ポケモンタワーから戻ったあともしばらく、カエデの胸の中にはあの静けさが残っていた。
部屋へ戻って窓の外を見ると、シオンタウンの町並みは昼の光の中にあるのに、どこかやわらかく霞んで見える。
遠くにはポケモンタワーの影も見えていて、その高い姿は町の一部みたいに静かに立っていた。
コハクはベッドのそばで伏せていて、ニドは床の上で丸くなるにはまだ早い時間らしく、耳だけをゆっくり動かしている。
スイは窓辺の近くに座ったまま、外を見ていた。
「……疲れた?」
カエデが小さく聞くと、コハクがすぐに顔を上げた。
ニドも耳をぴくりと動かす。
スイは少しだけ振り返って、それからまた窓の外へ目を向けた。
「私も、ちょっとだけ」
そう言って、カエデはベッドの端へ腰を下ろす。
体はそこまで疲れていないはずなのに、胸の奥だけが少し重い。
怖かったわけじゃない。むしろ逆で、思っていたより静かで、やさしくて、そのぶん余計に心に残っている感じだった。
少し休んでから、カエデは図鑑を膝の上へ置いた。
画面を開いても、地図を見る気にはまだなれない。
代わりに、ぼんやりと手持ちの登録画面を開く。
コハク。
ニド。
スイ。
三匹の名前が並んでいるのを見ると、少しだけ落ち着く。
旅に出た最初のころは、図鑑の画面の中に自分の仲間の名前が増えることが、こんなに心強いものだなんて思っていなかった。
「……コハク」
名前を呼ぶと、すぐに鳴き声が返る。
ベッドのそばまで寄ってきたその頭を撫でる。
「お前、タワーの中でもあんまり騒がなかったね」
喉を鳴らす音が返ってくる。
「えらかった」
褒めると、コハクは嬉しそうにしっぽを揺らした。
分かりやすい反応に、カエデは少しだけ頬をゆるめる。
次にニドを見る。
「ニドも」
声をかけると、少しだけ顔をそらす。
「ちゃんと静かにしてたし、まわり見てた」
ニドの耳がぴくりと動く。
「……そういうとこ、すごいよね」
照れたみたいに鼻を鳴らすその姿が可愛くて、カエデは小さく笑った。
最後に、スイへ目を向ける。
「スイ」
名前を呼ぶと、ゆっくりこっちを見る。
「タワー、どうだった?」
答えが返ってくるわけじゃない。
でも、聞かずにいられなかった。
スイはしばらく黙っていた。
それから、小さく、本当に小さく一度だけ鳴く。
その声は、怖かったとも、嫌だったとも、そうじゃなかったとも、どれにも聞こえた。
だからカエデは、無理に意味を決めないことにした。
「……うん」
そっと立ち上がって、スイのそばへ行く。
「分かんなくていいよね」
そう言って甲羅の端へ触れると、スイは逃げなかった。
ただ、じっと窓の外を見たまま、少しだけカエデの手の方へ体を寄せる。
その仕草が、今の返事みたいに思えた。
昼食を食べに食堂へ降りると、シオンタウンのポケモンセンターは昼でも静かだった。
他の町のポケモンセンターも落ち着いた場所ではあったけれど、ここはもっと声の高さまで抑えられている気がする。
誰もそれを決めているわけじゃないのに、自然とそうなっているみたいだった。
「いらっしゃい」
配膳をしていたジョーイが、カエデたちに気づいて微笑む。
「タワーはどうでしたか?」
「……静かだった」
カエデは少しだけ考えてから言う。
「怖いっていうより……」
その先の言葉を探す。
「ちゃんと、静かだった」
ジョーイはやさしく頷いた。
「そう感じてもらえたなら、よかったです」
食事のあいだ、カエデは何度も窓の外へ目を向けた。
タワーへ続く道はここからは見えない。
でも、町の空気にはあの場所の気配がまだ残っているような気がした。
「……この町、ちゃんと住んでるんだよね」
ぽつりと漏らすと、ジョーイが少しだけ目を細める。
「ええ」
やわらかい声だった。
「シオンタウンは、亡くなったポケモンたちの町でもありますけど、それだけじゃありません」
食堂の窓の外をちらりと見る。
「悲しい時に帰ってくる人もいれば、ただ毎日を過ごしている人もいます」
その言い方が静かで、カエデは思わず聞き入ってしまう。
「どちらも、この町には必要なんです」
「……そっか」
その答えを胸の中で繰り返す。
悲しい時に帰ってくる人。
毎日を過ごしている人。
その二つが一緒にあるから、この町はあの静けさを持っているのかもしれない。
静かなのに、空っぽじゃない理由が少しだけ分かる気がした。
食事のあと、部屋に戻ってからもすぐには休まなかった。
カエデは窓辺へ行って、もう一度だけポケモンタワーの影を見た。
