朝のトキワシティは、夜より少しだけ明るくて、少しだけにぎやかだった。
ポケモンセンターで簡単な朝食をとってから、カエデはガーディと並んで外へ出る。
昨夜ちゃんと眠れたせいか、足取りは思っていたより軽かった。
「……今日は、森行こうか」
そう声をかけると、ガーディが短く鳴く。
その返事に小さく頷いて、カエデはトキワの森へ続く道を歩き出した。
町を離れるにつれて、空気の匂いが変わる。
草と土の匂いに、湿った木の香りが混ざっていく。
やがて見えてきたのは、大きな木々が連なる深い緑だった。
トキワの森。
入口に立つだけで、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
頭上ではポッポの羽音がして、遠くでは虫ポケモンの羽ばたきも聞こえる。
カエデは少しだけフードを押さえた。
「……行こっか」
ガーディが先に一歩、森の中へ踏み込む。
カエデもそのあとを追った。
森の中は薄暗く、朝だというのに木漏れ日が細く地面へ落ちているだけだった。
道はあるけれど、少し外れればすぐに茂みに飲まれてしまいそうだ。
足元には落ち葉が重なり、踏むたびにかさりと乾いた音がする。
カエデは周囲を見ながらゆっくり進んだ。
ボロ屋で暮らしていた頃も森には入っていたけれど、ここは空気が違う。
もっと深くて、もっとたくさんのポケモンが暮らしている気配がした。
木の根元でキャタピーが這っている。
少し離れた枝には、トランセルがじっとぶら下がっていた。
「……ほんとに、いっぱいいる」
思わずそう零すと、ガーディが誇らしげに鼻を鳴らした。
自分の方が慣れているとでも言いたげで、カエデは少しだけ笑う。
その時、前の茂みががさっと揺れた。
カエデはすぐに足を止める。
ガーディも低く身構えた。
もう一度、茂みが揺れる。
次の瞬間、小さな紫色の影が飛び出してきた。
「わ……っ」
反射的に身を引く。
飛び出してきたのはニドランだった。
額の小さな角をこちらへ向け、警戒するように低く唸っている。
まだ大人ではない、小柄な♂だった。
けれど、その目は弱々しくない。
むしろ、必死にこちらを追い払おうとしているみたいだった。
「……どうしたの」
カエデが小さく声をかけても、ニドランは唸るのをやめない。
その後ろ、茂みの陰に目を向けると、木の根元に木の実がいくつか落ちていた。
たぶん、あれを守っているのだ。
ガーディが一歩前へ出る。
するとニドランはびくっと体を震わせたあと、逃げる代わりに地面を蹴った。
「ガーディ!」
叫ぶより早く、ニドランが突っ込んでくる。
ガーディも横へ跳んでかわしたが、土の上に爪の跡が鋭く走った。
カエデの胸がどくんと鳴る。
これが、はじめてのちゃんとしたバトルだった。
「……だいじょうぶ」
自分に言い聞かせるみたいに呟いて、カエデはガーディを見る。
「落ち着いて。見てからでいいよ」
ガーディはすぐに耳を立て、ニドランの動きを見た。
もう一度、ニドランが飛びかかってくる。
今度は真正面ではなく、少し右に回り込むような動きだった。
「右……っ、下がって!」
ガーディが素早く後ろへ跳ぶ。
ニドランの角が空を切った。
でも、ニドランは止まらない。
着地した瞬間に向きを変え、すぐまた距離を詰めてくる。
カエデは息を詰めた。
小さいのに速い。
それに、ただやみくもに突っ込んでいるわけじゃない。
「ガーディ、ひのこ……!」
声をかけると、ガーディの口元に火の粉が灯る。
ぱっと散った小さな炎が、ニドランの手前で弾けた。
ニドランはとっさに横へ飛んで避けたものの、完全にはかわせなかったらしい。
足がわずかによろめく。
「今……っ、たいあたり!」
ガーディが地面を蹴る。
低く体を沈めたまま、まっすぐニドランへぶつかった。
「ニドッ!」
小さな体が落ち葉の上を転がる。
けれどニドランはすぐに起き上がった。
目にはまだ闘志が残っている。
カエデは思わず唇を噛んだ。
強い。
小さいのに、逃げない。
ニドランがまた構える。
でも今度は、さっきより足が少し重そうだった。
カエデの脳裏に、研究所で受け取ったモンスターボールが浮かぶ。
捕まえる。
