翌朝、シオンタウンの空は少しだけ薄曇りだった。
窓の外に広がる町は昨日と同じように静かで、でも曇り空のせいか、いつもより色がやわらかく見える。
カエデは目を覚ましてから、しばらく布団の中で天井を見つめていた。
昨日、町を歩いた時からずっと、胸の奥に残っているものがある。
ポケモンタワー。
遠くから見ただけでも分かった、あの高くて静かな場所。
怖いわけじゃない、と言い切ることはまだできない。
でも、気になる気持ちの方が少しだけ強くなっていた。
「……起きよっか」
小さく声をかけると、コハクがすぐに耳を立てた。
ニドは少し遅れて目を開けて、スイはもう起きていたらしく、静かにこちらを見る。
「今日は……タワー、行ってみようと思う」
その言葉に、三匹とも少しだけ反応した。
コハクはまっすぐこっちを見上げて、ニドは耳をぴくりと揺らす。
スイは少しだけ目を伏せてから、またゆっくり顔を上げた。
「無理だって思ったら、途中で戻る」
カエデは三匹を見る。
「上まで行くとかじゃなくて、まずは行ってみるだけ」
それから、少しだけ笑う。
「一緒に、来てくれる?」
コハクがすぐに鳴いた。
ニドも短く返事をして、スイは少し間を置いてから、小さく鳴く。
「……うん、ありがと」
朝食を済ませたあと、ポケモンセンターを出る前に、カエデは少しだけ立ち止まった。
昨日の花屋のおばあさんの言葉を思い出したからだ。
会いに行く人が、たくさんいる町。
「……お花、あった方がいいのかな」
ぽつりとそう言うと、コハクが首を傾げる。
ニドはよく分からないまま耳を動かしていて、スイだけが静かにカエデを見ていた。
「……行ってみよっか」
花屋は昨日と同じ場所で、同じように静かに店を開けていた。
白や紫の花がやわらかく揺れていて、その匂いは強くないのに、胸の奥へすっと入ってくる。
「あら、おはよう」
店番のおばあさんが、カエデを見ると目を細めた。
「今日は、タワーへ行くのかい?」
「……うん」
カエデは小さく頷く。
「お花、持っていった方がいいのかなって」
おばあさんはやわらかく笑った。
「その気持ちがあるなら、それで十分だよ」
そう言って、店先の花を見渡す。
「でも、持っていきたいなら……これがいいかね」
差し出されたのは、小さな白い花だった。
派手じゃなくて、でもきれいで、シオンタウンの空気に合っている気がした。
「……これ、ください」
受け取った花は軽かった。
なのに、不思議と持つ手の方は少しだけ緊張した。
花屋を出て、タワーの方へ歩き出す。
町の中は朝なのに相変わらず静かで、でも昨日よりその静けさに慣れてきた気がする。
通りの端を歩く人たちも、ただ暗い顔をしているわけじゃない。
それぞれの理由でこの町にいて、それぞれの想いを抱えているのだろうと、少しだけ思えるようになっていた。
ポケモンタワーが近づくにつれて、建物の影はどんどん大きくなる。
高くて、細くて、空へ向かってまっすぐ伸びている。
近くで見ると、昨日よりもずっと静かな迫力があった。
「……ここ、だね」
タワーの前で足を止める。
入口は開いていて、中のひんやりした空気が外へ少しだけ流れてきていた。
扉の横には、白い花がいくつも供えられている。
誰かが置いていったのだろう。
その花たちは新しいものもあれば、少ししおれ始めているものもあった。
カエデは手に持っていた花を見て、それから入口の脇へそっと置く。
「……こんにちは」
誰に向けたわけでもなく、そんな言葉が口から出た。
コハクたちも騒がない。
三匹とも、ここがいつもと違う場所だと分かっているようだった。
タワーの中へ一歩入ると、外より少しだけ空気が冷たかった。
薄暗いわけではない。
窓から光は入っているし、灯りもついている。
でも、その明るさは強くなくて、全部がやわらかく静かだった。
床はきれいに磨かれていて、奥の方には白い石碑のようなものが並んでいる。
「……すごい」
思わず小さく声が漏れる。
そこは怖い場所じゃなかった。
少なくとも、一階は。
むしろ、静かに手を合わせるための場所みたいで、空気は澄んでいるように感じた。
数人の人が、離れた場所で静かに立っていた。
泣いている人はいない。
でも、誰も大きな声を出さない。
その静けさが、この場所を守っているみたいだった。
カエデはゆっくり奥へ進む。
コハクは少しだけ後ろを歩き、ニドはぴたりと足元近くについてくる。
スイは普段より静かで、でも逃げるような素振りはなかった。
石碑の前に小さな台があって、そこにも白い花が置かれている。
