その夜、ポケモンセンターのベッドに入ってからも、カエデはなかなか寝つけなかった。
窓の外では、シオンタウンの夜が静かに更けている。
風の音も、人の気配も、全部が遠くてやわらかい。
それなのに、胸の奥には昼間見た小さな背中がずっと残っていた。
白い骨の仮面。
細い腕で抱えた骨。
一人で岩を打っていた、あの乾いた音。
「……カラカラ」
小さく名前を口にしてみる。
すると、足元で丸くなっていたコハクが耳を動かした。
ニドも少しだけ顔を上げて、スイは窓辺の近くから静かに振り返る。
「……気になるよね」
誰に聞かせるでもなくそう言うと、三匹とも何も言わないまま、ただこっちを見ていた。
分かっているのだと思う。
カエデが、昼間のあの子のことを考えているのを。
「一人だったもんね」
ぽつりと続ける。
「ちゃんとごはん食べてるのかな、とか……ちゃんと休めてるのかな、とか」
そこで少しだけ目を伏せる。
「……放っておけない」
そう口にした瞬間、自分の気持ちがはっきりした。
次の日の朝、カエデは朝食を食べ終えると、ポケモンセンターの食堂でパンを少し包んでもらった。
ポケモン用のポフレもいくつか。
それから、前にジョーイから分けてもらった傷薬の残りも確認する。
「……もう一回、会いに行ってみようと思うの」
部屋でそう言うと、コハクがすぐに鳴いた。
ニドも耳を立てて、スイは静かに一歩前へ出る。
「いてくれるかは分かんないけど」
カエデは荷物を肩にかける。
「でも、行かなかったらたぶん気になるままだし」
コハクが、行こうと言うみたいに鼻先を押しつけてきた。
その頭を撫でてから、カエデは三匹と一緒にシオンタウンの外れへ向かった。
昨日と同じ岩場は、朝の光の中では少しだけ明るく見えた。
それでも風は乾いていて、草の音は相変わらず静かだった。
「……いるかな」
小さく呟きながら、大きな岩の陰を回り込む。
かつん。
すぐに、その音が聞こえた。
「……いた」
カエデは思わず足を止める。
昨日と同じ場所で、カラカラは今日も骨を振っていた。
でも、今日は少し様子が違った。
動きに迷いがある。
何度か骨を振っては、途中で止めている。
右腕の付け根あたりも、少しだけ動かしづらそうに見えた。
「……痛いのかな」
小さくそう漏らすと、ニドが耳をぴくりと動かした。
スイもカラカラの腕を見て、静かに目を細めている。
カラカラはもう一度骨を振り上げた。
けれど今度は途中で手元がぶれて、かつん、ではなく、鈍い音がして地面を叩いてしまう。
その瞬間、カラカラの肩が少しだけ揺れた。
「……っ」
やっぱり、無理をしているのだと分かった。
カエデは岩陰から出て、できるだけゆっくり歩み寄る。
昨日と同じように、急に近づきすぎないように気をつけながら。
「……おはよう」
その声に、カラカラがすぐ振り返る。
骨をぎゅっと握り直して、やっぱり最初は警戒する。
でも、昨日ほど尖ってはいなかった。
「また来たの」
カエデは自分でも少し可笑しくなるようなことを言う。
「気になって」
カラカラは何も言わない。
ただ、仮面の奥の目でじっと見ている。
カエデは荷物袋から包んだパンとポフレを取り出した。
地面にそっと置いて、すぐに一歩下がる。
「これ、食べる?」
それから、傷薬の小さな瓶も出して見せた。
「あと……腕、痛いなら、これもある」
もちろん、すぐに信じてもらえるとは思っていない。
でも、言わずにはいられなかった。
カラカラは食べ物と瓶を見比べている。
骨はまだ構えられる位置にあるけれど、昨日より迷いが見えた。
「……無理にじゃないよ」
カエデはしゃがみ込んだまま、やわらかく続ける。
「嫌なら、やめるから」
しばらく、風の音だけが流れた。
やがて、カラカラが一歩前へ出る。
昨日みたいに食べ物へすぐ向かうんじゃなくて、先に傷薬の瓶を見た。
それから、ほんの少しだけ右腕をかばうように動かした。
「……やっぱり痛いんだ」
カエデは小さく息を吐く。
「ちょっとだけでいい。見せて」
もちろん通じているわけじゃない。
それでも、カラカラはすぐには逃げなかった。
骨を握ったまま、じっとカエデを見る。
その時だった。
がさっ、と岩場の向こうで大きな音がした。
コハクがすぐに低く唸る。
ニドも身を低くし、スイはカラカラの前に半歩出た。
次の瞬間、二匹のオニスズメが低く飛び込んできた。
「……っ!」