昼の明るさの中でも、その建物だけはやっぱりどこか別の空気をまとって見える。
「……また、行くと思う?」
誰に聞くでもなくそう呟く。
コハクがベッドのそばから顔を上げて、ニドも耳を動かした。
スイはすぐ隣で外を見ている。
「今日は一階だけだったし」
小さく続ける。
「それでも十分だったけど」
行きたいかと聞かれれば、まだよく分からない。
でも、行ってみたい気持ちが消えたわけでもない。
知らないまま通り過ぎるより、少しずつでも知っていきたいと思っている自分もいる。
「……無理はしないけどね」
そう言ってから、カエデは少しだけ笑う。
その笑みに、コハクが安心したみたいに喉を鳴らした。
午後は、ポケモンセンターの裏手の小さな広場で少しだけ体を動かすことにした。
ジム戦のための特訓みたいな大きなものじゃない。
ただ、長いトンネルを抜けて、静かな町に入って、体も気持ちも少し固くなっていたから、軽く動いた方がいい気がしたのだ。
「ちょっとだけ、走ろっか」
そう言うと、コハクがすぐに前へ出る。
ニドも、少しだけ気を取り直したみたいに胸を張る。
スイは最初こそじっとしていたけれど、カエデが先に歩き出すと、ちゃんとあとについてきた。
広場の土は乾いていて、シオンタウンの空気に合っている。
水の町だったハナダとは違って、足元の感触も少し落ち着いていた。
コハクには広場の端から端まで走らせて、途中で止まる練習をする。
ニドには細い石の上を踏み外さずに進ませる。
スイは水がない場所での動きを確認するように、少し広めに体を使って歩く。
「コハク、そこで止まって」
すぐにぴたりと止まる。
「うん、上手」
しっぽが揺れる。
「ニド、そのまま」
小さな体で、石の間を丁寧に抜ける。
「いいよ」
照れたように耳を揺らす。
「スイ」
名前を呼ぶ。
スイが止まる。
「そのままこっち」
少しだけ速く動いてもらうと、やっぱり水の中ほどではないけれど、十分きれいだった。
少し体を動かしてみると、胸の奥の重さも少しだけほぐれていく。
怖いとか、静かすぎるとか、そういうもの全部を抱えたままでも、こうしていつもの時間を作れることが救いに思えた。
休憩のために広場の端へ座ると、コハクがすぐ膝へ鼻先を押しつけてくる。
ニドは足元へ。
スイは少し遅れて、その隣へ来た。
「……ありがと」
カエデは三匹を見ながら、小さく言う。
「こういうの、あるとちょっと楽になる」
コハクが鳴く。
ニドも短く返事をして、スイは静かに目を細める。
それからしばらく、四人で何も言わずに風の音を聞いていた。
シオンタウンの風は、ハナダより乾いていて、ニビよりやわらかい。
町ごとにこんなに空気が違うのだと、旅に出てから何度も思ってきたけれど、この町はその中でも特別な気がする。
夕方になる前に部屋へ戻ると、窓の外の町は昨日より少し近く見えた。
変わったのは町じゃなくて、自分の方なのかもしれない。
カエデはベッドに腰を下ろし、荷物袋の奥から二つのバッジを取り出した。
グレーバッジ。
ブルーバッジ。
「……シオンには、ジムないんだよね」
ぽつりとそう言う。
でも、だから何もない町というわけじゃない。
バッジをもらう町じゃなくても、立ち止まる意味のある場所がある。
今はそれが少しだけ分かる気がした。
「……次、どこ行くんだろ」
まだ完全には決めていない。
でも、シオンタウンに着いてから、旅の進み方がまた少し変わった気がする。
ただ町を越えていくだけじゃなくて、その場所の空気も少しずつ胸に残っていく。
「明日、どうしよっか」
そう言って三匹を見る。
コハクは行くなら行こうという顔。
ニドはちゃんと考えてから、という顔。
スイは静かに、でも前よりずっと落ち着いてこちらを見ていた。
「……うん」
カエデは小さく頷く。
「明日、ちゃんと考えよう」
急がなくていい。
でも、立ち止まりすぎなくてもいい。
そう思えるくらいには、今の自分は前より少し強くなっていた。
シオンタウンの二日目の午後は、何か大きなことがあったわけじゃない。
それでも、町の静けさに少し慣れて、ポケモンタワーの空気に少し触れて、三匹と一緒にまた呼吸を整えた。
そういう一日だった。
夜が来るころ、窓の外の町はまたやわらかい影をまとい始める。
カエデはその景色を見ながら、そっと三匹の名前を順番に呼んだ。
「コハク」
嬉しそうに鳴く。
「ニド」
耳を揺らす。
「スイ」
静かに目を細める。
その全部がちゃんと返ってくることが、今はとてもあたたかかった。