
カエデは息を吐き、すぐに雛ポッポの方へしゃがみ込んだ。
まだ震えているが、大きな怪我はなさそうだ。
「……大丈夫か」
そう声をかけると、ポッポは怯えた目でこちらを見上げた。
人に慣れていないのだろう。
無理に触れず、カエデは少しだけ距離を取る。
その時、頭上で大きな羽音がした。
見上げると、成鳥のポッポが低く旋回している。
親だろうか。
カエデはゆっくり立ち上がり、雛から離れた。
ガーディもすぐに後ろへ下がる。
成鳥は警戒しながら降りてきて、雛の前に立つ。
雛が安心したように鳴くのを見て、カエデはようやく肩の力を抜いた。
親ポッポは一度だけこちらを見る。
それが礼だったのか、ただの警戒だったのかは分からない。
それでも次の瞬間には、雛を促すようにして木立の向こうへ消えていった。
残された草むらに風が通り抜ける。
「……よかったな」
呟くと、隣でガーディが得意そうに胸を張った。
その姿に、カエデは少しだけ口元をゆるめる。
「お前も、ありがとう。よく動いた」
頭を撫でると、ガーディは嬉しそうに目を細めた。
誰かと力を合わせる、というのはこういう感じなのかもしれない。
相手が人間ではなくても、一人で生きるのとは違う感覚だった。
再び道に戻ると、さっきまでの景色が少し違って見えた。
何も起こらないただの道ではない。
ここには野生の暮らしがあって、危険もあって、助けられる命もある。
旅に出るというのは、ただ町を出ることじゃないのだと、少しだけ分かった気がした。
歩き続けるうちに、遠くの木々の向こうに大きな緑が見えてきた。
トキワの森だ。
その手前には、町の屋根も少しだけ覗いている。
「……やっと着くな」
カエデがそう呟くと、ガーディは前方を見て小さく鳴いた。
マサラタウンを出たばかりなのに、もう次の場所が見えている。
その事実は心強くもあり、少しだけ怖くもあった。
でも、足は止まらない。
カエデは図鑑を抱え直し、ガーディと並んで道の先を見る。
知らない町。知らない森。知らない人たち。
何が待っているのかは分からない。
それでも、隣にガーディがいるだけで、世界は少しだけ怖くなくなる。
「行こう」
今度は迷いなく言えた。
風が前から吹いてくる。
カエデはその中へ、一歩ずつ踏み出していった。