Fate/stay night [Alter Ego of Calamity] ――理外の双貌 作:りー037
【時刻:午前9:30】
【場所:冬木市 円蔵山・柳洞寺 境内】
本堂の奥から放たれた、世界を断つ斬撃の余波がようやく収まり、冬木の空を覆っていた赤黒い断層が霧散していく。
同時に、セイバーは感じ取っていた。十年前から続く因縁の象徴であり、この冬の空に傲慢に君臨し続けていた黄金の王――ギルガメッシュの気配が、完全に消失したことを。
「……終わったのですね」
セイバーは、震える手で不可視の剣を握り直し、眼前の惨状を見据えた。
宿儺がギルガメッシュを葬り去った一方で、彼女たちの目の前には、なおも解決すべき「呪い」が残されていた。
境内の下層、かつて池があった場所を中心に脈打つ、巨大な肉の塊。間桐慎二を核として膨れ上がり、大聖杯から溢れ出す無数の悪意を形にしたその異形は、主を失ってなお暴走を続け、周囲にドロドロとした黒い泥を吐き出し続けている。
その泥は、触れるものすべてを腐食させ、現世を地獄へと塗り替えようとしていた。
「セイバー……まだ、終わりじゃない。あれを、止めないと」
隣で、衛宮士郎が喘ぐように声を絞り出した。
彼の身体もまた、限界をとうに超えている。投影魔術の過剰行使による魔術回路の焼損。黄金の宝具の雨を凌ぎ続けた肉体の疲弊。だが、その右手の甲には、最後の一画となった赤い令呪が、命を削るような輝きを放って宿っていた。
「ええ、シロウ。あれこそがこの戦争の元凶。……そして、私の過ちの終着点。今度こそ、その鎖を断ち切らねばなりません」
セイバーは、自身の内側に残されたわずかな魔力をかき集め、両手で聖剣の柄を握りしめた。
周囲に渦巻く黒い泥が、彼女の甲冑を、肌を、そして霊基を侵食しようと這い寄ってくる。だが、彼女の瞳に宿る翡翠の光は、泥の闇に飲まれるどころか、より一層鋭く研ぎ澄まされていた。
「令呪をもって、命ずる――」
士郎が腕を掲げた。
これが最後の命令。聖杯をめぐるすべての争いに終止符を打ち、彼女を元の時代へと還すための、別れの言葉。
「――セイバー! 聖杯を、破壊しろ!!」
最後の一画が弾け、極大の魔力となってセイバーの全身へと駆け巡った。
それは乾いた大地に注がれる豪雨のように、彼女の枯渇した回路を瞬時に満たし、聖剣の深奥に眠る星の記憶を呼び覚ます。
「――集え。星の息吹、輝ける命の奔流」
セイバーが剣を高く掲げると、柳洞寺の薄暗い空に、無数の小さな光の粒子が集まり始めた。
それは人々の祈り。かつてその剣に託された希望の断片。
不可視の風の王結界が解かれ、その真の姿――黄金の刀身が姿を現す。
「『約束された(エクス)――』」
セイバーの足元から、泥を焼き払うほどのまばゆい光が溢れ出した。
それは地を這う悪意を、天を覆う絶望を、すべて等しく浄化する星の光。
巨大な肉塊が、その圧倒的な神聖さを前にして、断末魔のような悲鳴を上げて蠢く。だが、もはや遅い。
「――『勝利の剣(カリバー)』ッ!!!!」
振り下ろされた一撃。
黄金の光は、巨大な奔流となって柳洞寺を貫いた。
黒い泥を、醜悪な肉の塊を、そして大聖杯へと繋がる歪んだ門を、その圧倒的な熱量と輝きの中に飲み込んでいく。
かつて冬木の街を焼き尽くした呪いの火が、今度は星の光によって完全に消し飛ばされていく。
ドガァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!!
