シオンタウンを離れてしばらく歩くと、道の空気はまた少しずつ変わっていった。
乾いた草の匂いの中に、今までとは違う湿った気配が混ざり始める。
ハナダの水辺で感じたものとも違う。
もっと広くて、遠くからまとまって流れてくるような匂いだった。
「……ん?」
カエデは足を止めて、小さく鼻を鳴らした。
風がもう一度吹く。
やっぱり、さっきと同じ匂いがする。
コハクが前を歩きながら振り返る。
ニドは足元を見ていた顔を上げて、耳をぴくりと動かした。
スイも静かに首を上げ、ツキは骨を抱えたままカエデのすぐ後ろで立ち止まる。
「……なんか、匂い変わったよね」
そう言うと、コハクが短く鳴いた。
たぶん、気づいていたのだろう。
ニドは少しだけ警戒した顔をしながら風上を見る。
スイは何も言わないけれど、目だけは遠くを見ていた。
「これが、海の匂いなのかな」
口にした瞬間、自分でも少しだけ胸が高鳴った。
海。
まだ見たことのない広い水。
ハナダシティの水辺は好きだったし、スイもきれいに泳いでいた。
でも、海はきっとそれとは全然違う。
そう思うだけで、知らない景色がまたひとつ近づいてきた気がした。
道は、シオンへ向かっていた頃よりずっと人通りが多くなっていた。
荷車を引く人。
大きな荷物を背負った旅人。
買い出しの途中らしい家族連れ。
通り過ぎる人の服装も少しずつ変わっていて、町の空気が近づいていることを教えてくる。
「……クチバ、ほんとに大きい町なんだろうね」
ぽつりとそう言うと、コハクが元気よく鳴いた。
ニドは落ち着いたまま歩いているけれど、耳だけは忙しく動いている。
スイはカエデの横にぴたりとついていて、ツキはまだ少し後ろ気味だった。
でも、シオンを出た時よりその距離は縮まっている。
「ツキ、大丈夫?」
少し振り返ってそう聞くと、ツキは仮面の奥の目でじっとカエデを見てから、小さく鳴いた。
それはたぶん、まだ慣れないけどついていく、みたいな声だった。
「うん。ゆっくりでいいからね」
そう言ってから、カエデはツキの歩幅に合わせて少しだけ速度を落とした。
コハクはすぐに気づいて足を緩めるし、ニドもその変化に合わせる。
スイはもともとカエデの横にいたから、そのまま自然についてきた。
四匹それぞれ歩き方は違うのに、こうして同じ速さへ揃っていくのが少し不思議で、少しだけ嬉しい。
昼を少し過ぎたころ、道の脇に木陰を見つけて休むことにした。
大きめの岩と低い木があって、人が何度か休んだらしい踏み跡もある。
カエデは荷物を下ろして、みんなに水を分けた。
「コハク、飲みすぎないでね」
先に器へ顔を突っ込みそうになったコハクへそう言うと、少しだけ不満そうに喉を鳴らす。
「分かってるよ。暑くなってきたもんね」
そう言って頭を撫でると、すぐ機嫌を直して、今度はちゃんと落ち着いて飲み始めた。
ニドは水を飲んだあと、すぐに周囲を見回した。
こういう時でも見張りをやめないのが、もうニドらしくなっている。
「……ありがと」
カエデがそう言うと、ニドは少しだけ耳を揺らした。
照れたみたいに顔をそらしたけれど、嫌ではないらしい。
スイは静かに水を飲んでから、風の匂いを確かめるみたいに顔を上げた。
海の気配が強くなるにつれて、スイの表情も少しずつ変わっている気がする。
落ち着いているのに、どこか集中しているような、遠くを見ているような顔だった。
「スイ」
名前を呼ぶと、ゆっくり視線がこちらへ向く。
「海、気になる?」
そう聞いても、もちろん言葉の返事はない。
でも、少しだけ目を細めたその顔は、嫌ではないと伝えてくれているようだった。
最後にツキを見る。
ツキは水の器へ顔を寄せていたけれど、まだ少しだけ飲み方が慎重だ。
周りに取られないか確かめるみたいに、一口ずつ間を置いている。
「……大丈夫だよ」
カエデはできるだけやわらかい声で言う。
「誰も取らないから」
ツキはその言葉を聞いているのかいないのか、少しだけ耳を動かした。
それから、昨日よりほんの少しだけ自然に次の一口を飲んだ。
休憩を終えて、また道を進む。
しばらくすると、地面の色まで少し変わり始めた。
土が乾いて白っぽくなり、風が吹くたびに細かい砂の気配が混ざる。
木々の間隔も広くなって、遠くの空が見えやすくなっていく。
「……あ」
最初に気づいたのは、コハクだった。
いきなり立ち止まり、前を向いたまま耳を立てる。
「どうしたの?」
そう言ってカエデも前を見る。
道の先、少し高くなったところの向こうに、今まで見たことのない色があった。
青。
でも、空の青とは違う。
もっと深くて、光を返して揺れている青だった。
「……海」
その一言が、ほとんど勝手に口から出た。
カエデは足を速める。
駆け出すほどじゃない。でも、自然と歩幅が大きくなる。
コハクも一緒に前へ出て、ニドはそのあとを追い、スイは息を呑むみたいに静かに進む。
ツキも少し遅れながら、ちゃんとついてくる。
道がひらけた瞬間、目の前に海が広がった。
「……っ」
思わず、立ち尽くした。
広い。
ただそれだけで、胸がいっぱいになる。
どこまで続いているのか分からない水の面が、陽射しを受けてきらきらしている。
