Fate/stay night [Alter Ego of Calamity] ――理外の双貌 作:りー037
【時刻:午前10:10】
【場所:冬木市・穂群原学園 屋上】
冷たい冬の突風が、屋上のフェンスを揺らして甲高い金属音を鳴らした。
だが、その音すらも、今の屋上を支配する絶対的な「静寂」を破ることはできなかった。
コンクリートの床には、自身のサーヴァントにすべてを丸投げし、呪いの王の視線を一瞥されただけで精神を破壊された間桐慎二が、白目を剥いて泡を吹き、失禁しながら痙攣している。
もはやマスターとしての機能はおろか、人間としての尊厳すら完全に喪失した無惨な肉塊。
「……」
ライダーは、その主の醜態を視界の端に収めながらも、一切の表情を崩さなかった。
いや、崩す余裕など一ミリも存在しなかったのだ。
彼女の眼前に立つ、純白の和服を纏った少年。
一見すれば、魔力も神秘も持たないただの人間に見える。だが、彼女が持つ神霊としての本能、そして数多の英雄を屠ってきた英霊としての第六感が、けたたましい警鐘を鳴らし続けていた。
(この男は、サーヴァントなどという枠組みに収まる存在ではない。……底なしの、純粋な『死』そのもの)
先ほど放った自身の神速の一撃を、ポケットから手も出さずに指二本で受け止められた。
それだけでなく、指先に込められた未知のエネルギー(呪力)は、ライダーの宝具である短剣の概念的強度すらも容易くミシリと軋ませた。
「ほう、勘がいいな。ならば、その目隠しの下にあるモノを見せてみろ」
宿儺は、三日月のように目を細め、ひどく楽しそうに嗤った。
「お前、ひどく上等な『目』を持っているだろう? 隠さずに俺を睨んでみろ、蛇女」
ライダーは、自身の正体はおろか、最大の切り札である『魔眼』の存在までも見透かされていることに戦慄した。
(これは、どういう……。初見のはず……それに、この男からは英霊特有の覇気ではなく、ただ自身を楽しませる『玩具』を開けるような、純粋な好奇心しか感じられない)
だが、選択肢はなかった。
近接戦闘では勝てない。魔術戦も無意味だろう。慎二を守り、この場を切り抜けるには、出し惜しみなどしている場合ではない。
「……後悔なさい」
ライダーは、両手を自身の顔へと添えた。
彼女の視覚を封じている結界宝具『自己封印・暗黒神殿(ブレーカー・ゴルゴーン)』
それを、ゆっくりと解き放つ。
「ダメっ、宿儺! その女の目を見ないで!!」
後方で事態を見守っていた遠坂凛が、ライダーの真名と宝具の正体に気付き、悲痛な叫びを上げた。
凛は咄嗟に自身の目を固く閉じ、魔力を込めた宝石を鏡のように展開して視線を逸らそうとする。
「――騒ぐな、凛。お前は下がっていろ」
だが、両面宿儺は凛の警告に耳を貸すどころか、ひどく面倒くさそうに吐き捨てながら、スッと無造作に歩み寄った。
彼が立ったのは、ライダーと凛を結ぶ直線上。
自身の純白の和服と背中で、マスターである凛への『視線』を完全に遮断する位置取りだった。
それは、気まぐれな庇護か。あるいは、極上の玩具を誰にも邪魔されず独り占めにするための身勝手な振る舞いか。
宿儺は凛を背後に隠したまま、むしろ嬉々として、四つの瞳を限界まで見開いてライダーの素顔を覗き込んだのだ。
パラリ、と。
黒い目隠しが風に舞い、床に落ちた。
そこにあったのは、宝石のように美しい、しかしこの世のあらゆる生命を否定する『四角い瞳孔』を持った、極彩色の魔眼。
『――キュベレイ(石化の魔眼)』
神霊レベルの最高位の魔眼が、解放された。
その瞬間。
屋上の空気が、物理的に「灰色」に染まった。
風が止まり、舞い散っていた埃が空中で静止し、コンクリートの床がさらに無機質な石英へと変質していく。
視界に収めた対象を、魔力抵抗の判定すら許さず、概念的に『石(無機物)』へと変換する絶対の呪い。
魔力のパラメーターが低い英霊であれば、一瞬で全身が石像と化して砕け散る。
「……」
ライダーは、自身の魔眼の全出力を、ただ眼前の宿儺ただ一人へと集中させた。
神代の呪いが、宿儺の肉体を、血管を、そして魂そのものを石へと変えようと侵食していく。
パキッ……ピキピキピキッ……!!