壮大な爆発。
光の柱が天を突き、世界は黄金に染まった。
呪われた聖杯は、その核ごと塵も残さず消滅し、柳洞寺に満ちていた瘴気は嘘のように晴れ渡っていった。
完全破壊。
第五次聖杯戦争は、ここに真の終焉を迎えたのだ。
【時刻:午前9:45】
【場所:柳洞寺 本堂前 瓦礫の中】
聖剣の光が収まった後の静寂は、あまりにも深く、穏やかだった。
瓦礫の山の中、宿儺の肉体は、ゆっくりと膝から崩れ落ちようとしていた。
全盛期の姿を誇っていた四つの腕は消え、腹の口も、顔の異形も、影のように溶けて失われ、そこにあるのは、かつての伏黒恵の肉体――だが、その輪郭は薄く、透き通るような金色の粒子を放ち始めている。
サーヴァントの枠組みを自ら壊し、独立個体として現界した代償。
遠坂凛とのパスはすでに存在せず、彼は現世に留まるためのあらゆる理を使い果たしていた。
「――宿儺!!」
背後から、必死に自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
振り返る必要はない。その足音の乱れ方、焦燥に満ちた息遣いだけで、彼女がどのような顔をして走ってきているか、宿儺には手に取るように分かった。
「宿儺、待って……! まだ、消えないで……!」
凛が宿儺の前に回り込み、その肩を掴もうとした。
だが、彼女の手は宿儺の実体を通し、空を掴むようにすり抜ける。
「……ハッ」
宿儺は、崩れゆく身体を支えるように瓦礫に腰を下ろし、目の前の少女を見て、思わず小さく、鼻で笑った。
「……なんだ、その面は。酷い有様だな、凛」
凛の姿は、まさに満身創痍だった。
仕立ての良い赤いコートはボロボロに裂け、膝や肩からは血が滲んでいる。髪は乱れ、顔には煤と泥がつき、そして何よりも、その大きな瞳からは涙が頬を汚していた。
優雅であることを信条とする遠坂の当主としては、これ以上ないほどに不体裁な姿。
「……なによ。こんな時にまで、人の顔を見て笑わなくてもいいじゃない……っ!」
凛は涙を拭おうともせず、声を震わせて反発した。
悔しさと、悲しさと、そして彼が消えようとしている現実への恐怖が、彼女の胸を締め付けている。
「……事実を言ったまでだ。俺のマスターともあろう者が、これでは格好がつかん」
宿儺はいつものように、ひどく意地の悪い、けれどどこか楽しげな皮肉を返した。
彼の霊基は、指先から徐々に輝く粒子となって、朝の風に溶け始めている。
「宿儺、お願い。もう一度、パスを……。令呪はないけれど、契約して、私と繋ぎ直して。私の魔力を全部持っていっていいから、だから……っ!」
凛は必死に魔術回路を駆動させ、自分から彼の方へ魔力を流そうとした。
だが、宿儺はその試みを、穏やかな拒絶の仕草で制した。
「……無駄だ。俺はもう、この世界の理から外れている。パスを繋いだところで、穴の空いたバケツに水を注ぐようなものだ。お前が死ぬぞ」
「そんなの、構わないわよ!!」
「俺が構うと言っている。……興が削げる真似をさせるな」
宿儺の四つの瞳――今は二つに戻った瞳が、凛を静かに射抜いた。
その眼差しには、これまでのような残忍な飢餓感は一切なかった。
「……聖杯は壊れた。俺の暇つぶしも、これでおしまいだ。……満足したぞ、凛」
宿儺は、かつての自分の言葉を、慈しむように反芻した。
『お前のその、己を削ってでも折れない傲慢な理想……最後まで見届けてやろう』
あの夜に交わした、歪な約束。
自分の命など二の次に、あり得ない理想を追い求める少女。その傲慢で気高く、そしてあまりにも滑稽な生き様を、呪いの王は聖杯戦争の終結という最後の瞬間まで、確かにここで見届けたのだ。
「……あなたは、満足かもしれないけれど」
凛は震える手で、消えゆく宿儺の膝を、実体のないその感触を求めてそっと撫でた。
凛の瞳の奥で、数日前に見たあの「夢」が蘇る。
いや、あれは夢ではない。パスを通じて彼女の脳裏に刻まれた、呪いの王の真実の記憶。
孤独な王座。己の呪いに焼き殺されることを恐れ、他者を蹂躙し続けた凄絶な生涯。
そして、その終着点。真っ白な死後の世界で、彼が最後に零した、あまりにも静かな、祈りのような言葉。
『次があれば、生き方を変えてみるのもいいかもしれない』
宿儺自身が、一度目の生で成し遂げられなかった、唯一の願い。
意図せずして与えられた、この聖杯戦争という二度目の「次」。
彼はここで、呪いとして生きるのではなく、一人の魔術師の背中を支え、誰かを庇って死ぬという「生き方の変更」を、己の気まぐれとして完遂してみせた。
