翌朝、シオンタウンの空は昨日より少しだけ青かった。
窓の外には、相変わらず静かな町並みが広がっている。
けれど、昨日までよりも空気はほんの少し軽く見えた。
ポケモンタワーの高い影も変わらず町の奥に立っているのに、今日はその姿を見ても、胸の奥が強くざわつくことはなかった。
カエデはベッドの上で身を起こして、しばらくその景色を眺めていた。
旅に出てから、知らない町へ着くたびに、その場所の空気に慣れるまで少し時間がかかる。
シオンタウンもきっとそうで、昨日まではただ静かだと思っていたこの町が、今は少しだけ“朝の町”として見えるようになっていた。
「……起きよっか」
小さく声をかけると、コハクがすぐに耳を立てた。
ニドは少しだけ眠たそうに目を開けて、スイは窓辺の近くで静かに体を起こす。
「今日は、町の外れの方、ちょっと歩いてみたいな」
そう言うと、コハクが短く鳴いた。
ニドは耳を揺らし、スイは少しだけ首を傾げる。
「ポケモンタワーの方じゃなくて、反対側」
カエデは小さく笑う。
「静かな町って、ちょっと外れるとまた違うかもしれないし」
朝食を済ませてポケモンセンターを出ると、シオンタウンの朝はまだゆっくりと動いていた。
花屋の前には今日も白や紫の花が並んでいる。
通りを掃いているおじいさんがいて、その傍らをポッポがぴょこぴょこ歩いていた。
大きな声はないのに、ちゃんと人が暮らしている町だと分かる景色だった。
タワーとは反対側の道へ進むと、町の建物は少しずつ少なくなっていく。
代わりに、低い岩や乾いた草地が広がり始めた。
ハナダの水の匂いとも、ニビの石の重さとも違う、乾いていて少し冷たい風が頬を撫でる。
「……こっち、ちょっとニビに近い感じするね」
ぽつりとそう言うと、コハクが足元の石を踏みながら鳴く。
ニドはこういう場所の方が落ち着くのか、今日はいつもより少し前を歩いていた。
スイも水のない場所にだいぶ慣れてきたらしく、カエデの少し横を静かについてくる。
道の脇には、白っぽい岩がいくつも転がっていた。
ところどころに低い木があって、風が吹くたびに乾いた葉がかさりと鳴る。
町の中の静けさとは少し違う、野生の静けさだった。
しばらく歩いていると、かつん、と硬い音がした。
「……ん?」
カエデは足を止める。
かつ、かつん。
石を打つような、乾いた音。
風の音とも、ポケモンの鳴き声とも違う。
コハクがすぐに耳を立てた。
ニドは低く身構えて、スイも静かに視線を音のした方へ向ける。
「……何か、いる」
カエデは声をひそめて、草の少ない岩場の方へゆっくり近づいた。
大きな岩をひとつ回り込む。
すると、その向こうの少し開けた場所で、小さな影が動いた。
「……っ」
思わず、足が止まる。
そこにいたのは、カラカラだった。
小さな体。
頭には白い骨のヘルメット。
手には、自分の背丈に近い骨を一本持っている。
その骨を振り下ろして、目の前の岩を打っていた。
かつん。
かつん。
一定のリズムで骨が岩を打つ。
けれど、遊んでいるようには見えなかった。
何かを確かめるように。あるいは、自分を無理やり立たせているみたいに。
静かな、でもどこか必死な動きだった。
カエデは息を潜める。
コハクもニドも、今日は珍しくすぐ前へは出なかった。
スイだけが少しだけ首を傾げて、カラカラの背中をじっと見ている。
カラカラは、もう一度骨を振り下ろした。
けれど今度は少しだけ手元がずれて、岩ではなく地面を叩いた。
乾いた土が小さく散る。
その瞬間、カラカラの体がほんの少し揺れた。
疲れているのかもしれない。
あるいは、最初から万全ではないのか。
「……大丈夫かな」
小さく漏らした声に、カラカラの耳がぴくっと動く。
次の瞬間、すばやく振り返った。
骨の仮面の奥から、黒い目がこちらを見る。
警戒。
それが一瞬で分かった。
カラカラはすぐに骨を構えた。
小さい体をさらに小さく縮めるようにして、それでも逃げるより先に構える。
その姿に、カエデの胸が少しだけきゅっと痛くなる。
「……ごめん」
反射的に、そう言っていた。
「驚かせるつもりじゃなかったの」
もちろん言葉は通じない。
でも、声の調子くらいは伝わるかもしれないと思った。
カラカラは構えを解かない。
仮面の下の目だけが、じっとこちらを見ている。
「敵じゃないよ」
カエデは自分でも分かるくらい、ゆっくりした動きでしゃがみ込んだ。
「ただ、音が聞こえたから……見に来ただけ」
コハクが一歩前へ出かける。
けれどカエデはすぐに手を出して制した。
「コハク、待って」
小さく言う。
「今は、だいじょうぶ」
コハクは少しだけ不満そうだったけれど、ちゃんと止まった。
ニドも耳を立てたまま、カエデの横にいる。
スイは静かにカラカラを見ていた。
しばらく、風の音だけがその場に流れた。
カラカラの腕はまだ骨を握っていた。
でも、さっきよりほんの少しだけ力が抜けて見える。
カエデはそっと、荷物袋の中を探った。
朝の残りの小さなポフレが一つだけ入っている。
それを取り出して、できるだけゆっくり地面へ置いた。
「……食べる?」
自分から近づくつもりはないと示すみたいに、すぐに一歩下がる。
カラカラは動かなかった。
仮面の奥から、そのポフレを見る。
またカエデを見る。
そして、少しの沈黙のあと、骨を持ったまま一歩だけ前へ出た。
