シオンタウンの朝は、今日も静かだった。
窓の外には薄い光が差していて、町の屋根や道の端をやわらかく照らしている。
ポケモンタワーの影は変わらず遠くに見えていたけれど、昨日までのような重さはもうなかった。
静かなまま、でも少しだけ近い場所として、ちゃんと町の景色の中にある。
カエデはベッドの上で身を起こして、しばらくその景色を眺めていた。
シオンタウンに着いて、町を歩いて、ポケモンタワーの一階へ行って、ツキとも出会った。
短い滞在だったはずなのに、思っていたよりずっといろんなものを受け取った町だった気がする。
足元の方を見る。
コハクはベッドのそばで丸くなっていて、ニドは少し離れた場所で耳だけを動かしている。
スイは窓辺の近く、ツキは壁際の少し暗い場所で、それぞれ静かに眠っていた。
四匹。
その並びを見ていると、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
ハナダでスイが仲間になって、シオンではツキが来てくれた。
旅はちゃんと進んでいて、そのたびに隣の景色も少しずつ変わっていく。
「……起きよっか」
小さく声をかけると、真っ先に反応したのはコハクだった。
耳をぴんと立てて起き上がり、そのままベッドの端へ前足をかけてくる。
ニドもゆっくり目を開け、スイは静かに顔を上げる。
ツキは少し遅れて、仮面の奥の目を薄く開いた。
「おはよ」
一匹ずつにそう言ってから、カエデは少しだけ息を吸う。
「今日は……次、どこ行くか決めようと思うの」
その言葉に、四匹の空気が少しだけ変わる。
コハクはすぐにやる気のありそうな顔になるし、ニドは耳を揺らしながらじっとこちらを見る。
スイは静かに待っていて、ツキはまだ様子を見ているようだった。
朝食を済ませてから、カエデは部屋へ戻って図鑑を開いた。
地図の画面を広げて、ベッドの上に置く。
その前に四匹が自然と集まってくるのが、少しだけ可笑しくて、でもうれしかった。
「……えっと」
指先で地図をなぞる。
マサラタウンから始まって、トキワ、ニビ、ハナダ、シオン。
自分が歩いてきた場所を、図の上でなぞるだけで、少しだけ不思議な気持ちになる。
「シオンから先って、いくつか道があるんだよね」
そう言いながら地図を見つめる。
知らない町の名前がいくつも並んでいる。
どこに行っても、また新しい景色があるのだろう。
そう思うと、少しだけわくわくする。
でも同時に、考えなきゃいけないことも増えていた。
「……コハク」
名前を呼ぶと、すぐに顔を上げる。
「お前は、次も元気に行けそうだね」
嬉しそうに鳴く。
「ニドも」
耳がぴくっと動く。
「今まで通り、足場とか見てくれると助かる」
少しだけ得意そうに胸を張る。
それから、スイへ視線を向ける。
「スイは……」
少し考える。
「水がある場所だと、やっぱりすごく強い」
スイの目がわずかに揺れる。
「でも、次の町がどういうとこかで、また変わってくるよね」
最後にツキを見る。
「ツキは、まだ来たばっかりだもんね」
ツキは少しだけ骨を握り直した。
「だから、無理はさせたくないけど……一緒に慣れていきたい」
そこまで言ってから、カエデはもう一度地図へ目を落とす。
そして、ひとつの町の名前で指が止まった。
「……クチバシティ」
口にしてみる。
その名前は、前にもどこかで聞いたことがあった。
大きな港町。
たくさんの船が来る町。
そして、電気タイプのジムがある町。
「クチバって、港があるんだよね」
ぽつりとそう言うと、コハクが首を傾げた。
ニドは意味までは分からないけれど、行き先の名前が決まりそうなのは察したらしい。
スイは静かに地図を見ていて、ツキは相変わらず落ち着いたままそこにいた。
「海、ちゃんと見たことないかも」
その言葉に、自分で少しだけ驚く。
森も、山も、水辺も見てきた。
でも、海はまだだ。
ハナダの水はきれいだったけれど、それとはまた違う広さがあるのだろう。
「……行ってみたいな」
小さくそう零す。
クチバシティ。
海の町。
新しい景色。
そして、新しいジム。
考え始めると、胸の奥が少しずつ前向きに動き始める。
シオンタウンの静けさは大事な時間だったけれど、このままずっと立ち止まっていたいわけじゃない。
ここで受け取ったものを持って、また先へ行きたい気持ちの方が、今は少しだけ強かった。
「……クチバシティに、向かおうかな」
そう口にした瞬間、コハクが真っ先に鳴いた。
もう決まりだと言わんばかりの声だった。
ニドも少しだけ間を置いてから短く鳴く。
スイは静かに瞬きをして、それからやわらかく目を細めた。
ツキはすぐには反応しなかったけれど、やがて小さく骨を鳴らすように持ち上げた。
「……うん」
カエデはそっと頷く。
「じゃあ、次はクチバシティ」
言葉にすると、それだけで旅がまた動き始めたような気がした。
でも、決めたなら決めたで、ちゃんと考えなきゃいけないこともある。
カエデは図鑑を閉じて、荷物袋の中身を思い浮かべた。
食べ物、水、薬、ランタン。
足りないものはないか、ちゃんと確認したい。
「ポケモンセンターで聞いてみよっか」
そう言って立ち上がる。
