カエデが目を覚ますと、火はもうほとんど消えていて、灰の奥に小さな赤だけが残っていた。布の上には朝露がうっすら降りていて、指先で触れるとひやりとする。
「……朝だよ」
小さく声をかけると、足元で丸くなっていたガーディが耳を動かした。少し遅れて、近くで眠っていたニドも目を覚ます。まだ眠たそうに瞬きをしている顔が少しだけ幼く見えて、カエデはそっと頬をゆるめた。
「……よく寝れた?」
返事の代わりに、ガーディは短く鳴き、ニドは小さく体を伸ばした。
それだけで、ちゃんと朝が来たことが分かる。
昨夜の残りを簡単に片づけて、カエデは荷物をまとめた。
持ち物は少ない。だから準備に時間はかからない。
けれど、布を畳みながら、昨日より少しだけ慣れた自分に気づく。
森で夜を越した。
ちゃんと朝を迎えられた。
それだけで、旅が少しずつ自分のものになっていく気がした。
「……行こっか」
二匹が立ち上がる。
ガーディはいつも通り、すぐ隣へ。
ニドは少し遅れてついてくるけれど、もう昨日みたいな距離の取り方ではなかった。
朝のトキワの森は、夜とはまた違う顔をしていた。
薄暗い木々のあいだから光が落ちて、葉先にたまった露が細かくきらめいている。遠くではキャタピーの鳴き声がして、頭上ではポッポが枝を移る羽音が聞こえた。
カエデは道を確かめながら歩く。
ときどき図鑑を見て、現在地の簡単な地図を開き、森の出口の方向を確認する。
研究所でもらった時は、ただの道具にしか見えなかった図鑑が、今はちゃんと旅の助けになっていた。
「……もう少し、かな」
そう呟くと、ガーディが前を向いたまま鳴く。
ニドも耳を動かし、少しだけ足を速めた。
森の奥へ奥へと進んでいるはずなのに、不思議と昨日より怖さは薄かった。
二匹の足音があるからなのか、それとも昨日、自分の手でニドを仲間にしたからなのか。
一人だった時には大きすぎた森が、今はちゃんと進んでいける場所に見える。
その時、道の先の茂みが揺れた。
カエデはすぐに足を止める。
ガーディが低く身を構え、ニドも小さく唸った。
飛び出してきたのは、野生のビードルだった。
一本角をこちらへ向けて威嚇するように鳴いている。道の真ん中に出てきたものの、完全に襲いかかるつもりというより、近づくなと牽制しているみたいだった。
その後ろの枝を見ると、葉の陰にいくつかの小さなビードルの姿がある。
「……あ、そっか」
巣を守っているのだと分かって、カエデはすぐにガーディの前へ手を出した。
「だいじょうぶ。行かないよ」
自分に言い聞かせるように、そう呟く。
ビードルはこちらを警戒したまま動かない。
カエデは少しずつ後ろへ下がった。
ガーディも、ニドも、その動きに合わせて距離を取る。
しばらくして十分に離れると、ビードルはようやく威嚇をやめて枝の方へ戻っていった。
静けさが戻る。
「……戦わなくてよかったね」
カエデがそう言うと、ガーディは少しだけ不満そうに鼻を鳴らした。
ニドは逆に、ほっとしたみたいに耳を伏せる。
カエデはしゃがんで、二匹の頭を順番に撫でた。
「無理に進まなくてもいい時は、そっちの方がいいもんね」
森で生きるポケモンたちには、ちゃんと理由がある。
守りたいものがあって、近づいてほしくない場所がある。
それはきっと、カエデ自身にも分かることだった。
歩き続けるうちに、少しずつ森の空気が変わっていく。
湿った木の匂いが薄れ、風の抜ける感じが強くなる。
頭上を覆っていた枝葉もまばらになってきて、差し込む光がだんだん増えていた。
カエデは思わず顔を上げる。
「……明るい」
その一言に、ガーディが嬉しそうに鳴いた。
ニドも足を止めず、けれどどこかそわそわした様子で前を見ている。
やがて、木々の切れ目が見えた。
その向こうにある光は、森の中の木漏れ日なんかじゃない。
もっと広くて、もっとはっきりした外の光だった。
カエデの足が少しだけ速くなる。
落ち葉を踏む音も、二匹の足音も、気づけば同じくらい弾んでいた。
そして。
最後の木立を抜けた瞬間、目の前が一気に開けた。
「……っ」
眩しくて、思わず目を細める。
森の深い緑の向こうには、見たことのない景色が広がっていた。
灰色の岩肌。
低く連なる山。
土の色が濃い道。
そして、その先に広がる、石造りの落ち着いた町。
ニビシティだった。
マサラタウンとも、トキワシティとも違う。
もっと硬くて、静かで、どっしりしている町。
風の匂いも少し乾いていて、森を抜けたことをはっきり教えてくる。
カエデはその場に立ち尽くした。
「……ここが」
口にしても、まだ少し実感がない。
自分が本当にトキワの森を抜けたのだということが、胸の奥へゆっくり落ちていく。
隣でガーディが元気よく鳴いた。
ニドも短く声を上げる。
二匹の声には、少しだけ誇らしさが混じっている気がした。
カエデはしゃがみ込んで、まずガーディの頭を抱えるように撫でた。
「……ありがとう。お前がいてくれたから、ここまで来れた」
ガーディは喉を鳴らして、カエデの肩に鼻先を押しつける。
その勢いに少しよろけて、カエデは小さく笑った。
次に、ニドの方を見る。
「ニドも」
そう言って、そっと手を伸ばす。
「昨日、仲間になったばっかりなのに……ちゃんと一緒に歩いてくれて、ありがと」
ニドは少し照れたみたいに耳を揺らしたあと、でも逃げずに額を手のひらへ寄せた。
その小さな仕草がうれしくて、カエデの胸の奥がじんわりあたたかくなる。
森を抜けた先には、新しい町がある。
知らない人たちがいて、知らない景色があって、まだ見たことのないことばかりが待っている。
怖くないわけじゃない。
けれど、前みたいな怖さではなかった。
今はちゃんと、足を前に出した先に何かがあると信じられる。
カエデはもう一度、ニビシティを見た。
石の町は静かにそこにあって、自分たちを拒むでも、迎えるでもなく、ただ次の場所として広がっている。
そのことが、逆に少しだけ心地よかった。
「……行こっか」
小さくそう言うと、ガーディが真っ先に歩き出す。
ニドもそのあとに続く。
カエデも顔を上げ、二匹と並んで歩き出した。
トキワの森は、もう後ろにある。
そしてその先には、ニビシティがある。
旅はまだ始まったばかりだった。