Fate/stay night [Alter Ego of Calamity] ――理外の双貌   作:りー037

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騒乱の朝食、そして王の気まぐれな妥協

【時刻:午前6:00】

 

【場所:冬木市 深山町・衛宮邸 客間】

 

冬の朝の冷気が、障子の隙間から忍び込み、静まり返った和室の空気を鋭く冷やしていた。

 

外はまだ薄暗く、夜明け前の青紫色が空を覆っている。

 

 

「……んぅ……むす、にゃ……」

 

 

 

畳の上に敷かれた厚手の掛け布団の中から、微かな、そしてひどく間の抜けた寝言が漏れた。

 

 

遠坂凛である。

 

 

昨夜の地獄のような激戦と魔力枯渇が嘘のように、彼女の顔色は健康的な血色を取り戻していた。宿儺の式神『円鹿』がもたらした反転術式の光は、彼女の傷ついた細胞と干上がった魔術回路を一晩で完璧に修復し、極上の疲労回復を与えていた。

 

だが、肉体がどれほど回復しようとも、遠坂凛の生来の「朝への弱さ」という呪いまでが祓われたわけではなかった。

 

 

「……あと五分……いや、十分……魔力変換の効率が……」

 

 

布団を頭までかぶり、ミノムシのように丸まったまま、凛は現実逃避のうわ言を繰り返す。完璧を演じる優等生の仮面など微塵もない、年相応の、いやそれ以上にだらしない少女の素顔がそこにあった。

 

 

「……おい。いつまでその無様な姿を晒しているつもりだ」

 

 

そのミノムシを見下ろす、冷え切った低い声。

 

部屋の隅、床の間に背を預けて座っていた両面宿儺は、四つの瞳を半ば呆れたように細め、溜息をついた。

 

呪霊の如き肉体を持つ彼に睡眠という概念は不要だ。夜通しこの静かな和室でただ目を閉じ、自身の内で呪力の循環を微調整しながら、朝を迎えていたのである。

 

 

「起きろ、小娘。すでに日は昇り始めているぞ。魔術師の朝は早いのではなかったか」

 

宿儺が、ペチッ、と足の指先で凛の掛け布団の端を蹴り上げた。

 

 

「……んぁっ!? 何よ、冷たい空気が入ったじゃない……ばか……」

 

 

凛は目を閉じたまま、抗議するように布団を強く引き寄せ、再び丸まる。

 

「うるさいわね……昨日は、死ぬほど働いたんだから……今日くらい、ゆっくり寝かせなさいよ……。お給料分は、もう働いたでしょ……」

 

「フン。誰に雇われた覚えもないがな。……まあいい。このまま俺が置き去りにして冬木の街で暴れ回っても、文句は言わんのだな?」

 

 

宿儺が、意地悪く、そして明確な脅しを込めた声で囁いた。

 

「っ……!!」

 

その言葉の「暴れ回る」という物騒な響きに、凛の魔術師としての生存本能が強制的に叩き起こされた。

 

 

バサッ! と布団を跳ね除け、寝癖で爆発した髪を振り乱しながら、凛はガバッと上体を起こす。

 

 

「だっ、だめ!! 絶対にダメ!! 一人で外に出るなんて許さないわよ!!」

 

目は半分しか開いておらず、よだれの跡すら口元に残っている状態での、必死の叫び。

 

「ククッ……アハハハハッ! 傑作だ。まるで巣を突つかれた羽虫だな」

 

 

宿儺は、そんな凛の寝起きの醜態を指差して、腹を抱えて大笑いした。

 

「安心しろ。朝っぱらから雑魚を切り刻むほど俺も暇ではない。……さっさと顔を洗ってこい。その寝癖、あまりにも見苦しいぞ」

 

「……っ、この性悪男!!」

 

凛は顔を真っ赤にして叫び、近くにあった枕を宿儺の顔面めがけて全力で投げつけた。

 

だが、宿儺はそれを顔色一つ変えずに指先でスパンッと弾き飛ばし、さらに凶悪な笑みを深めるだけだった。

 

血みどろの聖杯戦争の最中とは思えない、奇妙で、そして毒気のある、二人の日常の朝の風景だった。

 

 

 

 

 

 

【時刻:午前6:30】

 

【場所:衛宮邸 玄関〜居間】

 

 

 

その頃。

 

 

 