波が遠くで白く砕けて、その音が少し遅れて耳に届いた。
ハナダの川や水路とは全然違う。
“向こう岸”が見えない水なんて、カエデには初めてだった。
「……すごい」
小さな声が、そのまま風に混ざって消える。
コハクは最初、何が起きたのか分からないみたいに目を丸くしていた。
それから、ぱっと嬉しそうな顔になる。
ニドは少しだけ身を引くようにしている。
水の量に圧倒されているのかもしれない。
スイは、ただじっと海を見ていた。
その青を、風を、音を、静かに受け止めるみたいに。
ツキは仮面の奥の目で何度も海とカエデを見比べていた。
「……これが、海なんだね」
誰にともなくそう言う。
すると、コハクが元気よく鳴いた。
波の音に負けないくらいの声だった。
その反応が可笑しくて、カエデは思わず笑ってしまう。
「うん、コハクもびっくりしたよね」
頭を撫でると、興奮したまま喉を鳴らす。
ニドのそばへしゃがみ込む。
「ニドは……ちょっと怖い?」
そう聞くと、ニドは耳を少し伏せた。
でも逃げようとはしない。
「分かるよ。私もちょっとびっくりしてる」
そのあと、スイの隣へ立つ。
スイは相変わらず何も言わない。
けれど、海を見るその目には、ハナダの水辺を見ていた時とは少し違う光があった。
もっと遠くを見ている感じ。
もっと深い水の色を、そのまま受け取っている感じ。
「……スイ」
そっと名前を呼ぶ。
「好き?」
スイは少しだけ目を細めて、静かに小さく鳴いた。
「そっか」
それだけで十分だった。
たぶん、好きなのだ。
言葉にできないくらい大きいだけで。
その時、風に乗って別の音が届いてきた。
がしゃん。
がらがら。
人の声。
笛みたいな鋭い音。
カエデが顔を上げる。
海の向こう……ではなく、少し左の方角。
そこに、建物が見えていた。
大きなクレーンみたいな影。
いくつも並ぶ屋根。
高いマストのようなもの。
そして、海に突き出す桟橋。
「……クチバシティ、かな」
港町。
その言葉の意味が、ようやく景色として目の前に現れた気がした。
シオンタウンの静けさとはまるで違う。
風の音に混ざって、人と機械の音が絶えず聞こえてくる。
たぶん、あそこには今まで見たことのないくらいたくさんの人とポケモンがいるのだろう。
「……着いた、のかな」
そう呟くと、コハクが元気よく鳴く。
ニドは少し緊張したように耳を立て、スイは港の方をじっと見ている。
ツキはカエデの少し後ろへ下がった。
人の気配や音の多さに、もう圧倒され始めているのかもしれない。
「だいじょうぶ」
カエデはすぐに振り返って言う。
「いきなり中までは入らないから」
ツキはその言葉に、少しだけ骨を抱き直した。
不安は消えていない。
でも、ちゃんと聞いてはいる。
「まずは、近くまで行ってみようか」
カエデは四匹を見渡す。
「無理そうなら、その前で休む」
みんなにそう言い聞かせるように言ってから、カエデはもう一度海を見る。
潮の匂いが強い。
波の音も、風も、知らない町の音も、全部が今までと違う。
でも、不思議と足は前に出た。
道を下っていくにつれて、港町の気配はどんどんはっきりしていく。
大きな荷車が増えて、行き交う人の声も遠くからでも聞こえてくるようになった。
船乗りらしい服の人。
市場へ向かう人。
釣り竿を肩にかけた子ども。
今まで通ってきた町とは、動き方そのものが違う。
「……にぎやか」
カエデがそう言うと、コハクはむしろ楽しそうだった。
ニドは辺りを見回すのが忙しくて、耳が休む暇もない。
スイは落ち着いているけれど、海の近さのせいか、さっきよりずっと前向きな顔に見える。
ツキはカエデのすぐ横へ寄っていた。
知らない音が多いぶん、離れない方を選んだのだろう。
「ツキ、こっちでいいよ」
カエデは小さく言う。
「まだ慣れないもんね」
その声に、ツキは小さく鳴いた。
少しだけ仮面の奥の目がやわらぐ。
港町の入り口らしい看板が見えた時、カエデはまた足を止めた。
「……ここが、クチバシティ」
まだ町の端に立っただけだ。
中へ入ったわけでも、見て回ったわけでもない。
でも、もう空気が違う。
海の匂いと、人の多さと、絶えない音。
シオンタウンから来たばかりの体には、それだけで少し圧倒される。
「今日は……どうしよう」
自分に聞くみたいに呟く。
「入るだけ、にする?」
コハクがすぐに鳴く。
ニドは少し慎重な顔。
スイは海の方を見てから、町の中へ視線を移す。
ツキはまだ少しだけ硬い。
カエデはその顔ぶれを見て、小さく息を吐いた。
「……うん」
やわらかく頷く。
「今日は、着いて、ポケモンセンター探して、休もう」
それが一番いい気がした。
この町は、たぶん焦って飛び込むより、ちゃんと慣れていく方がいい。
「それで、明日から見ようね」
その言葉に、四匹がそれぞれ小さく返事をする。
シオンタウンを出て、海を見て、クチバシティの入り口に立つ。
それだけで、今日一日はもう十分なくらい新しかった。
カエデは海から吹いてくる風を胸いっぱいに吸い込んで、四匹と一緒に町の中へ向かって歩き出した。
静かな町の次に待っていたのは、潮の匂いと人の声に満ちた、新しい景色だった。