Fate/stay night [Alter Ego of Calamity] ――理外の双貌   作:りー037

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冥界の語らいと、微睡みの延長

【時刻:神代の終焉――紀元前2600年代】

 

【場所:絶対魔獣戦線バビロニア・冥界の底】

 

 神代の地底深く、生者の決して立ち入ることの許されない絶対の死域。

 

 七つの門を抜け、あらゆる生命の概念が剥落し、ただ静寂と冷気のみが支配する永遠の牢獄。太陽の光など一筋も届かず、青白い燐光を放つ無数の魂の檻が、見渡す限りの荒涼とした岩肌を埋め尽くしている。そこは、生命が最終的に行き着き、澱み、ただ静かに風化していくのを待つだけの、冷酷で平等なる終着点であった。

 

 呼吸をするだけで肺腑が凍りつき、自我を持たぬ亡者たちの力無い嘆きが、極微のノイズとなって常に大気を震わせている。その圧倒的なまでに陰鬱で、重く、沈んだ空間の中心で――冥界の女主人は、いつものように己の果てしない業務(ルーチン)をこなしていた。

 

(……ああもう、次から次へと! いったい地上の人間たちは、どれだけ自分の命を粗末にすれば気が済むのかしら!)

 

 

 彼女は、金糸の美しい髪を苛立たしげに揺らしながら、虚空から絶え間なく降りてくる魂の群れを、捌き、適切に管理する。

 

 最近の地上は、あまりにも異常だった。三柱の女神からなる同盟の苛烈な侵攻、そして大地を埋め尽くし、際限なく産み落とされる異形の魔獣の群れ。かつて栄華を誇ったメソポタミアの大地は今や泥と血で赤黒く染まり、絶え間なく、無残に命が散っていく。

 

 それに比例して、冥界の底へと真っ逆さまに滑り落ちてくる死者の魂の数は、彼女がこの冥界の管理者となって以来、かつてないほどの激増の一途を辿っていた。

 

 

 まるで、滝のように降り注ぐ魂の雨。

 

 休む暇など、一秒たりともありはしない。降ってくる魂の罪を検閲し、生前の行いを秤にかけ、適切な階層と檻へと振り分け、冥界の絶対的な秩序を保つ。それは、どれほど強大な神霊である彼女にとっても、気が遠くなり、精神が摩耗していくほどの過酷な重労働だった。

 

 

(私がここでサボったら、冥界の秩序が崩壊して、結局地上にもっと迷惑がかかるんだから……っ! 誰も褒めてくれないけど、私は、私の仕事を完璧にこなすのよ!)

 

 

 内心で泣き言と愚痴をこぼしながらも、彼女の手は決して止まらない。

 

 彼女は真面目だった。どれほど不平を漏らそうと、自身の役割を投げ出すことなど絶対にできず、この暗く冷たい死者の国をたった一人で管理し続けている。それが、生贄として冥界に下った自身の運命に対する矜持であり、冥界の女主人としての絶対の役目であり、神としての取り返しのつかない責任であると、己の魂の根底から深く理解していたからだ。

 

 今日もまた、青白い燐光に照らされながら、淡々と、延々と、魂の仕分けをこなしていた。

 

 

 

 ――その時だった。

 

 

「……え?」

 

 巨大な槍を手にした女主人の動きが、ピタリと、不自然なほど急激に止まった。

 

 彼女の領域である冥界の底の底。幾千万の魂がひしめき合うその空間の一角に、突如として『巨大な染み』のようなものが、音もなく滴り落ちてきたのを、冥界の管理者たる神の知覚が、警鐘を鳴らすように激しく捉えたのだ。

 

(なに、今の……気配は?)

 

 

 彼女は息を呑み、目を見開いた。

 

 それは、死者の魂などでは断じてなかった。

 

 彼女はこれまで、何万、何億という人間の魂を見てきた。清らかな魂も、罪に塗れた魂も、怨念と後悔に煮詰まった魂も、すべてをこの手で触れ、仕分けてきた。だが、今この冥界の底に現れたその存在は、次元そのものが根本から違っていた。

 

 まるで、人間の負の感情というものを限界まで煮詰め、濾過し、さらにそれを極限まで純化させ、凝縮させたような、圧倒的でおぞましい「呪い」のオーラ。

 

 

 

 

 ゾクッ、と。

 

 

 彼女の華奢な背筋に、氷の刃を滑らせたような冷たいものが走った。

 

 驚きと、そして、ほんの少しの、しかし明確な「怯え」。

 