カエデは思わず声を呑む。
食べ物の匂いに寄ってきたのか、それとも最初からこの辺りを縄張りにしていたのか、二匹とも鋭い声を上げてまっすぐカラカラの方へ向かっていた。
カラカラはすぐに骨を構える。
でも、腕が万全じゃない。
あのまま受けたら危ないと、見ただけで分かった。
「コハク!」
呼んだ瞬間、コハクが飛び出す。
オニスズメの進路へ割って入って、低く唸った。
「ひのこ!」
小さな火の粉が散って、一匹のオニスズメが慌てて上へ逃げる。
でも、もう一匹はその横を抜けるように急降下した。
「ニド、右!」
ニドが地面を蹴る。
斜めから飛び込んで、オニスズメの足元へつつくを入れた。
羽がぶれて、オニスズメの軌道が逸れる。
「スイ、みずでっぽう!」
スイの水の弾が、逸れたオニスズメの翼に当たる。
ばしゃっと羽が濡れて、さすがに二匹ともすぐには突っ込めなくなった。
けれど、それで終わらない。
上空で旋回して、また降りてくるつもりらしい。
「……っ、カラカラ!」
思わず名前を呼ぶと、その子はもう動いていた。
小さな体で踏み込んで、骨を振る。
右腕をかばっていたはずなのに、その一振りは鋭かった。
低く降りてきたオニスズメの足元を、骨の先が正確に打ち抜く。
かつん、と乾いた音。
オニスズメが悲鳴みたいな声を上げて、バランスを崩す。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
その隙にコハクがもう一度ひのこを散らし、ニドが地面から威嚇するようににらみつける。
スイも続けてみずでっぽうを撃つ。
三匹とカラカラの動きが重なったことで、オニスズメたちは明らかに怯んだ。
一匹が大きく羽を鳴らして距離を取る。
もう一匹も、濡れた翼を気にするようにして後ろへ退いた。
数秒のあと、二匹はそのまま高く飛び上がって去っていった。
静けさが戻る。
「……はぁ」
カエデはようやく息を吐く。
心臓がどくどくしていた。
コハクが振り返って鳴く。
ニドも少しだけ得意そうに胸を張る。
スイは静かにカラカラを見ていた。
そして、そのカラカラは。
まだ骨を握ったまま、その場に立っていた。
息は少し荒い。
でも、その目はさっきまでよりずっと強く、カエデたちを見ていた。
「……今の、すごかった」
カエデは思わずそう言う。
「ちゃんと見えてたし、ちゃんと当ててた」
カラカラはぴくっと肩を揺らす。
褒められるとは思っていなかったのかもしれない。
でも、目を逸らさなかった。
「腕、痛いのに」
カエデは少しだけ笑う。
「それでも戦ったんだね」
今度は少しだけ、カラカラの骨を握る手の力がゆるむ。
カエデはもう一度、傷薬の瓶をそっと持ち上げた。
「……やっぱり、ちょっと見せて」
声をやわらかくする。
「今なら、少しだけ信じてくれる?」
長い沈黙のあと。
カラカラはゆっくり骨を下ろした。
それから、ぎこちなく右腕を少しだけ前へ出す。
「……うん」
カエデは息を詰めるようにして近づく。
逃げられないくらい近くではなく、でも手が届く位置。
そっと腕を見てみると、付け根のあたりが少し腫れていた。
ひどくはないけれど、無理をして使いすぎたのだろう。
「しみるかもしれないけど……我慢してね」
そう言って、少しだけ傷薬を吹きかける。
カラカラの肩がびくっと震えたけれど、逃げなかった。
そのままじっと耐えている。
「……えらい」
ぽつりとそう言うと、仮面の奥の目が少しだけ揺れる。
処置が終わると、カラカラは自分の腕を何度か動かして確かめた。
痛みが完全に消えるわけじゃないだろう。
でも、さっきより少しだけ動きはましになったみたいだった。
「これも」
カエデはパンとポフレをもう一度示す。
「食べて」
今度はカラカラは迷わなかった。
近づいて、まずポフレを一つ咥える。
それからパンも少しずつ食べる。
コハクは嬉しそうに見ていて、ニドは警戒を解いたみたいに耳を揺らした。
スイは静かにその様子を見守っている。
「……ねえ」
カエデはカラカラが食べ終わるのを待ってから、小さく声をかけた。
「一緒に、来る?」
その場の空気が少しだけ止まった気がした。
コハクが耳を立てる。
ニドも、スイも、黙ってカラカラを見る。
カラカラ自身も動かなかった。
仮面の奥の目だけが、じっとカエデを見返している。
「無理に、とは言わないよ」
カエデは続ける。
