誰にも祝われない旅立ち   作:ひよこ大福

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ポケモンセンターの夜

夜のポケモンセンターは、昼間よりずっと静かだった。

 

廊下を行き交う足音も少なくなって、聞こえてくるのは遠くの機械音と、時々どこかの部屋で鳴くポケモンの声くらい。

部屋に戻ったカエデは、扉を閉めてから小さく息を吐いた。

 

「…ちょっと、落ち着かないね」

 

そう言うと、ガーディがベッドのそばでこちらを見上げた。

大丈夫だよ、とでも言うみたいに、短くひとつ鳴く。

 

部屋はきれいだった。

白いシーツも、磨かれた床も、窓際に置かれた小さなランプも、どれも壊れかけたボロ屋にはなかったものだ。

きれいすぎて、逆にどこまで触っていいのか分からなくなるくらいだった。

 

カエデは荷物袋の口を開けて、中を確認する。

古い布、少しの食べ物、図鑑、モンスターボール。

旅に出たばかりの荷物は、改めて見ても少なかった。

それでも、前よりはちゃんと“持っている”気がした。

 

図鑑をベッドの端に置いて、モンスターボールを手の中で転がす。

中にはガーディのぬくもりがある。

そう思うだけで、不思議と胸のあたりが静かになった。

 

けれど、そのボールを見てから、カエデは少し迷う。

 

「…お前、どうする?」

 

ガーディは首を傾げた。

 

「夜、ボールの中のほうがいいのかなって…」

言ってから、自分でも少し変なことを聞いたと思った。

森で一緒にいた時も、ボロ屋で眠る時も、ガーディはいつも外にいた。

けれど今は、ちゃんとした部屋で、ちゃんとしたベッドがあって、旅をするトレーナーらしい夜を過ごすのだと思うと、どうするのが正しいのか分からなくなる。

 

ガーディはボールではなく、ベッドの脇に前足をかけた。

そして、じっとカエデを見る。

 

「…外がいいの?」

 

今度はしっぽが小さく揺れる。

 

カエデは少しだけ目を細めた。

 

「…そっか」

 

それなら、それでよかった。

正しいかどうかより、ガーディが落ち着ける方が大事だった。

 

部屋の隅には小さな洗面台があって、ジョーイに渡されたタオルも置いてある。

カエデはしばらくそれを見つめていたけれど、やがてそっと手を伸ばした。

水は冷たすぎず、顔を洗うだけで少し疲れが落ちる。

濡れた髪を指先で整えながら、鏡の中の自分を見た。

 

白い髪。

赤みのある目。

見慣れているはずなのに、明るい部屋の鏡に映ると、少しだけ知らない誰かみたいに見える。

 

マサラタウンにいた時は、誰かの家の鏡を見ることもほとんどなかった。

見たところで、目を逸らされることの方が多かったからだ。

けれどここには、カエデを見て顔をしかめる人はいない。

少なくとも今は、それだけで十分だった。

 

顔を拭いて部屋へ戻ると、ガーディが先に片方のベッドの横で丸くなっていた。

 

「…そこ、気に入ったの?」

 

問いかけると、小さく喉を鳴らす。

カエデはもうひとつのベッドに腰かけた。

 

やわらかい。

昼間にも思ったけれど、夜になると余計に落ち着かないくらいやわらかかった。

身を沈めると、体がふわっと支えられる。

固い寝床に慣れた体には、それが少し頼りなくも感じる。

 

「…ちゃんと寝られるかな」

 

ぽつりと零すと、ガーディが立ち上がって近づいてきた。

ベッドの縁に前足をかけ、そのまま顔を寄せてくる。

 

「…だいじょうぶ、って?」

 

鼻先が頬に触れて、くすぐったい。

カエデは思わず少し笑って、その頭を撫でた。

 

「…ありがと」

 

廊下の向こうから、誰かの笑い声が一瞬だけ聞こえた。

旅の途中の家族だろうか。あるいは友達同士のトレーナーかもしれない。

楽しそうなその声に、胸の奥がほんの少しだけ痛む。

 

こんなふうに、誰かと一緒に泊まる夜を知っていたら、何か違ったのだろうか。

十二歳の今まで、自分にはなかったものが、この世界には当たり前みたいにたくさんある。

そのことを思い知るたびに、少しだけ苦しくなる。

 

それでも、隣にガーディがいる。

 

カエデはベッドから手を伸ばして、床に降りたままのガーディの頭をもう一度撫でた。

 

「…明日、森だね」

小さな声で話しかける。

「たぶん、広いよね。虫ポケモンもいっぱいいると思う」

ガーディは黙って聞いている。

「でも…お前がいてくれるなら、平気かも」

 