 神霊であり、死の概念そのものを司る自分が、たった一つの得体の知れない気配に対して、本能的な恐怖を抱きかけている。その事実が、彼女を激しく動揺させた。

 

 

「……っ、しっかりしなさい、私!」

 

 

 パンッ、と。彼女は両手で自身の白い頬を強めに叩き、小さく首を振って自分を鼓舞した。

 

 ここは冥界。絶対的な死の国であり、他ならぬ私の庭だ。ここでは私が一番偉くて、私が一番強いのだ。地上でどれほどの力を持っていた化け物であろうと、どのような大英雄であろうと、冥界の裁きからは絶対に逃れられない。ここにいる限り、神である私が後れを取るはずがない。

 

 そう必死に自身に言い聞かせ、震えそうになる指先に力を込め、彼女は自身の身の丈ほどもある巨大な槍の柄を強く握り直した。

 

 そして、異常を感知した座標へと、音を立てないように慎重に足を踏み出した。

 

 岩の影から影へと移動し、気配を殺して接近する。

 

 やがて、目的の場所に辿り着いた彼女は、巨大な石柱の陰にそっと身を隠し、金糸の髪から覗く紅い瞳だけで、チラッと対象の姿を盗み見た。

 

 

(……えっ?)

 

 

 そこにいたのは、巨大な魔獣でも、禍々しい悪魔の類でもなかった。

 

 見慣れぬ、胸元が大きく開かれた白い和服のような衣服を纏い、黒い帯を締めた、黒髪の青年だった。

 

 外見だけを見れば、ただの人間。少し線の細い、若々しい少年のようにも見える。

 

 だが、その男の肉体から放たれる気配は、明らかに常軌を逸していた。肌に直接びりびりと伝わってくる、致死量の毒ガスのような高密度の呪い。彼はただ静かに岩山の大地に立ち、視線を伏せ、何かを深く考え込むように微動だにしていなかった。

 

(……人間? いや、違う。でも神霊でもない。なんなの、あの気配……。それに、生きたまま冥界に落ちてきたっていうの……?)

 

 

 緊張で、喉がカラカラに渇き、心臓が僅かに跳ねる。

 

 だが、このまま放置するわけにはいかない。冥界の秩序を乱す異物には、自身の権限をもって退出願うか、あるいはここで永遠の檻に閉じ込め、魂の残滓となるまで砕き続けるかのどちらかだ。

 

 

「……あ、あの。ちょっと、そこの貴方」

 

 

 彼女は岩陰から思い切って姿を現し、神としての威厳を保とうとピンと背筋を伸ばした。それでも、隠しきれない緊張と、未知の存在への戸惑いを声に滲ませながら、男の背中へと声を掛けた。

 

 

 ――その瞬間。

 

 白い服の男、呪いの王である両面宿儺は、ゆっくりと、急ぐことなく背後を振り返り、彼女と視線を合わせた。

 

 血のように赤い、二対の瞳が、薄暗い冥界の大気の中で真っ直ぐに交差する。

 

 その瞬間だった。宿儺の魂の深奥、一切の感情が凪いだ達観の底で、静かな波紋が広がったのは。

 

(……なんだ、この感覚は)

 

 

 

 既視感(デジャヴ)。

 

 目の前に立つ、金糸の髪と紅い瞳を持った少女。彼には、彼女に見覚えなど一切ない。彼女が放つ神気、その立ち振る舞い、肉体の構成物質。そのすべてから、彼女が人間などではなく、圧倒的な神性を纏った『神霊』であることは一目で看破できた。

 

 その魂の質も、纏う空気の冷たさも、完全に初めて見る異世界の存在のものだ。

 

 本来であれば、未知の領域において、これほどの巨大な力を持つ者と遭遇したのだ。いかに自身が絶頂の力を持っていようと、即座に呪力を練り上げ、臨戦態勢に入り、相手の力量を測るためにとりあえずの一太刀『解』を放ってみるのが、絶対的な常である。

 

 

 だが、どうしてか。

 

 宿儺は彼女に対して、一切の敵意や警戒心を抱くことができなかった。

 

 先ほどまで彼を包んでいた、あの暗い影の底の『温もり』。記憶から抜け落ちているはずの、ある少女と共に駆け抜けた記憶の残滓。その名状しがたい心地よさと、理不尽なまでに強欲な庇護の感覚が、目の前の少女の顔を見た瞬間、強烈な幻影となって彼の脳裏を掠めたのだ。

 

(記憶の欠落が原因か……? あの暗い影の主と、目の前のこの神霊が、何らかの繋がりを持っているとでもいうのか?)