衛宮邸の静寂は、玄関の引き戸がガラガラと勢いよく開く音によって、木っ端微塵に破壊されていた。

 

 

「しーろーうー!! 朝よ朝! 起きなさーい!!」

 

「先輩、おはようございます。……って、鍵、開いてましたけど……?」

 

 

冬の寒さなど吹き飛ばすほどの元気な声と共に上がり込んできたのは、穂群原学園の英語教師にして士郎の保護者代わりである藤村大河と、その後輩である間桐桜だった。

 

彼女たちが毎朝、この衛宮邸にやってきて朝食を作り、共に食卓を囲むというのは、数年前から続く不文律の日課である。

 

 

 

「うわっ!? しまった……!」

 

 

 

居間で眠っていた士郎は、大河の声に文字通り飛び起きた。

 

足首の捻挫の激痛が走り、顔をしかめるが、それよりも「致命的な失念」に顔が真っ青になった。

 

 

(昨日の夜、キャスターを倒して泥から逃げるのに必死で……藤ねえたちに連絡するのを完全に忘れてた!!)

 

 

 

現在、この家には何がいるか。

 

 

 

奥の和室には、魔力枯渇で気絶するように眠りについた遠坂凛と、人類史最悪の天災である両面宿儺。

 

そして別の客間には、霊基が消滅しかけて絶対安静状態にある金髪碧眼の騎士王、セイバー。

 

 

(セイバーに関しては、数日前に「士郎の遠い親戚の外国人」という苦しい言い訳で、大河たちにはなんとか誤魔化して受け入れられているが)

 

 

だが、遠坂凛と、白装束にタトゥーだらけの不気味な男が泊まっているとなれば、誤魔化しがきく次元ではない。

 

 

「んー士郎? なんで居間なんかで寝てるのよ。風邪引くわよー?」

 

「あ、藤ねえ! ちょっと待って、今は……!!」

 

 

 

士郎が止める間もなく

 

 

 

そして、それと全く同じタイミングで。

 

 

 

 

「……ちょっと衛宮くん、洗面所借りるわ……よ……?」

 

 

 

 

廊下の奥から、洗顔用のタオルを首にかけ、まだ半分寝ぼけ眼の遠坂凛が、そしてその後ろから、あくびをしながらついてくる両面宿儺が、居間へと足を踏み入れた。

 

 

 

「…………」

 

 

「…………」

 

 

 

 

空間が、完全にフリーズした。

 

 

 

大河は目を真ん丸に見開き、桜は手に持っていたスーパーのレジ袋を取り落としそうになるのを必死に堪えて、石のように硬直している。

 

視線の先には、学校が誇る完全無欠の優等生・遠坂凛が、士郎の家で、しかも寝起きの無防備な姿で歩いているという、天と地がひっくり返るような光景。

 

さらにその背後には、純白の和服を着崩し、顔と全身に不気味な紋様(タトゥー)を浮かべた、どう見てもカタギではない、殺気と威圧感の塊のような男(宿儺)が立っているのだ。

 

 

「えっ……と、とおさか、さん……?」

 

 

桜の口から、震える声が漏れた。

 

 

「……あ」

 

 

凛の寝ぼけていた脳髄が、一瞬で氷水を浴びせられたように覚醒した。

 

しまった。完全に油断していた。この家には毎朝、この二人の『日常の象徴』がやってくるのだった。

 

 

「ひゃ、ひゃわわわわわわっ!!??」

 

 

数秒の硬直の後、大河がパニックを起こして頭を抱え、絶叫した。

 

「と、遠坂さん!? なんで!? なんで士郎の家に遠坂さんが朝からいるの!? まさか、お泊まり!? いやいやいや、士郎にはそんな度胸ないはずだし! そ、それに、その後ろのガラ悪そうな人は誰!? 士郎、あんたいつの間にうち以外ヤクザと付き合いを……!!」

 

「ち、違う! 違うんだ藤ねえ、桜! これは、その、深い事情があって!!」

 

 

士郎が、捻挫した足を引きずりながら、必死に両手を振って弁明を試みる。

 

「深い事情って何よ! 高校生の男女が同じ屋根の下で……しかも見知らぬ男の人まで! 教育者として、これは見過ごせないわよ!!」

 

 

 

大河が士郎の胸ぐらを掴んで揺さぶる。

 

 

「……うるさい女だ。朝から耳障りな甲高い声を出すな」

 

