Fate/stay night [Alter Ego of Calamity] ――理外の双貌 作:りー037
【時刻:午前4:00】
【場所:遠坂邸 一階、居間】
完全な静寂。
常人であれば耳鳴りがするほどの静寂の中、両面宿儺はソファに座ったまま、ピクリとも動かなかった。
(……静かなものだ)
目を閉じ、自身の内側に意識を向ける。
伏黒恵の肉体。呪力の循環、筋肉の繊維一本一本の張り、術式の刻まれた脳の構造。五条悟という、自身が認めた稀代の強者と死闘を繰り広げた際の「最高の状態」が、そこに固定されている。
空間の面を蹴る『空界踏破』の感覚も、十種影法術の影の底で眠る式神たちの気配も、魔虚羅の法輪の重みも、すべてが完璧な状態で彼の手の中にあった。
己の全盛期。これ以上ないほどの暴力の極致。
しかし、彼の精神は、その暴力的な肉体に反して、ひどく透き通っていた。
(あれが、俺の身の丈だ)
死の間際の記憶。
虎杖悠仁の、決して折れることのなかった瞳。
自分が虫ケラのように扱い、幾度となく心を折ろうとした小僧。その小僧のブレない理想の前に、己の呪いは完全に砕け散った。
言い訳はない。命乞いもしなかった。「一緒に生きよう」という小僧の慈悲を、腹の底から湧き上がる怒りとともに拒絶し、呪いとしての矜持を抱いたまま、己は消滅した。
己の生き方は、あそこで完結したのだ。
忌み子として生まれ、世界に呪いと暴力を振りまくことでしか自分を肯定できなかった男の、果て。その行き止まりの景色を、彼は確かに見た。
(後悔はない。俺は俺のやりたいようにやり、そして負けた。……だが)
宿儺はゆっくりと目を開け、自身の掌を見つめた。
もし、次に生まれ変わることがあるならば。もし、違う道があるならば。
死後の魂の通り道で真人に語った、その「あり得ないはずのもしも」が、この得体の知れない法則の世界で与えられた。
アルターエゴ。複合された存在。
完成された精神と、絶頂の肉体。その二つが矛盾なく統合された、不気味なほどの全能感。
「……ふっ。まさか、俺が『次』を与えられるとはな」
自嘲気味に笑い、宿儺は窓の外を見た。
厚い雲の隙間から、紫がかった朝の光が差し込み始めている。
遠坂凛。あの小娘は、かつて自身が遊んだ強者たちに比べれば、あまりにも弱く、脆い。指先一つで弾け飛ぶような矮小な存在だ。
だが、その瞳の奥には、「決して折れない芯」があった。自身を前にして、あの圧倒的な死の圧力を受けてなお、己の矜持を突きつけてみせた。
「せいぜい、俺を楽しませろよ。遠坂凛」
彼は自身の内にある『伏魔御廚子』の底で、静かに牙を研ぐ。
この新しい世界(盤面)で、あの小娘がどこまで足掻き、どこまで登り詰めるのか。
ただそれを特等席で眺めること。つまらなければ殺し、面白ければ力を貸す。それが、彼がこの世界で見つけた、新たな「生き方」であり「娯楽」だった。
【時刻:午前7:00】
【場所:遠坂邸 ダイニングキッチン】
「……ん、ぁ……」
目覚まし時計の電子音が、凛の意識を浮上させた。
重い瞼を開けると、冬の澄んだ朝の光が部屋を満たしている。
「朝……か」
体を起こすと、全身の筋肉が抗議の悲鳴を上げた。まるでフルマラソンを全力疾走した翌日のような疲労感。魔術回路を開ききった反動と、極度の緊張がもたらした代償だ。
しかし、彼女は気合いでそれを振り払い、ベッドから抜け出した。
シャワーを浴びて冷や汗を流し、いつもの学校の制服――穂群原学園の赤いブラウスと茶色のスカート――に腕を通す。鏡の前で髪を整え、両サイドの黒いリボンを結ぶ。
その瞬間、彼女は「魔術師」から、優等生である「遠坂凛」へと完璧なスイッチを切り替えた。
(……よし。今日も完璧)
右頬の傷は、昨夜のうちに魔術で完全に塞いである。跡形もない。
深呼吸を一つして、凛は部屋を出て、一階へと向かった。
階段を下り、居間を覗き込む。
そこには、昨夜と全く同じ姿勢で、ソファに座る怪物の姿があった。
「……おはよう。まさか、一睡もしてないわけ?」
凛が声をかけると、宿儺はゆっくりと目を開けた。
「俺に人間のような睡眠が必要だとでも思っているのか。小娘」
「そう。便利でいいわね。で、どうするの? 朝ご飯、食べる?」
凛はダイニングキッチンへと向かいながら、ごく自然に尋ねた。
「サーヴァントだし、栄養補給は必要ない?」
「俺は呪力で霊基が構成されている。俗物の食い物など必要ない。……だが、そうだな。この世界の飯がどれほどのものか、味見くらいはしてやってもいい」