宿儺の純白の和服の裾が、そして彼の指先が、微かに灰色に変色し、石化の兆候を見せ始めた。
(……入った!)
ライダーが勝利を確信し、硬直した宿儺の首を刎ねようと短剣を構え直した、その刹那だった。
「――ほう。なるほどな」
石化しつつあったはずの宿儺の口が、三日月のように吊り上がった。
「なっ……!?」
ライダーの動きが、完全にフリーズした。
直視している。魔眼の出力は最大だ。それなのに、眼前の男は石化するどころか、ひどく感心したように自身の灰色になった指先を眺めているのだ。
「視覚という経路を通じて、対象の肉体と魂の『状態』を強引に書き換える術式か。神代の呪いとしては、非常に洗練されている。……美しい手品だ」
宿儺が、ゆっくりと首を鳴らした。
「だが、どんな呪いであれ、理屈があるなら『中和』できる」
その瞬間。
宿儺の背後に立っていた凛は、自身の体内の魔術回路が唐突に「チリッ」と熱を帯びるのを感じた。
(……え? 私の魔力が、吸われてる……!? ほんの少しだけど、この感覚は……宝具の……!)
シュゥゥゥゥ……ッ!!
宿儺の全身を、薄い水のような、あるいは陽炎のような透明な膜が覆い始めた。
『領域展延』
それは、通常の呪力行使とは異なる。宿儺が自身の持つ生得領域――すなわち、本来であれば大魔力をもって展開される『結界宝具』の極一部を、術式を付与せず「空の器」のまま自身の肉体に纏う、高度にして極小の宝具顕現であった。
この限定的に顕現した「空の世界」に、ライダーの魔眼が放つ石化の術式(概念)が次々と流れ込み、強引に中和・相殺されていく。
魔眼の石化を弾き返す、世界干渉の防壁。ゆえに、わずかばかりとはいえ、マスターである凛の魔力を起動の代償として要求したのだ。
ライダーがどれだけ眼力を強めても、石化の呪いは宿儺の肉体に届く前に、その薄い膜の表面でジュッと音を立てて消滅してしまった。
「視線すらも無効化する防御……!? ば、馬鹿な……!」
ライダーが戦慄する。
「ただ、すでに固まってしまった部分は仕方ないな」
宿儺は、灰色に石化してしまった自身の左手の指先を、右手の親指で無造作に弾いた。
ポロッ、と。自身の石化した指の肉が、砕けてコンクリートの床に転がる。
「……っ!?」
自らの肉を躊躇いもなく削ぎ落とした異常性に、ライダーが息を呑んだ直後。
宿儺の欠損した指先から新たな肉が盛り上がり、一瞬にして元の肌へと再生を果たした。
反転術式による、即座の部位欠損治癒。
そのあまりにも常軌を逸した光景への驚愕が、ライダーの『石化の魔眼』の出力を、ほんの一瞬だけ緩ませた。
その微かな隙を、呪いの王が見逃すはずがない。
「さあ、種明かしは終わりだ。……踊れ、蛇女」
宿儺は、肉体を覆っていた『領域展延』を即座に解除した。世界干渉の防壁を解き、剥き出しの殺意と共に術式を起動する。
宿儺が、愉悦に満ちた笑みを浮かべて指先を振るう。
シュパンッ!!!