 

宿儺が、面倒くさそうに眉をひそめ、大河と桜を四つの瞳で冷たく見下ろした。

 

その瞬間、大河の揺さぶる手がピタリと止まり、桜はヒッと短い悲鳴を上げて士郎の背中に隠れた。

 

魔術を知らない一般人であっても、生物としての本能が「この男の視線に触れれば死ぬ」と警鐘を鳴らすほどの、純度の高い呪いのオーラ。

 

 

「す、宿儺! あなたは黙ってて!」

 

 

凛が慌てて宿儺の前に立ち塞がり、視線を遮る。

 

「ええと、藤村先生、間桐さん! これはですね、昨日の夜、ちょっと学校の課題のことで衛宮くんの家に集まって調べ物をしてたら、遅くなっちゃって……」

 

 

学園のアイドルの顔を瞬時に作り上げ、凛は冷や汗を流しながら苦し紛れの言い訳を早口で並べ立てる。

 

 

「か、課題? 課題で徹夜? そんなの聞いてないわよ!」

 

「ほ、本当です! 彼……ええと、この和服の人は、私がお願いした郷土史の、その、専門家の先生でして! 服装や入れ墨も、その……宗教的な、民俗学的な研究の一環なんです! ね、衛宮くん!」

 

 

凛が士郎に目配せをする。

 

 

「あ、ああ! そうなんだ! この人は、すく……じゃなくて、ええと、遠坂の知り合いの専門家で……夜道が危ないからって、藤ねえたちに連絡するのも忘れて、つい雑魚寝しちゃって……!」

 

 

士郎も必死に話を合わせる。

 

魔術師の戦い、聖杯戦争、そして人食いの泥。そんな血塗られた事実を、この平和な日常を生きる二人に告げるわけにはいかない。

 

 

「民俗学の……専門家……?」

 

 

大河は、疑わしそうに目を細め、凛の背後に立つ宿儺をジッと観察した。

 

常人なら震え上がるその威圧感を前にしても、藤村大河という規格外の鈍感力(タイガーパワー)を持つ女は、なぜか一歩も引かなかった。

 

 

「……ふーん」

 

大河は腕を組み、一つ頷くと、ズカズカと宿儺の目の前まで歩み寄った。

 

「えっ、藤ねえ!?」

 

士郎が止めようとするが間に合わない。

 

 

「あなた、名前は?」

 

 

大河が、教師としての威厳(?)を保ちながら、真正面から呪いの王を見上げて尋ねた。

 

「…………」

 

宿儺は、自身の目の前に立ちはだかる、魔力も呪力も持たないちっぽけな雌の人間を、まるで珍しい虫でも見るような目で見つめ返した。

 

この俺に、恐れもせずに名を聞くか。無知ゆえの蛮勇か、あるいはただの阿呆か。

 

「……宿儺だ」

 

宿儺は、不快感を通り越して奇妙な興味を抱き、短く答えた。

 

「すくな? 変わった名前ね。」

 

 

大河は首を傾げた。

 

「まあいいわ! 士郎たちがお世話になったみたいだし、怪しい人じゃないならオッケー! 私、藤村大河! 英語の教師よ! よろしくね、すっくん!」

 

 

 

「――は?」

 

 

宿儺の動きが、完全に止まった。

 

士郎の呼吸が止まった。

 

凛の心臓が、恐怖で文字通り跳ね上がった。

 

 

すっくん。

 

 

人類史において、数万の人間を惨殺し、平安の術師すら恐怖のどん底に叩き落としてきた『呪いの王』に対する、あまりにも親しげで、かつ死を恐れぬあだ名。

 

 

「すっ、すっくんって……藤ねえ、お前命知らずにも程が……!」

 

 

士郎が顔を真っ青にして絶句する。

 

凛は、宿儺の指先から「解」が放たれて大河の首が飛ぶ光景を幻視し、咄嗟に令呪を使う準備をした。

 

 

だが。

 

 

「…………チッ」

 

 

数秒の沈黙の後。

 

宿儺は、深く、深くため息をつき、頭を掻いた。

 

「……好きに喚け、阿呆女」

 

宿儺の身体から立ち昇っていた微かな殺気が、風船がしぼむようにスッと消え去ったのだ。

 

 

