トキワシティが近づくにつれて、道の空気が少しずつ変わっていった。
土の匂いに混じって、人の暮らす気配がする。
煮炊きの煙。荷車の軋む音。遠くから聞こえてくる人の声。
マサラタウンよりずっと大きな町なのだと、門の手前に立つだけで分かった。
カエデは足を止めて、フードの端をそっと引いた。
白い髪が目立たないようにするのは、もう癖みたいなものだった。
隣でガーディが小さく鳴く。
「……うん、行こ」
小さく返して、一歩を踏み出す。
町の中は、思っていたよりずっと賑やかだった。
通りには何人もの人がいて、買い物袋を提げた大人も、元気に走る子どももいる。屋根の上ではポッポが羽を休め、道端ではコラッタが店先からこぼれたパンくずを狙っていた。
カエデは視線を落とし気味に歩く。
見られることには慣れている。
けれど、知らない人の多い場所では、どこを見ればいいのか分からなくなる。
そんな中でも、ガーディだけは落ち着いていた。
ぴたりと隣を歩いて、ときどきこちらを見上げてくる。
「……お前は、平気そうだね」
そう言うと、ガーディは少しだけ胸を張った。
その様子に、カエデの口元がわずかにやわらぐ。
通りを進んでいくと、赤い屋根の建物が見えた。
入口の近くには見覚えのあるポケモンのマーク。
研究所で見た資料にも載っていた、ポケモンセンターだった。
カエデは立ち止まる。
旅の知識は多くない。
それでも、傷ついたポケモンを休ませられる場所で、トレーナーも泊まれることくらいは知っていた。
「……ここ、入ってみよっか」
ガーディが素直に鳴いて、カエデの一歩先を歩く。
自動ドアが開いた瞬間、ひんやりした空気が頬に触れた。
中は明るくて、清潔で、どこか安心する匂いがした。
機械音と人の話し声が混ざっているのに、不思議と落ち着く。
受付の向こうにいたジョーイが、カエデたちに気づいて微笑んだ。
「いらっしゃいませ。ポケモンセンターへようこそ」
その声に、カエデは少しだけ目を見開く。
ようこそ、なんて言われたことはほとんどなかった。
「ポケモンの回復ですか?」
「……あ、えっと……」
言葉が少しつかえる。
ガーディに大きな怪我はない。けれど、初めての町で何をどう言えばいいのか分からなかった。
するとジョーイは、ガーディの様子を見てやわらかく続けた。
「旅に出たばかりですか?」
「……うん」
「それなら少し休んでいくといいですよ。お部屋も空いていますし、お食事もありますから」
カエデは思わず顔を上げた。
「……いいの?」
「もちろんです。ポケモンセンターは、旅をするトレーナーのための場所ですから」
当たり前みたいに言われて、胸の奥が少しだけざわつく。
自分も“旅をするトレーナー”として見てもらえているのだと、そこでやっと実感が湧いた。
ジョーイは端末に何かを入力しながら、にこやかに尋ねる。
「お名前は?」
「……カエデ」
「カエデさんですね。こちらのガーディちゃんも、とてもお利口そう」
ガーディは褒められたのが分かったのか、小さく喉を鳴らした。
ジョーイが少しだけ笑う。
「かわいい色の子ですね」
「……色違い、だから」
「ええ。でも、とてもきれい」
その言い方に、余計な驚きも詮索もなかった。
ただ、本当にそう思ったから口にしたような声だった。
カエデは何も言えずに立ち尽くす。
見られることには慣れていても、こういうふうに言われることには慣れていなかった。
「……ありがと」
やっとそれだけ返すと、ジョーイは嬉しそうに頷いた。
部屋は二階の端だった。
小さいけれど清潔で、きちんと整えられたベッドが二つ置かれている。窓の外にはトキワシティの緑が見えて、その向こうには深い森の色も覗いていた。
カエデは荷物を下ろし、しばらく何も言わずに立っていた。
こんなちゃんとした部屋に入るのは久しぶりで、どこまで触っていいのか分からない。
ガーディは先にベッドのそばへ行き、くるりと一周してからこちらを見た。
「……使って、いいんだよね」
小さく呟くと、ガーディが短く鳴く。
その声に背中を押されるみたいに、カエデはようやくベッドの端に腰を下ろした。
やわらかい。
それだけのことに、少し驚く。
ボロ屋の固い寝床とは全然違う感触だった。
気を抜いたら、そのまま沈み込んでしまいそうになる。
ガーディが前足をベッドに乗せて、顔を覗き込んでくる。
「……だいじょうぶ」
そっと頭を撫でる。
「ちょっと、びっくりしただけ」
夕方、食堂で出された温かいスープを口にした時、カエデはしばらく動けなかった。
ちゃんと温かくて、塩気があって、具が入っていて、噛まなくても喉を通る。
そんな当たり前のことが、胸の奥にじんわり広がる。
ガーディの器にも、栄養のありそうなポケモンフードが盛られていた。
夢中で食べる姿を見て、カエデは小さく息を吐く。
「……よかったね」
そう言うと、ガーディは顔を上げ、口元に少しだけ餌をつけたまま鳴いた。
カエデは思わず笑って、そのまま指先で拭ってやる。
食後、廊下の窓から外を眺める。
町の灯りがひとつずつともり始めていた。
ここはマサラタウンじゃない。
明日になっても、誰もカエデを“あの子”とは呼ばない。
少なくとも、まだ噂の届いていないこの町では、自分はただの旅の始まったばかりのトレーナーだ。
その事実が、怖くて、少しだけ嬉しい。
「……明日、トキワの森だね」
呟くと、隣のガーディが窓の外を見たまま小さく鳴いた。
トキワの森。
深くて、広くて、虫ポケモンが多い森。
ボロ屋で耐えていた頃には、ずっと遠い場所だった。
でも今は、その入口のすぐそばまで来ている。
カエデは窓硝子に映る自分を見る。
白い髪も、赤い目も、変わらない。
過去も消えていない。
それでも、今日は少しだけ違った。
この町で、ようこそと言われた。
旅をするトレーナーだと、当たり前みたいに扱われた。
その小さな出来事だけで、胸の奥の冷たいところが少しだけ溶けた気がした。
「……行けるかな」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
けれど隣で、ガーディが迷いなく一度だけ鳴く。
カエデはその頭に手を置いた。
「……うん」
まだ不安はある。
怖さも、消えてはいない。
それでも、もう前へ進むしかなかった。
トキワシティの夜は、思っていたより静かであたたかかった。