「道のこととか、途中で気をつけた方がいいこととか」
受付にいたジョーイは、カエデたちを見るといつものやわらかな笑顔を向けてくれた。
「おはようございます。今日は出発の相談ですか?」
「……うん」
カエデは少しだけ頷く。
「次、クチバシティに向かおうと思ってて」
ジョーイはその名前を聞くと、少しだけ目を細めた。
「クチバシティですか。いいですね」
それから、受付の奥にあった簡単な地図を取り出してくれる。
「シオンから向かうなら、道はそこまで複雑じゃありません。でも、少し長いですし、途中で休める場所を頭に入れておくといいですよ」
「……うん」
カエデは真剣に聞く。
「港町だから、人も多いし、空気もこの町とはかなり違うと思います」
その言葉に、カエデは少しだけ笑う。
静かなシオンのあとに、人の多い港町。
たしかに、空気の違いだけでもかなりありそうだった。
ジョーイはさらに続けた。
「それから、クチバジムは電気タイプです」
その一言で、カエデの視線が自然とスイに向く。
スイもその視線に気づいたのか、静かにこちらを見返した。
「水タイプの子には少し厳しいかもしれません」
「……だよね」
ジョーイは頷く。
「でも、すぐにジムへ行かなきゃいけないわけではありませんから」
やさしい声だった。
「まずは町に着いて、空気に慣れて、見て回るだけでもいいと思いますよ」
その言葉に、カエデは少しだけ胸の力を抜く。
そうだ。
クチバシティに向かうと決めたからといって、着いた瞬間に次のジムへ挑まなきゃいけないわけじゃない。
ハナダでも、ジムを見るところから始めたのだ。
「……うん。そうする」
「ええ」
ジョーイは微笑む。
「クチバはにぎやかな町ですから、きっと今までとまた違う景色が見られますよ」
相談を終えて部屋へ戻ると、カエデは少しだけ気持ちが整理されているのを感じた。
クチバシティに向かう。
でも、急がない。
まずは着いて、見て、それから考える。
「……大丈夫そう」
ぽつりとそう言うと、コハクがすぐに足元へ寄ってくる。
ニドもその横に座って、スイは少しだけ近い位置へ来た。
ツキは少し遅れて、でもちゃんと輪の近くへ立つ。
カエデはしゃがみ込んで、一匹ずつ頭を撫でた。
「コハクは、また前見ててね」
嬉しそうに鳴く。
「ニドは、足元」
短く鼻を鳴らす。
「スイは……」
少しだけ目を細める。
「電気は気をつけないとだけど、だからって弱いわけじゃないから」
スイの目が少し揺れて、それから静かにこちらを見る。
「ツキも」
最後にその仮面の奥の目を見る。
「まだ一緒に歩き始めたばっかりだけど、ゆっくりでいいからね」
ツキは少しだけ骨を握り直したあと、小さく鳴いた。
その声は大きくはないけれど、ちゃんとここにいるよと返してくれた気がした。
昼を過ぎるころ、カエデは荷物をまとめ直した。
シオンタウンにはもう少しだけいたい気もする。
静かな町で、やさしい人たちがいて、少しだけ立ち止まることを許してくれる場所だったから。
でも、旅は進める時に進んでいきたい。
窓の外の町並みを見つめながら、カエデは小さく息を吐く。
「……ありがとう、シオン」
口に出すつもりはなかったのに、自然とそう言っていた。
ポケモンタワーの静けさ。
花屋のおばあさんの言葉。
ジョーイのやわらかな声。
ツキと出会った岩場までの乾いた道。
短い間だったのに、この町にもちゃんと、自分の足跡みたいなものが残った気がする。
夕方になる前、四匹と一緒に町を少しだけ歩く。
別れの挨拶みたいに、花屋の前を通って、広場の方を見て、遠くのポケモンタワーへも目を向ける。
どこも大きく変わったわけじゃないのに、昨日よりずっと馴染んで見えた。
「……次、クチバシティだね」
改めてそう言うと、コハクが元気よく鳴いた。
ニドも短く返事をして、スイは静かに歩幅を合わせる。
ツキは相変わらず少しだけ後ろからついてくるけれど、その距離は昨日より近かった。
「海、見れるかな」
ぽつりと零す。
「港も、船も……すごそうだよね」
想像の中のクチバシティは、シオンタウンとはまるで違う。
静かな紫の町から、今度はにぎやかな港町へ。
そんなふうに景色が大きく変わるのも、旅の面白さなのかもしれなかった。
ポケモンセンターへ戻る頃には、空が少しだけ赤みを帯びていた。
出発は明日の朝にすることに決めて、今日はしっかり休む。
そう決めると、胸の中のざわつきも少しだけやわらぐ。
部屋に入って荷物を置き、カエデはベッドの上に座る。
その足元に、四匹が自然と集まってくる。
「……みんな、ありがと」
小さくそう言う。
シオンで少し立ち止まれたのも、次へ進こうと思えたのも、きっと一匹じゃ無理だった。
コハクが喉を鳴らし、ニドが耳を揺らす。
スイは静かに目を細めて、ツキは骨を抱えたままじっとこちらを見ていた。
「次は、クチバシティ」
その言葉は、今日何度目か分からない。
でも、口にするたび少しずつ本当になっていく。
「また新しい町だね」
窓の外では、シオンタウンの夕方が静かに深まっていた。
その静けさに背中を押されるみたいに、カエデはゆっくり目を閉じる。
旅はまだ続いていて、次の行き先も、もうちゃんと見えていた。