彼のエゴイズムは、自身に牙を向く者や、生意気な強者には容赦しないが、ここまで完全に『己の世界(日常)』を信じ切って生きており、殺意の欠片も向けずに「すっくん」などと呼んでくる規格外の阿呆に対しては、逆に「殺す価値もない」と判断したのか、あるいはアルターエゴとしての老成した精神が『これもまた一つの喜劇』として受け流したのか。

 

 

「よーし! じゃあ、誤解も解けたし(?)、朝ご飯にするわよ! 桜ちゃん!」

 

「あ、はい、藤村先生……」

 

 

大河は全く空気を読まずにパンと手を叩き、桜を連れてキッチンへと向かっていった。桜はまだ怯えた様子で宿儺をチラチラと見ていたが、大河の勢いに押し切られる形でエプロンを取り出す。

 

残された居間には、深い安堵の溜息をつく士郎と凛、そして、ひどく不機嫌そうに畳に座り込む呪いの王だけが残された。

 

 

「……生きた心地がしなかったわ……」

 

凛がへたり込む。

 

「……同感だ」

 

士郎も同意する。

 

「おい、凛」

 

宿儺が、低い声で凛を睨んだ。

 

 

「あの阿呆女、次に俺を妙な名前で呼んだら、首から上を三枚に下ろして味噌汁の具にしてやる。お前が口を塞いでおけ」

 

「……はい、善処します」

 

凛は、逆らう気力もなく、ただただ頷くことしかできなかった。

 

 

 

 

 

【時刻:午前7:30】

 

【場所:衛宮邸 ダイニング】

 

食卓には、桜と大河が手際よく作った、焼き魚、卵焼き、味噌汁といった純和風の朝食が並べられていた。

 

いつもなら和気藹々とした空間だが、今日の食卓は、明らかに異質な緊張感に包まれていた。

 

 

上座の近くに陣取った宿儺は、出された食事を無言で、しかし行儀よく箸を使って口に運んでいる。その所作は千年前に王として君臨していた頃の洗練されたものであり、意外にも綺麗だったが、彼が放つ無言の圧力のせいで、士郎も凛も、そして桜も、味が全く分からなかった。

 

唯一、大河だけが「卵焼き食べる?」などとマイペースに話しかけ、その度に士郎と凛の寿命が縮む思いをしていた。

 

「……ところで、士郎。足、どうしたの?」

 

 

食事の手を止め、大河が士郎の腫れ上がった足首を指差した。

 

「あ、ああ、これ。昨日の夜、暗いところでちょっと階段を踏み外しちゃって……捻挫みたいなんだ」

 

士郎が苦笑いしながら誤魔化す。昨夜、泥から逃げる森の中で転倒した際の怪我だ。

 

「もう、ドジねえ。セイバーちゃんはどうしたの? 今日は起きてこないみたいだけど」

 

「セイバーも……ちょっと風邪気味みたいで、奥の部屋で休んでるんだ」

 

「ふーん。そっか。じゃあ、士郎は学校お休みね。無理して登校しても足引っ張るだけだし」

 

大河が教師らしく判断を下す。

 

 

「うん、そうさせてもらう。……遠坂はどうするんだ?」

 

士郎が凛に話を振る。

 

「私も、ちょっと昨日の調べ物で疲れちゃって……お休みをもらうわ。午後から少し出かける用事があるけど」

 

 

凛は、平然と嘘をつきながら答えた。

 

「わかったわ。じゃあ、私が後で職員室に伝えておくから、二人はゆっくり休みなさいよ! すっくんも、朝食はどうだった?」

 

大河が立ち上がりながら宿儺にウインクする。

 

「……味が薄い」

 

 

宿儺はただ一言、それだけを返し、箸を置いた。

 

 

「もう、藤村先生、早く行かないと遅刻しますよ!」

 

桜が、これ以上この恐ろしい男と同じ空間にいることに耐えられず、逃げるように大河の背中を押して玄関へと向かう。

 

「あ、本当だ! じゃあね士郎、遠坂さん! お大事にね!」

 

嵐のような二人が去り、衛宮邸の玄関の戸が閉まった瞬間。

 

 

家の中に、ようやく本来の静寂が戻ってきた。

 

「……はぁぁぁぁっ」

 

士郎と凛は、全く同時に、今日一番の深く重い溜息を吐き出した。

 

 

 

 

【時刻:午前8:00】

 

【場所:衛宮邸 居間】

 