宿儺はソファから立ち上がり、ゆったりとした足取りでキッチンのカウンターへとやってきた。
「偉そうに。文句言うなら食べさせないわよ」
凛は手際よくフライパンに火をかけ、ベーコンと卵を落とす。ジューという小気味よい音と、脂の焦げる香ばしい匂いがキッチンに広がる。食パンをトースターに放り込み、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
その一連の流れるような動作を、宿儺は顎に手を当てながら、興味深そうに観察していた。
「知ってはいたが、千年前に比べれば、随分と便利な道具が増えたものだ。火を熾す手間すらないとはな」
凛はベーコンエッグを皿に移しながら、ちらりと宿儺を見た。
「はい、出来上がり。トーストにはバターとジャム、どっちがいい?」
「……俺に甘いものを勧めるな」
「はいはい、ならバターね」
テーブルに向かい合って座る。
黒髪のツンツン頭の少年の向かいに、高校の制服を着た少女。傍から見れば、ただの同級生の朝食風景にしか見えない。その内実が、呪いの王と魔術師のコンビだとは、誰も想像できないだろう。
宿儺はフォークを手に取り、無造作にベーコンエッグを口に運んだ。
咀嚼し、飲み込む。
「……どう?」
凛が少しだけ期待を込めたような目で見つめる。
「……薄味だな。肉の臭みは消えているが、それだけだ。だが、まあ……毒にはならない程度の味だ」
「ふん。最高の賛辞として受け取っておくわ」
凛は鼻で笑い、自身のトーストを齧った。
何気ない会話。だが、その言葉の端々に、互いを探り合うようなヒリヒリとした緊張感が漂っている。
「それで、今日の予定だが」
食後のコーヒーを啜りながら、凛は切り出した。
「私はこれから学校へ行くわ。聖杯戦争中とはいえ、目立たないように日常を演じるのも魔術師の基本だから」
「学校、だと? ガキの集まる場所に、何の意味がある。そんな暇があるなら、他のマスターとやらを探し出して殺しに行けばいいだろう」
宿儺はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「馬鹿ね。ただ学校に行くだけじゃないわ」
凛はカップを置き、鋭い魔術師の目を宿儺に向けた。
「学校っていうのは、この地域に住む人間が何百人も集まる場所よ。当然、他のマスターだって紛れ込んでいる可能性は高いわ。日常の仮面を被ったまま、誰が聖杯戦争の参加者なのかを観察して探り出すの。手当たり次第に街を破壊して回るより、ずっと効率的な狩りでしょ?」
「……なるほど。獣の群れに紛れて獲物を品定めし、喉笛を食いちぎる機会を窺うというわけか。悪くない」
宿儺の口角が、凶悪な弧を描いた。
「あなたには、霊体化して私についてきてもらうわ。いざという時の防衛と、索敵のためにね。できるでしょ?」
「霊体化、か。物理干渉の及ばない霊体の姿になる技法……知識としてはある」
宿儺は自身の掌を見つめ、軽く握り込んだ。
「だが、断る」
「は?」
凛は間の抜けた声を上げた。
「俺が他者の目を気にしてコソコソ隠れるなど、笑止千万だ。俺は普通に歩く。」
「ちょっと待って! 普通に歩くって、その格好で!? 白い着物に、顔中タトゥーだらけの男が私の隣を歩いてたら、目立つどころの騒ぎじゃないわよ! 聖杯戦争の秘匿義務違反で、監督役の教会から目をつけられるわ!」
凛は慌てて立ち上がり、テーブルに手をついて抗議した。
宿儺は、そんな凛の慌てふためく様を冷ややかに見下ろした。
「知ったことか」
低く、地を這うような声。それだけで、室内の空気が急激に重みを増す。
「俺は両面宿儺だ。歩きたいように歩き、在りたいように在る。もし道行く有象無象が俺をジロジロと見るのであれば、その目玉をくり抜く。目障りだというなら、その肉体を三枚に下ろして道の端に避けてやる。ただそれだけのことだ」
圧倒的なエゴイズム。
他者の事情、世界のルール、社会の常識。そんなものは、この男にとって道端の石ころ以下の価値もない。邪魔になれば、蹴り飛ばすか、粉砕するだけだ。
彼が冗談を言っているわけではないことを、凛の魔術師としての本能が理解した。このまま外に出せば、彼は文字通り、目が合った一般人を『解』で微塵切りにしかねない。
「っ……わかった、わかったわよ! 私がなんとかするから、絶対に一般人には手を出さないで!」
「ふん。ならば、お前のその小手先の魔術とやらで、周囲の目を誤魔化すことだな」
宿儺は鼻で嗤い、悠然と立ち上がった。
(……この、自己中男!)