乾いた土を踏む、小さな足音。
もう一歩。
それから立ち止まり、匂いを嗅ぐように少し顔を下げる。
「……だいじょうぶ」
カエデは思わずそう言っていた。
自分に言い聞かせるみたいに、でも、カラカラにも届くように。
カラカラはようやく骨を少し下げた。
それから、素早くポフレを取る。
取った瞬間にまた一歩引いたけれど、すぐに逃げることはしなかった。
その場で、少しだけ迷うようにしてから、小さく口をつける。
「……食べた」
その一言は、ほとんど吐息みたいだった。
コハクが小さく喉を鳴らす。
ニドも、張っていた空気をほんの少しだけ緩めた。
スイは静かにカラカラを見つめたままだ。
カラカラは全部を一気に食べることはしなかった。
ひと口、ふた口。
確かめるようにゆっくり食べる。
その様子は、飢えて飛びつくというより、“奪われないか確かめながら食べている”感じだった。
「……一人なのかな」
ぽつりと漏らす。
そう見えたからだ。
この子の周りには、他のカラカラの気配も、親らしい姿もない。
ただ一匹で、岩を打っていた。
シオンタウンの空気の中で、カラカラというポケモンを見ると、どうしても胸にひっかかるものがある。
この子たちは、骨を抱いて生きるポケモンだ。
その姿が、シオンの静けさと妙に重なって見えた。
食べ終わったあとも、カラカラはその場にいた。
骨はまた構えられる位置にある。
でも、さっきまでみたいな尖った警戒ではない。
カエデは少しだけ考えてから、そっと図鑑を取り出した。
「……見る?」
自分でも変なことを言っていると思ったけれど、口に出てしまった。
カラカラは首を傾げる。
当然だ。
それでもカエデは、カラカラのページを開いた。
機械音声が静かな岩場に流れる。
『カラカラ。こどくポケモン。なくなったははおやのほねを、かぶっている。さびしくなると、こえをあげてなく』
そこまで聞いて、カエデは少しだけ喉が詰まった。
コハクも、ニドも、スイも、誰も動かない。
カラカラだけがじっと図鑑を見ていた。
その黒い目が何を思っているのか、カエデには分からない。
でも、その説明を読ませてしまったことが、少しだけ苦しくなった。
「……ごめん」
小さくそう言って、図鑑を閉じる。
どうして謝りたくなったのかは分からない。
でも、何となくそうするしかなかった。
カラカラはしばらく動かなかった。
やがて、ほんの少しだけ視線を落として、手に持った骨を握り直す。
それから、また岩の方へ向き直った。
かつん。
もう一度、骨が岩を打つ。
その音はさっきより少しだけ弱かった。
「……練習、してたの?」
カラカラは答えない。
でも、その背中は“やめるわけにはいかない”と言っているみたいに見えた。
カエデは、ほんの少しだけ前へ進んだ。
近づきすぎない距離で立ち止まる。
「無理しなくてもいいのに」
そう言いかけて、自分で言葉を止める。
無理しなくていいなんて、外から見ているだけの自分が簡単に言えることじゃない気がした。
代わりに、もっと小さな声で続ける。
「……でも、上手になりたいんだよね」
その言葉に、カラカラの耳がぴくりと動いた。
カラカラはもう一度骨を振る。
今度は、さっきより少しだけ芯に近い位置に当たる。
かつん、と乾いたいい音がした。
「……うまい」
思わずそう言うと、カラカラが一瞬だけ動きを止めた。
仮面越しに、こちらを見る。
それは驚いたような、信じきれていないような目だった。
「ほんとに」
カエデは少しだけ笑う。
「ちゃんと狙えてる」
コハクがその声に呼応するみたいに、小さく鳴いた。
ニドも短く鼻を鳴らし、スイは静かに目を細める。
カラカラはしばらく動かなかった。
でも、やがてまた岩の方を向く。
そして今度は、前より少しだけ迷いの少ない動きで骨を振り下ろした。
かつん。
かつん。
さっきより、音が整っている。
カエデはその様子をしばらく見ていた。
捕まえたい、とか、連れて行きたい、とか、そういう気持ちはまだない。
ただ、この子がここで一匹で立っていることが、胸に残った。
風が吹く。
乾いた葉が鳴る。
シオンタウンの外れの岩場で、骨を打つ音だけが静かに続いていた。
「……また、会えるかな」
ぽつりとそう零す。
誰に向けた言葉か、自分でもよく分からなかった。
カラカラは最後にもう一度だけ振り返った。
仮面の奥の目が、カエデを見る。
それから、ほんの少しだけ骨を持ち上げてみせた。
挨拶なのか、警戒なのか、それともただの癖なのか。
分からない。
でも、その姿は最初に見た時より少しだけ遠くなくなっていた。
「……うん」
カエデは小さく頷く。
「じゃあ、またね」
コハクたちと一緒に、その場を離れる。
背中に、かつん、という音がまた聞こえた。
振り返らなかったけれど、たぶんカラカラはまた練習を始めたのだろう。
帰り道、カエデは何度もその音を思い出していた。
静かな町の外れで、一匹で骨を振っていた小さな背中。
あの子のことを、きっと簡単には忘れないだろうと思った。
「……カラカラ、だったね」
そう言うと、コハクが耳を動かす。
ニドは少しだけ考えるように視線を落として、スイは静かにカエデの横を歩いていた。
「一人だったね」
続けてそう言った時、スイがほんの少しだけ足を速めて、カエデのすぐ隣へ寄ってきた。
「……うん」
それだけで、十分だった。