Fate/stay night [Alter Ego of Calamity] ――理外の双貌 作:りー037
【時刻:午前3:30】
【場所:冬木市 深山町・衛宮邸】
言峰綺礼から不吉な助言を与えられた後、一行は重い足取りで冬木教会を後にした。
冬の夜の冷気は一段と厳しさを増していたが、それ以上に、彼らの心には「正体不明の泥」という新たな絶望の影が重くのしかかっていた。
「……とりあえず、今日は解散よ。互いに限界だし、こんな状態で動いても泥の餌食になるだけだわ」
凛は宿儺の肩を借りながら、掠れた声で言った。
「でも、この状況で別れるのは、危険すぎるわね。キャスターの結界が解けたとはいえ、あの泥がどう動くか分からないし、他のマスターが隙を突いてくるかもしれない」
「なら、うちに来たらどうだ?」
士郎が、意識の戻らないセイバーを背負い直しながら即答した。
「衛宮の家なら、遠坂邸よりは少し奥まってる。何より固まって動いた方が安全だ」
「……そうね。恩に着るわ、衛宮くん」
凛は素直に士郎の提案を受け入れた。今の彼女には、意地を張って単独行動をとるだけの魔力も体力も、文字通り一ミリも残っていなかった。
静まり返った深山町の坂道を登り、衛宮邸の門をくぐる。
広々とした和風建築の家屋は、血生臭い聖杯戦争の気配を微塵も感じさせない、ひどく穏やかで日常的な静寂に包まれていた。
「とりあえず、セイバーを休ませてくる。遠坂たちは、奥の客間を使ってくれ。布団はあるはずだから」
士郎はセイバーを背負ったまま、廊下の奥へと向かう。
「ええ。……これからのことは、明日の朝、頭が冷静になってから話し合いましょ」
「ああ。おやすみ、遠坂。宿儺も」
「……フン」
士郎と短い言葉を交わし、方針決定を明日に持ち越すことで合意すると、凛は宿儺に支えられながら指定された客間へと足を踏み入れた。
【時刻:午前4:00】
【場所:冬木市 深山町・衛宮邸 客間】
客間の襖が閉められた瞬間。
これまで遠坂の当主としての気丈な仮面を張り付けていた凛の身体から、完全に力が抜け落ちた。
「あ、ぁ……っ」
凛は畳の上に敷かれた布団を見るなり、倒れ込むようにして突っ伏した。赤いコートを脱ぐ余裕すらなく、ただ荒い呼吸を繰り返す。
物理的な疲労もさることながら、問題は魔力の致命的な『枯渇』だった。
キャスターが差し向けた無数の重装竜牙兵やガーゴイルの群れとの激戦。
呪いの王・両面宿儺というサーヴァントへの常時供給。
極めつけは、対界レベルの出力を持つ神話級式神『魔虚羅』の顕現による反動。
さらには、消滅しかけたセイバーを強引に現世に繋ぎ止めるための、命を削るような一時的魔力パスの接続。
これほどの魔力行使を一夜にして行い、なおかつ生きていること自体が、遠坂凛という魔術師の規格外の優秀さを示していた。だが、それも限界だ。彼女の体内の魔術回路は干上がり、内側から細胞が軋みを上げて悲鳴を上げている。
「……はぁっ……はぁ……」
布団を強く握りしめ、痛みに耐える凛を、宿儺は腕を組んで冷ややかに見下ろしていた。
「……無茶した結果、魔術回路が焼き切れる寸前だな」
宿儺は、ひどく面倒くさそうに悪態をついた。
「己の身の丈もわきまえず、他人のサーヴァントの面倒まで見るからそうなる。そのまま干からびて死ぬ気か、阿呆」
「う、うるさい……わね」
凛は顔を布団に埋めたまま、掠れた声で強がる。
「遠坂の当主、として……目の前で同盟相手が消えるのを、黙って見過ごせるわけ、ないじゃない……。……それに、あなたがしっかり泥を祓ってくれれば、私がやらなくても……」
「ククッ、俺のせいにするとはな。相変わらず図太い小娘だ」
宿儺は呆れたように鼻を鳴らし、ドサリと凛の隣に胡座をかいて座り込んだ。
