トキワの森の奥へ進むほど、木々の色は深くなっていった。
頭上を覆う枝葉のせいで、まだ夕方にもなっていないのに、森の中は少し薄暗い。
踏みしめる落ち葉の音と、ときどき遠くで聞こえるポケモンの鳴き声だけが、静かな道に混ざっていた。
カエデは歩きながら、何度か後ろを振り返る。
ガーディはいつも通り、ぴたりと隣。
その少し後ろを、ニドが警戒するように周囲を見ながらついてきていた。
捕まえたあとも、ニドはすぐに気を許したわけじゃなかった。
少し近づけば身を固くして、ガーディが動けばすぐ耳を立てる。
それでも逃げなかったのは、カエデにとって少しだけうれしいことだった。
「……疲れてない?」
小さく声をかけると、ガーディは短く鳴く。
ニドは返事の代わりみたいに耳をぴくりと動かした。
森の中で夜を迎えるなら、そろそろ休める場所を探した方がいい。
ポケモンセンターみたいな安全な部屋はないのだから、ちゃんと考えないといけなかった。
カエデは周囲を見回す。
大きな根が張り出していなくて、地面がぬかるんでいない場所。
草が多すぎず、何かが潜んでいてもすぐ分かる場所。
それから、できれば木の幹が風よけになりそうな場所。
少し歩いて、ようやく条件の合いそうな場所を見つけた。
太い木が何本か寄って立っていて、その根元だけ少し開けている。
近くに浅い窪みもなく、空も少し見える。
「……ここなら、いいかな」
ガーディが周囲をくんくんと嗅ぎ、ニドも慎重にあたりを見たあと、小さく鳴いた。
二匹とも大きく嫌がる様子はない。
カエデは袋を下ろし、持ってきた古い布を広げる。
本当ならちゃんとした寝袋でもあればよかったのだろうけど、今あるのはこれくらいだ。
それでも地面にそのまま座るよりずっとましだった。
枯れ枝を拾い集め、小さな火を起こす。
森の中で大きな火は危ないから、本当に最低限だけ。
赤い火がぱちりと鳴いたのを見て、カエデはほっと小さく息を吐いた。
「……今日は、ここで寝よっか」
ガーディは火の近くで丸くなり、ニドは少し離れたところからじっとその様子を見ていた。
近づきたいけど、まだ完全には安心しきれていないようにも見える。
カエデは袋の中を探り、食べられそうなものを出す。
自分の分の固いパン。
残り少ない木の実。
それから、ポケモンセンターでもらっていたポケモンフード。
「はい。ごはん」
そう言って、先にガーディの前へ器代わりの布に乗せる。
ガーディは素直に近づいて食べ始めた。
次に、ニドの方を見る。
「……ニドも、食べる?」
ニドはすぐには来ない。
警戒したまま、カエデと食べ物を見比べている。
無理に呼ばない方がいい。
カエデはそう思って、ニドの前にも同じようにそっと置いた。
それから少しだけ距離を取る。
しばらくして、ニドはようやく近づいてきた。
匂いを嗅いで、少し迷って、それから小さく口をつける。
「……よかった」
その言葉に、ニドの耳がまたぴくりと動いた。
カエデも自分の分のパンをかじる。
ポケモンセンターで食べた温かい食事に比べれば、ずいぶん質素だった。
でも、今日は昨日みたいな寂しさはなかった。
火の明るさがあって、隣にはガーディがいて、少し離れたところにはニドもいる。
一人じゃないというだけで、夜の冷たさは少しやわらぐ。
食事が終わって、森の中がさらに暗くなってくると、カエデはポケモン図鑑を取り出した。
火の明かりに照らされる赤い表紙が、森の夜の中では少しだけ心強く見える。
「……そういえば、ちゃんと見てなかった」
ガーディが覗き込み、ニドも気になるのか少しだけ近づいてくる。
カエデはまずガーディを図鑑に向けた。
機械音声が静かな夜に淡々と響く。
『ガーディ。こいぬポケモン。人になつきやすく、賢い性質を持つ。忠誠心が強く、主人を守るためなら恐れず立ち向かう』
そこまでは前にも聞いた。
けれど今日は、そのあとに表示された技の欄へ目を向ける。
「……ひのこ、たいあたり、にらみつける……」
ガーディは自分のことを言われているのが分かるのか、少しだけ胸を張った。
カエデは思わず口元をゆるめる。
