Fate/stay night [Alter Ego of Calamity] ――理外の双貌   作:りー037

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断章
静かなる断章、夢の始まり


【時刻:不明】

 

【場所:無明の影、あるいは魂の底】

 

 

 ――ここは、どこだ。

 

 光の届かない、深い、深い影の底。

 

 一切の色彩が剥落し、音さえもが真綿に吸い込まれるように消え失せる絶対の静寂。そんな暗い空間を、両面宿儺の魂は、あてもなく、ゆらゆらと静かに沈んでいく。

 

 上も下もなく、右も左もない。時間という概念すらも融解したかのような無明の淵。

 

 己が直前まで何をしていたのか。自身の記憶は、濃霧に包まれたようにひどく曖昧だった。

 

 水面を叩く雨粒のように、断片的な情景だけが脳裏を掠めては消えていく。

 

 誰かと共に駆け抜けた記憶がある。赤黒く燃え上がる炎、砕け散る瓦礫、激しくぶつかり合う魔力と呪力の奔流。様々な感情が――憎悪、歓喜、絶望、そして極限の闘争心が――幾重にも交錯し、火花を散らした。

 

 

 

 そして、自身は勝利した。

 

 己の前に立ちはだかった黄金の威容を両断し、世界そのものを斬り裂き、自身の望む結末を手にした。その確かな「結果」の感触だけは、己の魂の深奥に深い傷跡のように刻み込まれている。

 

 だが、肝心の「誰か」の顔が、名前が、どうしても思い出せない。

 

 自身と共に在り、自身に魔力を供給し、あの闘争を最後まで見届けたはずの存在。

 

 

(……ここは、どこだ)

 

 

 光など一切射し込まない、熱さえも届かないはずの暗闇。

 

 本来であれば、虚無と孤独に苛まれ、狂気に陥ってもおかしくないほどの絶対的な隔離空間。

 

 だというのに、宿儺の精神には微塵の焦りも、不快感もなかった。

 

 否、それどころか――全く嫌な気がしなかった。ひどく、悪くない心地だった。

 

 冷たい闇であるはずなのに、まるで母の内側にいるような……不思議なほどの暖かさに包まれていたのだ。

 

 

(……■■■とは、誰だったか)

 

 

 それはまるで、血と泥に塗れた戦場から遠く離れた、遥か遠い神代の揺り籠。あるいは、子が母の胎内にいるような、絶対的な安堵と静謐。

 

 呪いの王として、生前も死後も、ただ己の快楽とエゴイズムのみを追求し、他者を喰らい、切り刻み、灰にしてきたこの男にとって、これほどの「静けさ」と「温もり」は、本来であれば忌避すべき異物であるはずだった。

 

 闘争のない世界など退屈の極みであり、他者からの庇護や慈悲など、反吐が出るほどの屈辱であるはずだった。

 

 かつて、敗北の果てに慈悲をかけられた時、彼は激怒し、それを拒絶して消滅することを選んだ。

 

 だが、今の彼には、その「温もり」を拒絶する意思はなかった。

 

 

 己の限界を悟り、すべてをやり遂げ、敗北という結果すらも「身の丈」として受け入れた、老成。呪いの王としての役割を終え、憑き物が落ちたような精神的完成の域にある今の宿儺にとって、この見知らぬ暗闇の暖かさは、奇妙なほどにすんなりと彼の魂に馴染んでいた。

 

 

 自身の現在の状況も、過去の出来事も、すべてが靄の向こう側にある。

 

 だが、まだ自分が「産まれ出でる」その時ではないのだと、魂の奥底で、本能が静かに理解していた。

 

 現実へと浮上するには、器となる肉体も、世界との繋がりも、運命力も、何もかもが足りていない。

 

 今はただ、ここでこの名状しがたい暖かさに微睡みながら、形を成すための時間を待たなければならない。聖杯という奇跡の残滓が、彼の魂をゆっくりと、確実に編み上げるその時まで。

 

 

 宿儺は目を閉じ、暗い影の中、その身を揺蕩うままに任せた。

 

 これは、彼が再び産まれ落ちるまでのリミット。

 

 その時が来るまでの、顔も思い出せない彼女と再会するまでの――ほんの少しの間だけ、彼が見る「夢」の時間。

 