そして、彼が右手の二本指を揃え、微かに印を結ぶ。
「――出ろ、『円鹿』」
宿儺の影が揺らぎ、そこから一頭の美しい鹿が音もなく這い出した。
立派な角を持ち、その身から清浄で神秘的な波動を放つ十種影法術の式神。
「……え……?」
凛が薄く目を開けると、円鹿が彼女の枕元に寄り添うようにして首を垂れていた。
直後、円鹿の角から、暖かく優しい『光』が溢れ出し、凛の身体を包み込んだ。
「……あ……」
凛の口から、安堵の吐息が漏れた。
それは魔術による治癒ではない。呪力という負のエネルギーを掛け合わせて生み出される、極上の正のエネルギー――『反転術式』のアウトプット。
干上がり、焼け焦げそうになっていた凛の魔術回路の熱が急速に冷まされ、削り取られた生命力(オド)が、まるで乾いたスポンジが水を吸い込むように満たされていく。
「……あなた、こんな真似もできるのね」
凛は、身体の痛みがスッと引いていくのを感じながら、隣に座る宿儺を見上げた。
「破壊するしか能がない化け物かと思ってたわ」
「お前の回路が焼き切れれば、俺の魔力供給源が絶たれるからな。……ただのメンテナンスだ」
宿儺はそっぽを向き、退屈そうに自身の爪を眺めながら答えた。
そのひねくれた物言いに、凛はふっと小さく笑みをこぼした。
「……そう。なら、優秀な供給源(マスター)でいられるように、しっかり治してちょうだい」
円鹿の放つ優しい光の中で、凛の呼吸は次第に穏やかなものへと変わっていく。
痛みが和らぐにつれ、限界まで張り詰めていた精神の糸が解け、強烈な睡魔が彼女のまぶたを重くしていく。
「……ねえ、宿儺」
微睡みの中、凛はぽつりと問いかけた。
「あなたから見て、あの黒い泥は……何なの?」
「さあな。だが、あの偽神父の言う通り、この世の悪意を煮詰めたような代物であることは間違いないだろう」
宿儺は、客間の窓の外、冬木の夜空を見つめたまま答えた。
「あれは、俺という『呪い』と同質の匂いがした。だが、ひどく醜悪で、底が浅い。己の意志を持たず、ただ周囲を飲み込んで染め上げようとするだけの、ただの泥水だ」
宿儺の言葉には、その泥に対する明確な「見下し」が含まれていた。
彼のエゴイズムは、すべてを己の力で支配し、己の快楽のために消費するという絶対的な意志に裏打ちされている。対してあの泥は、意志なき悪意の集合体に過ぎない。
「……そう。あなたがそう言うなら、なんとかなる気がしてきたわ……」
凛の声が、いよいよ小さく、微かなものになっていく。
「……」
宿儺は、凛の顔に視線を戻した。
彼女のまぶたはすでに閉じられ、規則正しい、静かな寝息が聞こえ始めている。
遠坂の当主としての仮面を外し、ただの一人の少女として無防備な顔を晒すマスター。
かつての宿儺であれば、このように無防備な弱者を前にすれば、気まぐれにその首を刎ねていたかもしれない。あるいは、ただのつまらない石ころとして一瞥だにせず立ち去っていたはずだ。
だが、今の彼は違う。
すべてをやり切り、己の身の丈を知り、他者の在り方を受け入れる度量を手に入れた『アルターエゴ』。
宿儺は、微睡む凛の頭に、そっと右手を乗せた。
「……せいぜい、ゆっくり眠るがいい」
その手つきは、彼自身も自覚していないほど、ひどく無造作で、そして奇妙なほどに穏やかだった。
「お前のその、己を削ってでも折れない傲慢な理想……最後まで見届けてやろう」
宿儺の低い独白は、静寂に包まれた衛宮邸の客間に吸い込まれ、誰の耳に届くこともなく消えていった。
円鹿の淡い光が、眠りについた少女と、呪いの王を優しく照らし出している。
血塗られた聖杯戦争の最中。
呪いと魔術師の間に訪れた、ほんのひと時の、しっとりとした安息の夜が更けていく。