放たれた見えない斬撃『解』は、ライダーの首元ではなく――その凶悪な呪いの出処である、彼女の『片目』を正確に狙い澄ましていた。
「――ッ!」
ライダーは神霊クラスの直感と最高峰の敏捷性を爆発させ、上体を超人的な柔らかさで反らして回避を試みる。
だが、不可視の神速の刃を完全に躱し切ることはできなかった。
「あ、ァァッ……!」
斬撃が彼女の美しい顔の半分を切り裂き、極彩色の魔眼の片方を無惨に潰した。
鮮血が夜風に舞い散る。視覚(魔眼)の半分を物理的に破壊されたことで、絶対的だった石化の呪いが強制的に停止し、屋上の空気が灰色の呪縛から完全に解放された。
「くっ……!」
潰された片目から血を流しながらも、ライダーは屋上の床を蹴り、壁を蹴り、フェンスを蹴って、重力を無視した三次元的な高速機動へと移行した。
見えない攻撃なら、立ち止まることは死を意味する。
彼女は残像を引きながら、鎖の付いた短剣(釘)を宿儺の死角から次々と投擲し、牽制をかける。
カキィン! ギィンッ!!
宿儺は一歩も動かず、飛来する刃を最小限の動きで弾き落としながら、連続して『解』を放つ。
ズバッ! ドガァァァァンッ!!
宿儺の放った不可視の刃が、屋上の貯水タンクを両断し、コンクリートの床に深いクレバスを穿つ。
ライダーはその破壊の嵐の中を、文字通り紙一重で駆け抜けていく。
太腿を掠め、肩当てを砕かれ、黒いライダースーツが所々切り裂かれて鮮血が散る。それでも彼女は、驚異的なバランス感覚で倒れることなく、宿儺の首を狙って高速の軌道を描き続けた。
「ククッ……ハハハハハッ!」
宿儺は、自身の周囲を飛び回るライダーの動きを目で追いながら、心底楽しそうに笑い声を上げた。
「良いぞ! 見事な足捌きだ。純粋な速度だけで俺の斬撃に反応して見せるとはな。神の端くれというだけのことはある!」
絶対的な強者による、弱者の武への純粋な賞賛。
だが、それは同時に、この『遊び』の終わりを意味していた。
「――だが、それはあくまで『一本の刃』ならの話だ」
宿儺が、両手を自身の胸の前にかざし、手のひらを交差させるようにして印を結んだ。
「な、に……!?」
空中で体勢を立て直そうとしていたライダーの全身の産毛が、かつてないほどの『死の警鐘』を鳴らした。
不可避の絶望。
「――散れ」
宿儺の両手から放たれたのは、単発の斬撃ではない。
巨大な屋上の空間そのものを覆い尽くすほどの、巨大で、緻密な『格子状の斬撃』。
縦と横に無数に交差する不可視の刃が、巨大な壁となってライダーへと迫る。
(躱せない……! 逃げ場が、ない……!)
上下左右、いかなる方向へ跳躍しようとも、そのすべてが刃の網の目に塞がれている。
サーヴァントの最高敏捷をもってしても、空間を埋め尽くすほどの面制圧の前に、完全に退路を断たれた。
ズババババババババババババババババババッ!!!!!!!
「あ……」
ライダーの口から、掠れた吐息が漏れた。
網目状の巨大な斬撃が、彼女の体を、結界を、そして宝具の鎖ごと、一切の抵抗を許さずに通り抜けた。
一瞬の静寂。
直後、ライダーの身体に無数の赤い線が格子状に浮かび上がった。
痛覚すらも追いつかない、あまりにも流麗で、美しすぎる解体。
「……見事な、太刀筋……」
ライダーは、自身の身体がサイコロ状に崩れ落ち、黄金の魔力粒子となって四散していくのを感じながら、どこか安堵したように息を吐いた。
この化け物の前では、誰がマスターであろうと、どんな奇策を弄そうと無駄だった。純粋な『格』の違い。それが分かっただけでも、英霊としての彼女の矜持は、奇妙なほどに満たされていた。
(ごめんなさい、サクラ……)
最後に、かつて自身を召喚してくれた、本当のマスターである薄幸の少女の顔を思い浮かべながら。
ライダー(メドゥーサ)の霊基は、冬木の空へと完全に四散し、消滅した。
【時刻:午前10:15】
【場所:穂群原学園 屋上】
ライダーが黄金の魔力粒子となって消滅した瞬間、学園全体をドーム状に覆っていた赤黒い闇――『鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』が、ガラスが割れるようにパリンと砕け散った。