 静かなる断章が、永遠にも似た一瞬の中で、ひっそりと紡がれていく。

 

 

 やがて、温かな影の底で微睡む彼の意識に、ふと、ある「光景」が結像し始めた。

 

 物理的な動きは何もない。彼の魂の本体は依然として、絶対的な安堵の揺り籠(影の底)の中にある。

 

 

 だが、意識のピントだけが、全く別の座標へと静かに、しかし抗いがたい引力をもって引き寄せられていく。

 

 産まれ落ちるまでの退屈を紛らわすためか。あるいは、器(魂)が完成するまでの過程で、彼自身の内に残る呪力と闘争の残滓が、極上の幻を構築しようとしているのか。

 

 まどろんでいた彼の意識は深く沈み込み、次の瞬間、視界が真っ白な光に呑み込まれた。

 

 それが、呪いの王が見る「永い夢」その幕開けであった。

 

 

 

 

 

 

 

【時刻:■■の終焉――紀元前■■■■年代】

 

【場所:■■■■■■■■■■■・冥界の底】

 

 

 次の瞬間だった。

 

 物理的な動きは何もない。宿儺の魂は依然として暗い影の底にあった。

 

 だが、自身の意識だけが、巨大な鉤爪で強引に上層へと引っ張られるような、強烈な違和感と引力が生じた。

 

 まるで、世界の理そのものが彼という特異点を見つけ出し、あるべき座標へと強制的に引き摺り出そうとしているかのような、乱暴な世界干渉。

 

 

(なんだ? 何が起きている?)

 

 

 まどろんでいた彼の意識は完全に覚醒し、次の瞬間、視界が真っ白な光に呑み込まれた。

 

 光の奔流が収まると同時、足の裏に、硬く、冷たい岩肌の感触が伝わってきた。重力がある。大気がある。

 

 

「…………」

 

 

 宿儺は、ゆっくりと目を開けた。

 

 先ほどまでの暖かな影の底とは全く違う、ひどく澱んだ空気が肺を満たす。

 

 見知らぬ土地に、宿儺は立っていた。

 

 

(……なんだ、ここは)

 

 

 まず、己の身体を確かめる。異常はない。

 

 かつて自身の器とした、黒髪の少年の姿。伏黒恵の肉体への完全な適応状態。

 

 掌を開き、閉じる。血管を巡る血液の脈動と共に、内奥から無尽蔵に湧き上がる禍々しい「呪力」のうねり。五条悟という現代最強の術師と死闘を繰り広げた、あの時の――戦闘能力の極致にある状態が、寸分の狂いもなく完全に保たれていた。

 

 自身の足元に落ちる濃い影の中には、十の式神たちの気配。そして何より、あらゆる事象に適応する最強の式神『魔虚羅』の法輪の重みが、確かにそこにある。

 

 

 精神はすべてを受容した達観の域にありながら、肉体は闘争の頂点を極めた最盛期。

 

 二つの時間軸が矛盾なく統合された『アルターエゴ』としての霊基が、この世界においても完璧に稼働している。

 

 宿儺は視線を上げ、自身の置かれた環境を冷静に観察し、分析を始めた。

 

 荒涼とした岩山の大地。空には太陽も星もなく、ただ鈍く濁った赤紫色の雲が重く垂れ込めている。

 

 風はない。だが、空気はどこまでも重く、冷たく、そして……ひどく濃い「死者」の匂いが充満していた。

 

 周囲の岩肌には、青白い燐光を放つ無数の檻のようなものが連なり、その中には形を持たない魂の残滓がひしめき合っている。

 

 

 彼自身の生得領域である『伏魔御廚子』の、あの骨の山と血の池からなる死と呪いがこびりついた空間に、どこか似ている。だが、決定的に違う。

 

 

 ここは、人間の負の感情から生まれた呪いの領域ではない。

 

 もっと根源的で、巨大で、圧倒的な法則によって管理された――正真正銘の「死者の国」。

 

 

 しかも、大気中に満ちている魔力(マナ)の濃度が異常だった。現代の地球上ではあり得ない、神代の真エーテルが満ちている。呼吸をするだけで内臓が焼かれるような高密度の神秘。だが、それすらも、宿儺の絶大な呪力の前では微風に等しい。

 

 

 彼の記憶には全く心当たりのない場所だった。

 