最後の方は、ほとんど独り言みたいになった。

人には言えないことも、ガーディには自然と零れる。

それがカエデにとって、どれだけ救いになっているのか、たぶん本人が一番よく分かっていた。

 

部屋の明かりを落とすと、窓の外の町灯りが薄く差し込んだ。

ベッドに横になって目を閉じる。

けれどすぐには眠れない。

静かすぎるのでも、騒がしいのでもない。

安全なはずの部屋の中で、体だけがまだ慣れていないみたいだった。

 

布団を少しだけ握る。

やわらかい。

あたたかい。

それなのに、胸の奥のどこかは落ち着かなくて、気を抜くのが怖い。

 

…ここにいていいのかな。

 

ふと、そんな考えが浮かぶ。

ポケモンセンターは旅をするトレーナーのための場所だと、ジョーイは言っていた。

それなら自分もいていいはずなのに、長く誰にも歓迎されない場所で生きてきたせいで、許されていることほど信じられない。

 

その時だった。

 

床の方から、かすかな気配が近づく。

次の瞬間、ベッドの脇にあったぬくもりが、そっと指先に触れた。

 

目を開けると、ガーディがベッドのすぐ横まで来ている。

前足をかけることはせず、ただ、手の届くところに座っていた。

 

「…眠れないの?」

 

聞くと、ガーディは一度だけ鳴いた。

それがどっちの意味なのか分からなくて、カエデは少しだけ息を漏らす。

 

「…私も」

 

正直にそう言うと、ガーディは安心したように目を細めた。

 

カエデは少し迷ってから、布団の端をめくった。

 

「…少しだけなら、いいよ」

 

言い終わる前に、ガーディはするりとベッドへ上がってきた。

遠慮がちな動きなのに、丸くなる場所だけはしっかりカエデの足元に決めている。

 

「ふふ…そこなんだ」

 

小さく笑ってしまう。

ガーディは喉を鳴らしながら、尻尾を一度だけ揺らした。

 

足元から伝わるぬくもりは、布団の温かさよりずっと安心した。

生きている温度だ。

森で出会ってから、何度も隣にあったぬくもり。

それがここでも変わらないことに、ようやく心が追いついていく。

 

「…おやすみ、ガーディ」

 

返事みたいに、小さな寝息が混じる。

 

その音を聞いているうちに、まぶたが少しずつ重くなっていく。

さっきまで胸の中にあった不安も、暗闇の中に少しずつ溶けていった。

 

夜中、短い夢を見た。

 

冷たい戸口。

閉じられる扉。

どうして、という言葉すら飲み込んだ十歳の夜。

 

胸がぎゅっと縮んで、カエデは浅く息を吸う。

けれど次の瞬間、足元にあるぬくもりに気づいた。

 

ガーディがいる。

 

それだけで、夢の冷たさは少し遠のいた。

カエデは半分眠ったまま布団の中で小さく身じろぎし、足元の丸い体にそっと触れた。

 

「…だいじょうぶ」

 

それはガーディに向けた言葉だったのか、自分に言い聞かせたのか、もう分からなかった。

 

次に目を覚ました時、窓の向こうは薄青く明るみ始めていた。

 

朝だ。

 

カエデはしばらく、ぼんやり天井を見つめた。

雨漏りの染みも、歪んだ板もない天井。

昨夜見た時よりも、少しだけ現実味がある。

 

足元では、ガーディがまだ眠っている。

穏やかな寝息が聞こえて、カエデはそっと体を起こした。

 

「…朝だよ」

 

声をかけると、ガーディの耳がぴくりと動く。

やがてゆっくり目を開け、寝ぼけた顔のままカエデを見上げた。

 

その姿があまりにも無防備で、カエデは思わず頬をゆるめる。

 

「…ふふ。すごい顔」

 

言うと、ガーディはようやく我に返ったみたいに起き上がって、ぶるぶると体を震わせた。

 

夜を越えた。

ちゃんと眠れて、ちゃんと朝が来た。

それだけのことなのに、マサラタウンにいた頃よりずっと、今日が昨日の続きなんだと思えた。

 

カエデは窓の外へ目を向ける。

トキワシティの朝が、静かに動き始めている。

この先には森がある。

まだ知らない道がある。

 

でももう、昨夜ほど怖くはなかった。

 

「…行こっか、ガーディ」

 

そう言うと、ガーディは今度こそはっきりと鳴いた。

 

ポケモンセンターで過ごした最初の夜は、カエデの旅に、小さな安心をひとつ増やしてくれた。

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