空に立ち込めていた不気味な暗雲が晴れ、冬の澄んだ陽光が、再び屋上のコンクリートを白く照らし出す。
「……終わったのね」
遠坂凛は、ゆっくりと目を開け、安堵の息を長く吐き出した。
視線の先には、完全に精神を破壊されて白目を剥き、失禁したまま気絶している間桐慎二と、ひどく退屈そうに空を見上げている純白の和服の少年――両面宿儺の背中があった。
「結界の魔力供給源が断たれたわ。これで、倒れていた生徒たちも目を覚ますはずよ」
凛が慎二に近づき、冷たく見下ろす。
「間桐の魔術回路も持たないくせに、変な色気を出すからこうなるのよ。……まあ、宿儺の気迫だけで完全に壊れたみたいだし、魔術協会に引き渡すまでもないわね。一生、病院のベッドの上で怯えて暮らしなさい」
凛がそう吐き捨てた、その時だった。
「遠坂ッ!!」
バンッ!! と屋上の重い鉄扉が再び勢いよく蹴り開けられ、肩から血を流して息を切らす衛宮士郎と、銀の甲冑を纏ったセイバーが飛び込んできた。
「士郎? 遅かったじゃない。もう全部終わったわよ」
凛が、腰に手を当てて呆れたようにため息をつく。
「終わった……? じゃあ、結界の主は……」
士郎の視線が、床に倒れている慎二と、その傍らに立つ宿儺を捉える。
「間桐慎二がマスターだったわ。サーヴァントは、宿儺が『お掃除』してくれたところよ」
「慎二が……マスター……」
士郎は、信じられないものを見るような複雑な表情で、友人の無惨な姿を見つめた。だが、彼が生きており、学園の結界が完全に解かれたことに、ひとまずは安堵の息を漏らす。
「マスター。周囲の魔力反応の消失を確認しました。結界は完全に消滅しています」
セイバーが、警戒を解かずに静かに報告した。
「……しかし、これはあくまで『一つ目』が片付いたに過ぎませんね」
セイバーの翡翠の瞳が、凛と、そして宿儺へと向けられる。
「ええ。その通りよ」
凛は表情を引き締め、学園の屋上から見える遠くの山――深山町の奥にそびえる、円蔵山の方角を真っ直ぐに見据えた。
「これはただのイレギュラーな前座。……私たちが昨日の調査で突き止めた『本命』は、まだあそこに健在よ」
士郎もまた、凛の視線の先にある円蔵山を見上げた。
冬木中の人間から、致死量ギリギリの生命力(オド)を無差別に吸い上げ続けている、真の元凶。柳洞寺という最高の霊脈に陣取った、キャスタークラスの魔女。
「慎二の結界はただの便乗犯に過ぎなかった。……本命のキャスターは、今この瞬間も、あの山で強力な陣地(テリトリー)を完成させつつある」
凛が、ギュッと自身の拳を握りしめた。
「予定に変更はないわ。今日、日が落ちたら、私たち同盟はあの柳洞寺に総攻撃をかける」
「ああ。分かってる」
士郎が、肩の痛みを堪えながら力強く頷いた。
「慎二のことは……一成や先生たちに任せるしかない。今は、街の人間全員の命を吸い上げてるあの魔女を止めるのが先だ」
「敵は神代の魔術師よ。それに、どんなサーヴァントを門番として置いているかも分からない。真正面から攻め込むのは魔術師のセオリーとしては自殺行為だけど……やるしかないわね」
凛の言葉に、セイバーも静かに闘志を燃やす。
「シロウの剣として、いかなる陣地であろうと私が道を切り拓きます」
三人が、今夜の死闘に向けて重々しい覚悟を共有する中。
「……ふん。コバエの処理が終わったと思えば、次は籠城した魔女の巣か」
宿儺が、円蔵山の方角を見据えながら、ニィッと凶悪な牙を剥き出しにして嗤った。
彼の眼には、円蔵山に渦巻く途方もない魔力の奔流と、そこに築かれた防衛機構の分厚さが、はっきりと視えていた。
「安全圏に引きこもって弱者を啜るような臆病な魔女が、俺の『解』の前にどんな絶望の顔を見せるか。……まあいい。少しは俺の腹の足しになる『フルコース』であることを期待してやる」
冬木の空は青く澄み渡っていたが。
聖杯戦争の真の死闘――神代の魔女の要塞(柳洞寺)への決死の強襲作戦が、今、静かに幕を開けようとしていた。