日常という名の嵐が過ぎ去り、三人は再び居間に集まった。

 

先ほどまでのコミカルな空気は完全に消え去り、そこにあるのは、生き残りを賭けた魔術師としての重苦しく、ヒリヒリとした作戦会議の場だった。

 

 

「……さて。ふざけた時間は終わりよ」

 

凛が、冷徹な司令塔としての顔を作り、士郎と宿儺を見渡した。

 

「昨夜、キャスターを倒した直後に湧き出した『泥』。言峰の言葉を信じるなら、あれは聖杯のシステムそのものに異常が起きている証拠。……英霊を汚染し、世界を呪いで塗り潰す、願望機とは名ばかりの劇毒よ」

 

 

凛は、テーブルの上に広げた冬木市の地図を見つめた。

 

「あの泥が、キャスターという蓋がなくなった柳洞寺の地下で今どうなっているか。……最悪の場合、近い内に山から溢れ出して、冬木中を呑み込む可能性があるわ」

 

「そんなこと、絶対にさせるわけにはいかない」

 

士郎が、拳を強く握りしめる。

 

「俺も戦う。その泥を止める方法を探さなきゃ」

 

「却下よ」

 

凛は即座に、冷たい声で切り捨てた。

 

「え?」

 

「衛宮くん、今の自分の状態を客観的に見なさい。足の捻挫だけじゃない。昨夜、極限状態での魔術行使と逃走で、あなたの魔術回路はボロボロよ。それに……」

 

 

 

凛の視線が、奥の客間の方へと向けられる。

 

「何より、セイバーの状態が危険域だわ。昨夜、泥を祓うために宝具を限定解放したことで、彼女の霊基は消滅のギリギリのラインで私が無理やり繋ぎ止めているだけ。……今の彼女は、歩くことすらできないはずよ」

 

 

士郎は、反論の言葉を飲み込んだ。

 

凛の言う通りだ。セイバーは意識を取り戻していない。もし今、敵に襲われれば、自分たちは指一本動かすこともできずに殺されるだろう。

 

 

「だから、衛宮くんとセイバー陣営は、今日はこの家で絶対に安静にしていること。私の魔力が回復次第、もう一度セイバーへのパスの補強を行うわ」

 

 

凛が、有無を言わせぬ口調で命じた。

 

「……分かった。でも、遠坂はどうするんだ? お前だって、昨日の魔力消費で限界のはずだろ」

 

 

士郎が心配そうに尋ねる。

 

 

「私には、まだやらなきゃいけないことがあるわ。……言峰が言っていた、聖杯のシステムを作った『御三家』。冬木郊外の森に陣取る、アインツベルンのマスターよ」

 

 

凛は、地図の郊外の森の部分を指差した。

 

「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。大聖杯の深部で何が起きているか、彼女なら知っている可能性が高い。……今日の午後、私と宿儺の二人で、アインツベルンの森へ交渉に向かうわ」

 

「アインツベルンへ……!? でも、あそこにはあの『バーサーカー』がいるんだぞ! お前と宿儺だけで、もし交渉が決裂したら……!」

 

 

士郎が顔を青ざめさせる。

 

昨夜、柳洞寺で宿儺がどれほど暴れ回ったかを知っていても、あの不死身の巨人の恐怖は士郎の心に深く刻み込まれている。

 

「心配無用よ。バーサーカーが相手なら、こっちの『切り札』を全力でぶつけるだけのこと。……それに、泥の正体を探るには、もうあそこにしか道は残されていないわ」

 

 

凛の決意は固かった。

 

 

「そういうわけだから、午前中は私も遠坂邸に戻って、少しでも魔力を回復させておくわ。宿儺、行くわよ」

 

 

凛が立ち上がる。

 

宿儺は腕を組み、退屈そうに首を鳴らした。

 

 

 

「フン。白髪の小娘と、あの頑丈なだけが取り柄の大男か。……まあ、交渉(という名目の殺し合い)も、少しは腹の足しになる暇つぶしにはなるだろうよ」

 

 

二人の間に、生ぬるい感傷はない。

 

ただ、最悪の事態を打開するために、それぞれの役割を冷徹にこなすという意志の共有だけがあった。

 

 

 

 

【時刻:午前8:30】

 

【場所:衛宮邸 門前〜遠坂邸への帰路】

 

衛宮邸の門を出た凛と宿儺は、冬の澄んだ空気の中を歩き出した。

 