 だが、焦りはない。彼はただ、いま現在の事実だけを淡々と受け入れる。

 

 自分が誰かの温かい影の中から、この澱んだ死者の国へと強制的に引きずり出されたこと。

 

 そして、自分には、何か「大切な約束」があったはずだということ。

 

 その事実だけが、脳裏をチカチカと点滅するように明滅するが、やはり記憶の核心は靄に包まれたままだ。

 

 

 

 

『……二■目の人■、■に、く■な■かしら?』

 

 

 

 不意に、頭の中で「声」が再生された。

 

 高飛車で、強欲で、傲慢で、けれどたまらなく愛おしく、透き通るような響きを持った少女の声。

 

 呪いの王に対し、人間としての生を強要するという、あまりにも不遜な我儘。

 

 

 だが、自分はその誘いを受け入れた。笑って、肯定したのだ。

 

 思い出せない。だが、自身にとってこれ以上ないほど大切にしなければならない記憶のはずだった。あの暖かな影の正体は、間違いなくこの声の主のものだ。

 

 宿儺がその声の輪郭を掴もうと、脳を巡らせ、静かに立ち尽くしていた時――。

 

 

 

 

「……あ、あの。ちょっと、そこの貴方」

 

 

 

 背後から、不意に声が掛かった。

 

 宿儺の五感は、その存在が近づいてくることをとうに察知していた。微かな金属の装飾音が鳴る足音。そして、この死者の国において絶対的な権限を持つであろう、巨大な神気(システム)を内包した存在。

 

 だが、その声のトーンは、威圧的でも敵対的でもなく、どこか控えめで、戸惑いを含んだものだった。

 

 

「ここは生者が来るような場所じゃないんだけど……その、どこから迷い込んだのかしら? それに、貴方から、なんだかひどく物騒で、おぞましい気配がするのだけれど……。冥界の規律を乱すつもりなら、女神として見過ごすわけにはいかないわよ?」

 

 

 警戒と、戸惑いと、ほんの少しの強がり。

 

 威厳を保とうとしながらも、生者でありながら規格外の呪力、彼女から見れば得体の知れないエネルギーを放つ宿儺に対して、本能的な畏れを隠しきれていない、澄んだ声。

 

 

 宿儺は、ゆっくりと、急ぐことなく振り返った。

 

 足元の枯れた大地が、わずかに砂埃を立てる。

 

 澱んだ冥界の空気の中。そこには、巨大な槍を手にし、美しい金糸の髪をふわりと揺らす、一人の少女の姿があった。

 

 神霊としての途方もない格を持ちながら、どこか人間臭い感情の揺らぎを見せる、冥界の女主人。

 

 

 宿儺と彼女の視線が、真っ直ぐに交差する。

 

 血のような真紅の瞳と、それを見つめ返す、同じく真紅に輝く二つの双眸。

 

 

 死者の国で出逢ったその顔を見た瞬間。

 

 宿儺の魂の奥底で、ほんのわずかに何かが引っ掛かった。

 

 顔も、名前も、声すらも靄に包まれ、何も思い出せない。目の前に立つ存在が誰であるかなど、知る由もない。

 

 

 

 だが――なぜだろうか。

 

 彼女の姿を視界に収めた時、彼の中で、先ほどまで沈んでいたあの暗い影の底の「温もり」が、微かな既視感となって脳裏を掠めたのだ。

 

 記憶のない呪いの王は、神代の冥界において、理由のわからない名状しがたい引力を持つ女神と出会う。

 

 静かなる断章は、ここから血と泥に塗れた神話の闘争へと、その扉を重く開き始めるのであった。

 

 

 

 

――これは、水面に浮かぶ泡沫の夢。

 

 

 かつて現実に在ったかもしれないし、あるいは何処にも無かったかもしれない、そんなひどく朧げで不確かな景色。

 

 彼が再び世界に産まれ出でるため、無意識の底で課せられた試練なのだろうか。

 

 それとも、途方もない時を持て余した王の魂が、微睡みの中で見るただの幻影なのだろうか。

 

 

 真実は、靄の向こう側に隠されている。

 

 

 だが、彼はきっと辿り着く。

 

 記憶という形を失ってなお、魂の奥底で静かに熱を放ち続ける――約束された、その地へと。

 

 

 

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