「うん、ちゃんと使えてるね」
次に、ニドの方へ図鑑を向ける。
ニドは少し身構えたけれど、逃げはしなかった。
『ニドラン♂。どくばりポケモン。警戒心が強く、耳を大きく動かして周囲の音を探る。小さな体でも勇敢に立ち向かう』
その説明に、カエデは小さく目を細める。
さっきの戦いを思い出せば、まさにそのままだった。
さらに画面を見下ろす。
「……たいあたり、にらみつける……それから、つつく」
ぽつりと読み上げると、ニドが少しだけ顔を上げた。
自分のことを知ろうとしているのが伝わったのかもしれない。
「……つつく、か」
小さな角と、素早い動き。
あの時は夢中で見ていたけれど、確かに正面からだけじゃなく、横に回って動いていた。
ただ勢いで突っ込んでいたんじゃない。
「ニド、けっこう強いんだね」
そう言うと、ニドは少しだけ得意そうに胸を張る。
その仕草が思っていたより幼くて、カエデはまた少しだけ笑ってしまった。
「……ふふ。そういう顔もするんだ」
その声がやわらかかったからか、ニドは一瞬きょとんとした顔をした。
それから、ほんの少しだけ距離を縮めてくる。
ガーディがその様子を見て、くんと鼻を鳴らす。
張り合っているのか、カエデの膝へ鼻先を押しつけてきた。
「わ……っ、ちょっと」
よろめきかけながらも、カエデはガーディの頭を抱えるように撫でた。
「……お前も強いよ。ちゃんと分かってる」
そう言うと、ガーディは満足したように目を細める。
その隣で、ニドがじっと見ている。
警戒の色はまだ少し残っているけれど、さっきまでみたいな尖った空気は薄れていた。
カエデは少しだけ迷ってから、そっと手を差し出した。
「……ニドも、来る?」
ニドはすぐには動かない。
じっとその手を見て、カエデの顔を見て、また手を見る。
森の中で拾ったわけでも、ずっと一緒にいたわけでもない。
今日出会って、今日捕まえたばかりだ。
信じきれなくて当然だった。
それでも、しばらくして。
ニドは一歩、また一歩と近づいてきた。
そして、差し出された手の匂いをそっと嗅いだ。
カエデは動かない。
無理に触れたりしない。
ニドは少し考えるように耳を揺らしてから、ようやく自分から額を手のひらへ軽く押しつけた。
「……っ」
小さく息が漏れる。
うれしくて、でも驚かせたくなくて、カエデはそっと指先だけで頭を撫でた。
「……ありがと、ニド」
ニドは嫌がらなかった。
少しぎこちないけれど、そのまま撫でさせてくれる。
ガーディがその様子を見て、少しだけ不満そうに鳴く。
カエデは思わず笑って、空いた手でガーディも撫でた。
「分かってるよ。お前が最初だから」
その言葉に、ガーディはようやく機嫌を直したみたいに喉を鳴らす。
森の夜は静かだった。
けれど静かなだけじゃない。
葉の擦れる音、遠くの羽音、小さな気配がいくつも重なって、この森がちゃんと生きていることを教えてくる。
火は少しずつ小さくなっていく。
カエデはそれを見ながら、図鑑を閉じた。
「……明日も歩かなきゃだし、もう寝よっか」
ガーディはすぐに布の上へ丸くなる。
ニドは少し迷ってから、最初にいた場所よりずっと近いところで腰を下ろした。
火を挟んで向かい側ではなく、カエデのすぐ手が届くくらいの距離だった。
それだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
カエデは布の上に横になり、二匹の姿を確かめるように目を向けた。
「……おやすみ、ガーディ」
小さく呼んでから、もう一つ視線を移す。
「……おやすみ、ニド」
ガーディは慣れたように寝息を返し、ニドは少しだけ照れたみたいに目を逸らしてから、小さく鳴いた。
その返事が聞けただけで、今日は十分だった。
森の中の野宿は、きっと楽なものじゃない。
寒さもあるし、油断もできない。
それでもカエデは、目を閉じる前に思う。
昨日より少しだけ、仲間が増えた。
昨日より少しだけ、心があたたかい。
トキワの森の夜は深く静かで、その真ん中でカエデは、ガーディとニドの気配に包まれながらゆっくりと眠りへ落ちていった。