カエデは少し迷ってから、その前で立ち止まった。
「……ここで、いいのかな」
自分でも、どうすれば正しいのか分からない。
でも、手を合わせるくらいはしてもいい気がした。
花を台へ置いて、そっと目を閉じる。
誰のため、とは言えない。
ここに眠っている子たちのためなのか、想って来た人たちのためなのか、それとも、捨てられて傷ついていたスイを思ったからなのか。
自分でも分からなかった。
ただ、少しだけ静かにしていたかった。
目を開けると、スイが石碑の方をじっと見ていた。
その横顔に怯えはない。
でも、考え込んでいるような、どこか遠い目だった。
「……スイ」
名前を呼ぶと、ゆっくりこっちを見る。
「だいじょうぶ?」
そう聞くと、スイは少しだけ間を置いてから、小さく鳴いた。
それは、“分からないけど、ここにいる”みたいな声に聞こえた。
カエデはそっとスイの甲羅の端を撫でる。
「うん」
それ以上は聞かない。
分からないままで、ここにいていい気がしたからだ。
少しして、奥の方から足音がした。
白い僧衣みたいなものを着た年配の男の人が、静かにこちらへ歩いてくる。
「旅の子かね」
低いけれどやさしい声だった。
「……うん」
カエデが小さく頷くと、その人は三匹の方へも目を向ける。
「ポケモンたちも、一緒にお参りか」
コハクが少しだけ耳を動かし、ニドは大人しくしていた。
スイは静かにその人を見る。
「一階は、穏やかな場所です」
男の人はやわらかく続ける。
「ここは、手を合わせに来る人たちのための階ですから」
「……じゃあ、上は」
思わず聞くと、その人は少しだけ目を細めた。
「最近は、少し落ち着かないこともあってね」
その言い方は曖昧だったけれど、軽いものではないと分かった。
「亡くなったポケモンたちの想いが強く残る場所でもある。無理に上がらない方がいい時もある」
その言葉に、カエデは小さく息を止める。
怖がらせるための言い方じゃない。
ただ、本当にそうだから伝えてくれているのだと分かった。
「……そうなんだ」
「うむ」
男の人は頷く。
「旅の途中なら、まずはこの一階だけでも十分だよ」
カエデはその言葉に少しだけほっとした。
最初から全部見なきゃいけないわけじゃない。
それでいいのだと思えた。
「……ありがとう」
頭を下げると、男の人は静かに微笑んだ。
「大事に思う気持ちがあるなら、それだけで十分だ」
その言葉は、花屋のおばあさんやジョーイの言葉と、どこか同じ温度を持っていた。
少しだけ一階を見て回ってから、カエデは入口の近くへ戻った。
石碑の前で手を合わせる人たち。
静かに置かれている花。
高く伸びる階段。
全部を見て、全部を分かったわけじゃない。
でも、この場所がただ怖いだけの場所ではないことは、ちゃんと感じられた。
「……今日は、ここまでにしよっか」
そう言うと、コハクが小さく鳴く。
ニドも足元で耳を揺らし、スイは少しだけ振り返ってから、またカエデのそばへ来た。
タワーを出ると、外の光が少しだけ眩しかった。
けれど、入る前みたいな強い緊張はもうなかった。
胸の奥には、静かな何かが残っている。
「……来てよかった」
ぽつりとそう言うと、コハクが顔を上げる。
ニドは少しだけ鼻を鳴らして、スイは静かに歩幅を合わせる。
「全部じゃなくても、ちゃんと見られたから」
カエデはそう続けて、少しだけ笑った。
「シオンタウンのこと、少し分かった気がする」
帰り道、町は相変わらず静かだった。
でも、朝よりその静けさが遠く感じない。
ただ重いだけじゃなくて、やさしさも混ざっている町。
そう思えるようになったことが、少しだけうれしかった。
ポケモンセンターへ戻るころには、昼の光が少し傾き始めていた。
部屋に入って荷物を下ろすと、ふっと力が抜ける。
「……なんか、ちょっとだけ疲れたね」
そう言って床へ座ると、コハクがすぐに寄ってくる。
ニドはその近くへ座り、スイは今日は迷わず手の届く位置にいた。
「でも、怖かっただけじゃなかった」
三匹を見ながら、小さく続ける。
「ちゃんと静かで……ちゃんと、大事にされてる場所だった」
スイがその言葉を聞いているのが分かった。
コハクは喉を鳴らし、ニドは静かに耳を揺らしている。
「……また、いつか」
カエデは窓の外を見る。
遠くにポケモンタワーの影が見えた。
「今度は、もう少し上も見てみるかもしれない」
でも今は、それで十分だった。
シオンタウンに着いて二日目。
タワーの一階に立って、静けさの意味に少しだけ触れた。
それだけで、この町は昨日より少し近くなった気がした。