朝のシオンタウンは、薄い青の光に包まれていた。
窓の外には、静かな町並みがやわらかく広がっている。
遠くにはポケモンタワーの影も見えていて、その高い姿は朝の空の中で静かに輪郭を浮かべていた。
カエデは身支度を整えながら、しばらくその景色を見ていた。
シオンタウンに来たばかりの頃は、ただ静かなだけの町に見えていたのに、今は少し違う。
静かだけど、空っぽじゃない。
悲しさだけじゃなくて、ちゃんと想う気持ちが息づいている町だと、少しだけ分かったからかもしれない。
足元の方を見る。
コハクはベッドのそばで丸くなっていて、ニドは少し離れた場所で耳だけを動かしている。
スイは窓辺の近く、ツキは壁際の少し影になった場所で、それぞれ静かに眠っていた。
四匹。
その並びを見ていると、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
ハナダでスイが仲間になって、シオンではツキが来てくれた。
旅はちゃんと進んでいて、そのたびに隣の景色も少しずつ変わっていく。
「……そろそろ、行こっか」
小さく声をかけると、真っ先に反応したのはコハクだった。
耳をぴんと立てて起き上がり、そのままベッドの端へ前足をかけてくる。
ニドもゆっくり目を開け、スイは窓辺の近くから振り返る。
ツキは少し遅れて、骨を抱えたまま静かに顔を上げた。
「おはよ」
一匹ずつにそう言ってから、カエデは小さく息を吸う。
「今日はクチバシティに向かうよ」
その言葉に、コハクがすぐに鳴いた。
ニドは耳をぴくりと動かし、スイは静かに目を細める。
ツキは少しだけ骨を抱き直したけれど、嫌そうではなかった。
「急がなくていいし、途中でちゃんと休む」
カエデは四匹を見渡す。
「でも、次の町、見に行きたい」
口にすると、その気持ちは思っていたよりまっすぐ胸の中へ落ちた。
シオンタウンにもう少しいてもいい。
そう思わないわけじゃない。
でも今は、ここで受け取ったものを持って、また先へ進みたい気持ちの方が強い。
朝食を食べに食堂へ降りると、シオンのポケモンセンターは相変わらず静かだった。
けれど今朝は、その静けさがもうよそよそしくない。
湯気の立つスープの匂いも、静かに食事をする人たちの気配も、この町らしい朝の景色としてちゃんと見える。
「今日は、ちゃんと食べてね」
カエデがそう言うと、コハクはすぐに器へ顔を寄せる。
ニドはいつものように少し慎重に、スイは静かに、ツキはまだ少しだけ様子を見ながら食べ始める。
ツキは昨日よりも少しだけ動きが柔らかかった。
新しい場所にも、四匹で食べることにも、ほんの少しずつ慣れてきているのが分かる。
「……よかった」
小さくそう零すと、ツキが一瞬だけこちらを見た。
仮面の奥の黒い目は、まだ全部をさらけ出してはいない。
それでも、昨日より遠くない。
食事を終えて受付へ向かうと、シオンのジョーイがいつものやわらかな微笑みを向けてくれた。
「おはようございます。今日は出発ですね?」
「……うん」
カエデは小さく頷く。
「クチバシティに向かおうと思って」
「そうですか」
ジョーイは少しだけ目を細める。
「シオンタウンはどうでしたか?」
その問いに、カエデは少しだけ考えた。
けれど、答えはすぐに出た。
「……静かで、やさしい町だった」
自分で言ってから、その言葉がすごくしっくりくる。
ジョーイは嬉しそうに微笑んだ。
「そう思ってもらえて、よかったです」
それから四匹の方へ視線を落とす。
「みんなも元気そうですね」
コハクが得意そうに鳴く。
ニドは少しだけ胸を張り、スイは静かに瞬きをする。
ツキは少しだけ緊張したように骨を握り直したけれど、それでもちゃんとジョーイを見ていた。
「ツキも、だいぶ落ち着いてきたね」
カエデがそう言うと、ジョーイはやさしく頷く。
「ええ。まだ慣れていく途中でしょうけど、こうして一緒に歩き出せているなら大丈夫ですよ」
その言葉に、カエデはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
大丈夫。
その一言は、旅の途中では思っているよりずっと大きい。
「……ありがとう」
そう言って頭を下げる。
「シオンで、いっぱいお世話になりました」
「いいえ」
ジョーイはやわらかく笑う。
「またいつでも寄ってください。帰ってくる場所のひとつとして、覚えておいてもらえたらうれしいです」
帰ってくる場所。
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちた。
マサラタウンを出た時の自分なら、そんなふうに思える町が増えていくなんて想像もしなかった。
ポケモンセンターを出る前に、カエデは一度だけ振り返る。
静かなロビー。
やわらかな灯り。
白い壁。
短い時間しかいなかったのに、ここにもちゃんと自分たちの時間がある。
「……行こっか」
外へ出ると、朝のシオンタウンは少しだけ賑わい始めていた。
花屋の前には今日も白と紫の花が並んでいる。
カエデは足を止めて、その店先を見つめた。