その考えが胸をよぎった瞬間、自分でも驚く。
旅に出たばかりで、まだガーディ以外の仲間なんて想像もしていなかった。
でも、目の前のニドランはただ暴れているわけじゃない。
守るために戦っている。
その強さが、どうしても目を離せなかった。
「……ガーディ、もう一回だけ」
ガーディが振り返る。
カエデは小さく頷いた。
「ひのこ」
今度の火の粉は、さっきより少しだけ正確に飛んだ。
ニドランの手前で散って、その動きを止める。
ひるんだ一瞬を逃さず、ガーディが前へ出る。
「たいあたり!」
ぶつかった衝撃で、ニドランの体がまた地面に転がった。
今度はすぐには立ち上がれない。
荒い息。
それでもこちらを睨む目だけは消えていなかった。
カエデはポケットに手を入れる。
指先に触れたボールは、まだ少しだけ緊張する重さだった。
「……ごめん」
誰に向けた言葉か分からないまま、小さくそう言って、ボールを投げる。
赤い光がニドランを包み込んだ。
ボールが地面に落ちる。
一回。
二回。
三回。
かちり、と小さな音がした。
森の中が、急に静かになる。
カエデはしばらく動けなかった。
ちゃんと、捕まえた。
自分の手で、はじめて。
「……ほんとに」
小さく零してから、ゆっくりボールへ近づく。
拾い上げたそれは、思っていたよりも軽くて、でも確かな重みがあった。
ガーディが隣へ寄ってくる。
心配そうにも、少し得意そうにも見える顔だった。
「……ありがと。お前がいてくれたから」
そう言って頭を撫でると、ガーディは嬉しそうに喉を鳴らした。
カエデは深く息を吐いてから、ニドランの入ったボールを見つめる。
そしてそっと開閉ボタンを押した。
赤い光が広がって、ニドランが姿を現す。
着地した瞬間、警戒するように一歩引いたけれど、さっきみたいにすぐ飛びかかってはこなかった。
「……だいじょうぶ」
カエデはしゃがみ込んで、できるだけやさしく声をかける。
「取ったりしないよ。木の実も、お前のだったんだよね」
ニドランはまだ睨むような目をしていたが、完全に敵を見る顔ではなくなっていた。
その視線の先にある木の実を見て、カエデは少しだけ考える。
袋の中から、朝のうちにポケモンセンターでもらった小さなポフレをひとつ取り出す。
自分用にしまっていたものだった。
「……これ、食べる?」
そっと地面へ置いて、少し下がる。
ニドランはすぐには動かなかった。
でも、しばらくしてから恐る恐る近づいてきて、匂いを嗅ぐ。
それからぱくりと口にした。
その様子に、カエデの肩から少しだけ力が抜けた。
「……よかった」
隣でガーディが小さく鳴く。
ニドランはそちらを見て、一瞬だけ身構えたものの、もう飛びかかってはこなかった。
「仲良く……は、すぐじゃなくていいけど」
カエデは少し迷ってから、ぽつりと続ける。
「一緒に来てくれるなら、うれしい」
ニドランは答えない。
でも、逃げることもしなかった。
木の実のそばにいたのは、たぶんずっと一匹だったからだろう。
その小さな背中が、少しだけカエデには自分と重なって見えた。
誰にも頼らず、守るものだけを抱えて、ずっと気を張っていたような姿。
「……名前、どうしよう」
気が早いと思いながらも、そんなことを口にしてしまう。
ニドランが顔を上げる。
ガーディも気になるらしく、こちらを見る。
カエデは少し考えてから、ニドランの額の角を見た。
小さいけれど、まっすぐで、きちんと前を向いている。
「……ニド」
呼んでみると、ニドランの耳がぴくりと動いた。
「それで、いい?」
しばらくの沈黙。
それからニドランは、小さくひとつ鳴いた。
カエデは目を瞬かせて、ほんの少しだけ笑った。
「……そっか。じゃあ、ニドだね」
森の薄暗い道の中で、新しい仲間ができた。
はじめてのバトルも、はじめてのゲットも、思っていたよりずっと緊張して、でも思っていたよりちゃんと形になった。
カエデは立ち上がり、ガーディとニドを見る。
「……行こっか」
ガーディが元気よく鳴く。
ニドは少し遅れて、でも確かにそのあとをついてきた。
トキワの森の奥へ続く道は、まだ長い。
けれどカエデの隣には、もう一匹、小さな足音が増えていた。