時刻は通勤・通学ラッシュのピーク。深山町の通りには、足早に駅へと向かう人々や、主婦たちの姿が多く見られる。

 

「……さて。それじゃあ、また認識阻害の結界を張らないとね」

 

 

凛は足を止め、深く息を吐き出した。

 

自身の魔術回路を無理やり叩き起こし、宿儺を一般人の目から隠すための『認識阻害』の術式を編み上げようとする。

 

 

だが。

 

 

「……っ、痛ぁ……」

 

凛の顔が苦痛に歪み、術式を構築した瞬間、微かに、しかし確かに震えていた。

 

円鹿の反転術式で肉体の疲労は回復したものの、魔術回路そのものが持つ「器」の限界が、悲鳴を上げているのだ。ここで無理に魔力を消費すれば、午後のアインツベルンでの交渉(戦闘)に致命的な影響が出る。

 

 

(でも、やらなきゃ……。このまま宿儺を外に連れ出せば、パニックになる……)

 

 

凛が奥歯を噛み締め、無理やり魔力を絞り出そうとした、その時だった。

 

 

ガシッ。

 

 

「……え?」

 

凛の震える右腕を、横から伸びてきた腕が、力強く、しかし骨を砕かない程度の絶妙な力加減で掴んで止めた。

 

「す、宿儺……?」

 

 

凛が驚いて顔を上げる。

 

宿儺の四つの瞳は、冷たく、しかしどこか底の知れない光を湛えて、凛の疲弊した顔を見下ろしていた。

 

「……やめろ。その見窄らしい魔力で無理に術を編めば、午後からの余興(アインツベルン)を前に、お前の回路が焼き切れるぞ」

 

 

宿儺が、低い声で告げた。

 

 

「でも、ならどうするのよ。あなたが霊体化してくれれば一番手っ取り早いのに……」

 

凛が文句を言うが、宿儺は腕を離し、鼻で嗤った。

 

「霊体化などという、誇りなき隠者のような真似は断じてせん。俺は歩きたいように歩く」

 

「だから、それじゃあ……!」

 

「――だが、そうだな」

 

 

宿儺は、すれ違うサラリーマンの背広や、学生のコートを顎でしゃくった。

 

 

「俺のこの姿が、この時代の有象無象の目を惹きつけ、その度にいちいちお前が魔力を消耗して隠蔽しなければならないというなら……それは、ひどく非効率で、退屈な足枷だ」

 

 

宿儺の言葉に、凛は目を丸くした。

 

それは、絶対に己を曲げない呪いの王が、自身のマスターの「魔力負担を減らす」という目的のために、明確な歩み寄りを見せた瞬間だった。

 

「霊体化はしない。だが、俺がこの現代の街を歩く上で、周囲の目障りな虫どもから視線を向けられないための『皮(服)』くらいは羽織ってやってもいい」

 

 

宿儺は、凶悪な笑みを潜め、極めて理知的な、王としての命令を下した。

 

「俺に、この現代で違和感のない服を用意しろ。それでお前のつまらん魔力消費が抑えられ、午後の死合いで俺を十分に楽しませるための力(魔力)を蓄えられるというのなら……妥協してやろう」

 

「……宿儺」

 

 

凛は、信じられないものを見るような目で宿儺を見つめた。

 

己のエゴの塊である彼が、合理性という名目のもと、現代の服を着るという譲歩を見せたのだ。それは、アルターエゴとして彼が手に入れた『老成』と、マスターである凛への奇妙な『評価』の表れでもあった。

 

 

「……分かったわ。言質は取ったからね」

 

 

凛は、疲れも忘れてフッと笑みをこぼした。

 

 

「私の家に帰ったら、父さんの古い服か何かを引っ張り出してくるわ。……絶対、似合わないと思うけどね」

 

「フン。俺が何を着ようと、俺は両面宿儺だ。中身の格が違う」

 

宿儺は堂々と胸を張り、認識阻害をかけられていない状態のまま、誰もいない路地裏を選んで遠坂邸への帰路を歩き始めた。

 

 

死線と絶望の狭間で。

 

 

魔術師の少女と、呪いの王の間に芽生えた、歪で不器用な『妥協』。

 

アインツベルンという新たな死地へ向かう前の、嵐の前の静かな準備の時間が、冬の青空の下で静かに流れていった。

 

 

 

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