おばあさんはすぐに気づいて、にこりと笑う。
「あら、旅立ちかい?」
「……うん」
「そうかい」
おばあさんは花の水を替えながら、穏やかな声で続ける。
「じゃあ、いってらっしゃいだね」
それだけなのに、すごくこの町らしい言葉だと思った。
引き止めるでもなく、大げさに寂しがるでもなく、ちゃんと送り出してくれる感じがする。
「……ありがとう」
「海の町へ行くなら、風が変わるよ」
おばあさんは白い花に目を向けたまま言う。
「この町の静けさとは、また違う音がする」
「……うん」
カエデは小さく頷く。
「ちゃんと、見てくる」
花屋を離れて、町の出口へ向かう。
ポケモンタワーは今日は見上げなかった。
見なくても、そこにあると分かっているからだ。
無理に振り返らなくても、ちゃんと胸の中に残っている。
シオンタウンを抜けた道は、町の中より少し明るかった。
乾いた風が草の匂いを運んでくる。
けれどハナダへ向かう道とは違う。
もっと広くて、人や荷車の通った跡が多い。
港町へ続く道なのだと、そういうところからも分かった。
「……クチバって、大きい町なんだよね」
ぽつりとそう言うと、コハクが前を向いたまま鳴く。
ニドは足元を見ながらも耳を動かし、スイは静かにカエデの横を歩いている。
ツキは少しだけ後ろからついてきていたけれど、昨日より距離が近い。
「港があって、船が来て、人も多くて……」
そこまで言って、少しだけ笑う。
「想像つかないな」
シオンの静けさのあとに、にぎやかな港町。
きっと、空気の違いだけでもかなり大きいのだろう。
でも、だからこそ見てみたいとも思う。
途中、少し開けた場所で立ち止まり、カエデは一度だけ振り返った。
シオンタウンの建物が遠くに見える。
ポケモンタワーの影も、その向こうに静かに立っていた。
「……また、来るかもね」
誰に聞かせるでもないようにそう言う。
コハクが短く鳴き、スイが静かにこちらを見る。
ツキは立ち止まって、町の方を一度だけ見た。
ニドも耳をぴくりと揺らす。
「無理にじゃないけど」
カエデは少しだけ笑う。
「ちゃんと覚えてるから」
そう言ってから、また前を向く。
次はクチバシティ。
海の町。
人の多い町。
そして、電気タイプのジムがある町。
楽しみもある。
少しの不安もある。
特にスイのことを思うと、胸の奥が少しだけざわつく。
でも、それは今すぐ答えを出すことじゃない。
まずは着いて、見て、知るところからだ。
「スイ」
名前を呼ぶと、静かな目がこちらを向く。
「クチバ、どんな町だろうね」
スイは答えない。
けれど、そのままカエデの横に並ぶ。
それだけで十分だった。
「……ツキも」
少しだけ後ろを歩く小さな背中を見る。
「人の多い町、びっくりするかもね」
ツキは骨を抱えたまま、仮面の奥の目でこちらを見た。
「大丈夫。いきなり無理させないから」
そう言うと、ツキは小さく鳴いた。
まだぎこちないけれど、その返事がちゃんとうれしい。
昼前、道の脇の木陰で少し休憩を取る。
パンを分けて、水を飲んで、四匹の顔を順番に見る。
コハクは相変わらず機嫌よく食べているし、ニドはきちんと周りを見ながら静かに食べる。
スイは落ち着いていて、ツキはまだ少し警戒深いけれど、昨日よりは確かにこの時間に馴染んでいた。
「……四匹、なんだね」
思わずそう言う。
コハクが顔を上げ、ニドが耳を揺らし、スイとツキもこちらを見る。
「なんか、増えたなあって」
少しだけ笑ってしまう。
「最初はコハクだけだったのに」
マサラタウンを出た日。
まだ何も持っていないような気がしていた自分。
あの頃から比べたら、旅の景色も、隣の気配も、ずいぶん増えた。
「……ありがと」
その言葉に、コハクが真っ先に鳴く。
ニドも小さく返事をして、スイは静かに目を細めた。
ツキは少しだけ骨を鳴らすように持ち上げる。
カエデはその音を聞いて、やわらかく笑った。
午後になって、道は少しずつ賑やかになってきた。
荷車が通ることもあれば、反対側から旅のトレーナーが歩いてくることもある。
シオンタウンの静けさから離れていくのが、足音の数だけでも分かった。
「……ほんとに変わってきたね」
ぽつりとそう言うと、コハクが前を見上げる。
ニドは少しだけ周囲への警戒を強め、スイは落ち着いて歩幅を保っていた。
ツキは最初こそそういう気配に少しだけ体を固くしたけれど、カエデたちがいつも通り歩いているのを見ると、少しずつ力を抜いていく。
「だいじょうぶ」
カエデは歩きながら小さく言う。
「クチバに着いても、急がなくていいからね」
それがツキへ向けた言葉だと分かって、コハクが少しだけ振り返る。
ニドも耳を揺らし、スイはカエデの歩幅にぴたりと合わせた。
シオンタウンを背に、道はまっすぐ先へ続いている。
まだクチバシティは見えない。
でも、そこへ向かうと決めた今、その見えない先も前ほど遠く感じなかった。
「……行こうね」
誰にともなくそう言う。
でも、すぐに四つの気配が返ってくる。
静かな町を出て、また新しい景色へ。
カエデたちは、クチバシティへ向かう道を、ゆっくりと、でも確かに進み始めていた。