凛は内心で悪態をつきながら、自身の魔術回路を起動させた。
昨夜の召喚による疲労が完全に抜けきっていない体に、再び熱い魔力が走る。彼女が構築するのは、自身の周囲数メートルを覆う『認識阻害』の結界。宿儺の姿を透明にするのではなく、周囲の人間から「そこにいるのに、気に留めさせない」という精神干渉(暗示)の魔術だ。
「……『Aus(開始)』――『Gern(遮断)』」
指先で虚空にルーンを描き、宿儺の体に薄い魔力の膜を被せる。
本来であれば、サーヴァントほどの莫大な質量と存在感を持つ霊基を、一般人の認識から完全に逸らすなど至難の業だ。しかし、やらなければ冬木市が血の海になる。凛は奥歯を噛み締め、自身の魔力(オド)を惜しげもなく注ぎ込んだ。
「できた……これで、普通の人間にはあなたの姿は『ただの風景』として処理されるわ。でも、魔術師やサーヴァント相手には通用しないからね」
「随分と窮屈な術式だが、まあいい。お前の魔力が尽きるまでは、このまま歩いてやろう」
宿儺は一切の感謝を口にすることなく、玄関へと向かった。
凛は大きなため息をつき、重い鞄を肩にかけてその後を追った。
【時刻:午前8:00】
【場所:冬木市・住宅街〜通学路】
冬の朝の冷たい空気が、肺の奥を刺す。
凛の隣を、純白の和服を着た宿儺が歩いている。
すれ違う学生たちや、出勤を急ぐサラリーマンたちは、宿儺の存在に全く気づいていない。すれ違う瞬間に、無意識のうちに彼を避けて歩いているだけだ。凛の認識阻害の魔術が、完璧に機能している証拠だった。
しかし、凛にとっては生きた心地がしなかった。
常に魔力を放出し続けなければならない疲労感もさることながら、隣を歩く男から絶えず漏れ出す『呪力』のプレッシャーが、彼女の神経をゴリゴリと削り取っていくのだ。
(……重い。吐き気がするくらい、禍々しい力)
凛は横目で宿儺を盗み見た。
彼は裸足に草履という出で立ちで、アスファルトの道を音もなく歩いている。その四つの目(二つの目は閉じられているが、その気配は確かにある)は、現代の冬木市の街並みを、冷徹な観察者のように舐め回していた。
電柱、行き交う自動車、コンクリートのビル群。
宿儺の脳内では、空間を「連続した立体」ではなく、「無数の面の集合体」として捉える技法。彼は常に空間の面を知覚していた。
(……建物の構造も、鉄の塊(車)も、千年前に比べれば随分と複雑に組み上がっている。だが、結局のところ、切断する「面」が増えたに過ぎん)
宿儺は、自身の術式『御廚子』の射程と威力を、この現代の街並みに当てはめてシミュレーションしていた。あのビルを『解』で両断するには、どの角度から呪力を放てば最も美しく崩壊するか。あの鉄の塊の中にいる人間たちを『捌』で細切れにするなら、どの程度の出力で触れればいいか。
まるで料理人が、まな板の上の食材をどう捌くかを思案するような、純粋で残酷な探究心。
「……ねえ。あまりキョロキョロしないでよね。魔力の波長が乱れて、結界が解けそうになるから」
凛が小声で釘を刺す。
「気にするな。お前の魔力が尽きて術が解ければ、その時は俺が直接、目障りな奴らを間引くだけの話だ」
宿儺は前を向いたまま、平然とそう言い放った。
「それが困るって言ってるの! ……本当に、疲れるわね、あなた」
凛は額を押さえた。
彼女は今、首輪もリードもついていない、いつ爆発するかわからない核弾頭を隣に歩かせているようなものだ。少しでも機嫌を損ねれば、この平和な通学路は一瞬で血の雨が降る地獄へと変わる。
だが、宿儺にとっては、この奇妙な散歩も「暇つぶし」の一環だった。
かつての彼であれば、街を歩くという発想すらなく、ただ自身の領域に踏み入る者を殺戮するだけだったかもしれない。しかし、己の「身の丈」を知り、ある種の老成に至った今の彼は、この弱いマスターが必死に背伸びをして自分を制御しようと足掻く姿を、面白い余興として眺めていた。
「……着いたわよ。ここが、私の通う『穂群原学園』」
凛が立ち止まった先には、巨大な校門と、そこに吸い込まれていく大勢の生徒たちの姿があった。
学生たちの笑い声、挨拶を交わす声、他愛のない日常の喧騒。
宿儺は、その平和の象徴のような光景を見下ろし、ゆっくりと口角を吊り上げた。
「……なるほど。確かに、ここは極上の『狩り場』になりそうだ」
彼の卓越した知性と呪力感知能力は、この学園に集まる無数の人間たちの感情の揺らぎ――微小な負のエネルギーの集積を敏感に感じ取っていた。そして何より、この群れの中に、自分たちと同じように「異質な力」を隠し持った者たちが紛れ込んでいる気配を。
呪いの王の静かなる嘲笑が、冬の冷たい風に溶けて消えた。
血塗られた聖杯戦争の盤面が、今、日常の裏側で静かに回り始める。