「お前がここにいたいなら、それでもいい」
正直な言葉を、ゆっくり置く。
「でも、私は……お前と一緒に行きたい」
河川敷で見つけたスイの時と、少し似ている。
でも少し違う。
スイは助けが必要だった。
カラカラは、助けてもらうだけの子じゃない。
ちゃんと戦えて、ちゃんと立っている。
それでも、一人でいる背中がどうしても気になった。
「強くなりたいんだよね」
カエデはカラカラがさっき岩を打っていた方を見る。
「だったら、一緒に練習できる」
コハクとニド、スイの方へ視線を向ける。
「この子たちもいる」
それから、もう一度カラカラを見る。
「一人にはしない」
風が吹いて、乾いた草が鳴る。
カラカラはしばらく動かなかった。
でも、逃げることもなかった。
やがて、ゆっくり一歩前へ出る。
骨を持ったまま、カエデのすぐ前で止まる。
その目が、荷物袋の横にあるモンスターボールへ向いた。
「……いいの?」
小さくそう聞くと、カラカラは一度だけカエデを見た。
それから、骨の先でそっとボールをつついた。
「……っ」
カエデの胸がどくんと鳴る。
「……ありがとう」
声が少しだけ震えた。
でも、ちゃんと言えた。
カエデはそっとボールを手に取る。
近すぎる位置から、やさしく投げる。
赤い光がカラカラを包んで、ボールが地面へ落ちた。
一回。
二回。
三回。
かちり、と音がする。
静かな岩場に、その小さな音がはっきり響いた。
「……捕まえた」
思わずそう零す。
コハクが嬉しそうに鳴き、ニドも短く声を上げる。
スイは静かにそのボールを見つめていた。
カエデはそっとボールを拾い上げる。
思っていたよりも、少しだけ重かった。
でもその重さが、ちゃんとそこにいる証みたいで嬉しかった。
「出ておいで」
ボールを開くと、赤い光の中からカラカラが姿を現す。
着地したあと、少しだけ周りを見回す。
でも、すぐに逃げるようなことはしなかった。
「……ありがとう」
カエデはしゃがみ込む。
「来てくれて」
カラカラはまだ少しだけぎこちない。
それでも、仮面の奥の目はもう完全な警戒ではなかった。
「名前、どうしよう」
自然とその言葉が口から出る。
コハクが反応するように耳を動かし、ニドも少しだけ近づく。
スイは静かに見守っていた。
カエデはカラカラの骨を見た。
白い仮面。
乾いた音。
一人で立っていた背中。
でも、その中にあったまっすぐさ。
「……ツキ」
小さく口にする。
カラカラの目が少しだけ瞬く。
「白い骨の色、月みたいだから」
カエデは少しだけ照れくさくなりながら続ける。
「シオンの静かな感じにも似てるし……」
それから、やわらかく笑う。
「暗いところでも、ちゃんとそこにある感じがする」
カラカラは黙っていた。
でも、目を逸らさない。
「……ツキ」
もう一度、呼ぶ。
「それで、いい?」
しばらくの沈黙のあと。
カラカラ――ツキは、小さく一度だけ鳴いた。
その声は大きくない。
でも、ちゃんと返事だと分かった。
「……そっか」
カエデは目を細める。
「じゃあ、ツキだね」
コハクが元気よく鳴く。
ニドも短く声を返して、スイは静かにツキの方へ歩み寄った。
ツキは少しだけ身構えたけれど、逃げない。
スイが近くで止まり、小さく鳴く。
それはきっと、よろしく、みたいな意味だった。
コハクはもっと分かりやすくて、すぐにツキの周りを一歩だけ回ってから、胸を張って鳴く。
ニドは少し遅れて、でもちゃんと近づいて、骨を持つツキの横で小さく鼻を鳴らした。
「……ふふ」
カエデは思わず笑ってしまう。
「うん。仲良くしてね」
そう言ってから、ツキへ目を向ける。
「ちょっとずつでいいから」
ツキはまだぎこちない。
でも、もう一人じゃない。
その事実だけで、さっきまでの岩場の景色が少し違って見えた。
帰り道、コハクとニドとスイ、それからツキの四匹が少しずつ歩幅を合わせていく。
ツキは最初こそ少し後ろ気味だったけれど、途中からはカエデの斜め後ろくらいに落ち着いた。
その位置がなんだかツキらしくて、カエデは小さく目を細める。
「……よろしくね、ツキ」
そう言うと、白い仮面の奥の目が、ほんの少しだけやわらいだ気がした。
シオンタウンの外れの乾いた風の中で、新しい仲間が増えた。
骨を抱いた、小さな子。
でも、ちゃんと強くなろうとしていた子。
その背中が、もう一人分、カエデたちの旅に加わっていた。