だが、凛は。
彼がそこで終わることを、許せなかった。
「……宿儺。あなたは、これで終わりだと思っているかもしれないけれど」
凛は、顔を上げた。
涙に濡れたその瞳に、魔術師としての、いいや、遠坂凛という一人の人間としての、強固な輝きが宿る。
「……あなた、言ったじゃない。『次があれば』って。……これが、その『次』なんでしょ?」
宿儺の動きが、わずかに止まった。
「……だったら、本当の『次』は、ここからじゃない。……呪いとして生きて、そして今回、私を助けて消えて。そんなの、ただの自己満足よ。……そんなの、私は認めない」
凛は、消えゆく宿儺の右手を、両手でしっかりと包み込んだ。
触れることはできない。熱を感じることもできない。だが、彼女の魂が、彼の消失しつつある魂に直接呼びかけていた。
「……次は、人として生きなさい」
凛の声は、もう震えていなかった。
「……呪いの王としてじゃなく、マスターとサーヴァントとしてでもなく。……一人の人間として、二度目の人生を、私と一緒に歩みなさい」
宿儺の瞳が、驚愕に見開かれた。
「一歩間違えれば自分を殺し、世界を壊しかねない呪いと、人……。そんな関係は、もうたくさんよ。……次は、人と人として、新しく関係を築いていきたい。……あなたが、人として生きていけるように。……呪いに喰われず、自分の足で、新しい景色を見られるように頑張るから……私が、あなたの横で支えてあげるから」
凛の言葉は、魔術的な呪縛よりも強く、宿儺の魂を縛りつけた。
それは慈悲ではない。哀れみでもない。
遠坂凛という人間が、両面宿儺という一人の存在を、そのすべての業を含めて受け入れ、肯定した上での、究極の「我儘」だった。
「……二度目の人生、私に、くれないかしら?」
凛は、彼を見上げて、ふっと優しく、そしてこの上なく生意気な微笑みを浮かべた。
「……生き方を変えるのも、悪くないでしょ? ……今度は、もっと近くで、見せてあげるわ。……最高の『日常』っていう勝利をね」
宿儺は、言葉を失っていた。
かつて愛を語った者、自身に寄り添って来た者はいた。だが、これほどまでに真っ直ぐに、己の「呪いとしての在り方」を否定せず、その上で「別の道」を強引に提示してきた者は、後にも先にも彼女一人だけだった。
呪いとして生きた、一度目。
呪いから脱却しようと足掻いた、この二度目。
そして、彼女が差し伸べている、二度目の次、未知なる三度目。
宿儺は、しばらくの間、静かに凛を見つめていた。
そして、自身の指先が完全に光へと溶け去る、その直前。
「…………ククッ」
宿儺の口からこぼれたのは、これまでで一番、静かで、穏やかな笑いだった。
「…………ハハハ、ハハハハハハハ!!!」
彼は天を仰いで、朗らかに笑い声を上げた。
呪いの王としての残虐な笑いではない。忌み子として世界を呪い続けた男の笑いでもない。
ただ、目の前のあまりにも強欲で、あまりにも気高い少女の「我儘」に、完敗を認めた者の笑いだった。
「……本当に、救いようのない傲慢な小娘だ。……俺を、これ以上どうすれば気が済む」
宿儺は、力を失い、光に還ろうとしていた自身の残りの呪力(生命力)を、一つの『確かな決意』へと変換した。
「……いいだろう。お前のその下らぬ誘い……乗ってやる」
宿儺の姿が、完全に光の粒子となって爆散した。
「宿儺……!!」
凛が叫び、虚空に手を伸ばす。
だが、粒子は天に昇ることなく、そのまま凛の周囲を優しく渦巻き、彼女の肉体へと、そして彼女が握りしめていた「聖杯の欠片」へと吸い込まれていった。
それは、消滅ではない。
聖杯という奇跡の残滓を媒介にし、宿儺の魂が、遠坂凛という「個」に深く、深く根付いた瞬間。
肉体としての現界は解かれたが、彼の存在は、彼女の影の奥底で、静かに「三度目」の産声を上げる準備を始めたのだ。
柳洞寺の荒れ果てた境内に、冬の朝日が差し込み、雪の白さをより一層際立たせていく。
「……バカ。……本当に、最悪のサーヴァントなんだから」
凛は、誰もいなくなった瓦礫の上に座り込み、自身の胸元に手を当てた。
そこには、たしかな「彼」の気配が、温かな灯火のように残っていた。
いつの日か、彼が再び、一人の人間としての形を持って自分の前に現れる、その時まで。
この勝利の続きを、彼女は生きていく。
魔術師の少女と、呪いの王。
二人の歪で、けれど誰よりも純粋な絆の物語は、冬の終わりと共に、新しい世界へと踏み出していった。
End