 

 

 宿儺は、己の内に渦巻くこの奇妙でモヤモヤとした感覚の正体を、自身の卓越した知性をもって掘り下げようとし――。

 

 そして、わずか一秒後には、あっさりとその思考を放棄した。

 

 

(……無駄だな)

 

 

 直感的な理解。現在の自身は、記憶というパズルのピースが決定的に欠落している。前提条件が揃っていない状態で、欠けたパズルを無理やり完成させようと推論を重ねたところで、真実には届かない。ならば、そのような不毛な思考は無意味であり、時間の無駄である。

 

 

 「思い出せない」のならば、思い出さなくていい。

 

 極限の自己本位(エゴイズム)。彼にとって重要なのは、過去の感傷でも、失われた記憶の補完でもない。己の限界を正しく測り、今この瞬間をどう生き、どう他者を喰らい、どう楽しむか。ただそれだけだ。

 

 宿儺は、神霊の少女から、ひどく冷淡にスッと視線を逸らした。

 

 そして、彼女の存在を視界からも、意識の表面からも完全に弾き出し、自身の現状の戦力と状況の考察へと没頭し始めた。

 

 

「……えっ?」

 

 

 せっかく勇気を出して声を掛けたにも関わらず、完全に無視され、あらぬ方向を向かれた女神が、ショックを受けたような、間抜けな声を漏らした。だが、宿儺はその声すらも意識から締め出し、己の内の深い部分へと意識を沈める。

 

(ここは現実か、それとも夢か。……いや、どちらでもいいことだ。問題は、今の俺がどこまで『やれる』か、だ)

 

 

 自身の内を巡る莫大な呪力の奔流を確かめる。

 

 血液の循環と共に全身を駆け巡る、純度百パーセントの呪い。伏黒恵の肉体への完全な適応状態。

 

 術式の出力に問題はない。『解』も『捌』も、指先一つで神速の領域から放つことができる。足元に落ちる濃い影の中には、十の式神たちの気配が確かに蠢いている。そして何より、自身の影の最奥で、あらゆる事象に適応する最強の式神『魔虚羅』の法輪の重みが、確かな切り札として鎮座しているのを感じ取る。

 

 霊基の状態は万全だ。二つの最盛期『アルターエゴ』としての霊基が、この地底の世界においても完璧に稼働している。

 

 

 だが、問題は、「世界への干渉」――すなわち、サーヴァントとしての『宝具』の行使についてだ。

 

 現在、自身には現界を維持し、魔力を供給するマスター(繋ぎ手)が存在しない。この冥界の土地に満ちる、現代とは比べ物にならないほど濃密な神代の真エーテルと、霊基そのものの重さによって辛うじて存在を固定してはいるが、エネルギーの独立には限界がある。

 

 通常の戦闘領域――自身の呪力のみを用いた『解』や『捌』、反転術式による肉体の修復程度であれば、自己生成される呪力によって無尽蔵に可能だ。マスター不在の負荷は一切かからない。

 

 

 だが、あれらの大技(宝具)は違う。

 

 『伏魔御廚子』による広域殲滅結界の展開。空間そのものを断ち切る『斬撃』。灰すら残さず焼き尽くす『竈』。そして、概念への適応を強いる『魔虚羅』の完全召喚。

 

 これらは単なる呪術の行使ではなく、「世界そのものの法則を書き換える」という、サーヴァントとしての宝具領域に属する。これを乱発すれば、世界への楔(アンカー)を持たない自身の霊基は、過剰な出力と世界からの反発に耐えきれず、間違いなく自壊し、消滅するだろう。

 

 

(なるほど。大技の乱発は、自身の首を絞めるというわけか。つまらん制約だが、それが今の俺の状態ならば仕方あるまい)

 

 

 己の限界を客観的に、そして極めて冷静に受け入れる。

 

 では、自身がこの見知らぬ地に召喚された意味は何か。

 

 おそらく、この地には何らかの巨大な問題が起きており、自身はそれを解決するため、あるいは単なる世界の修復力の一部として呼び出されたと仮定するのが自然だ。

 

 ならば、やるべきことは一つ。原因を解明し、その根源となるモノを探し出し、切り刻み、粉砕する。そうすれば、この退屈な夢も終わりを迎えるだろう。

 

 

 そうと決まれば、まずは情報収集だ。

 

 

 さて、どうするか。

 

 

 

「――どうしてっ、私のことを無視するのかしら!?」

 

 

 宿儺の深い思考の海に、甲高い、だが僅かに震えを帯びた声が乱暴に割り込んできた。

 

 見下ろせば、先ほどの金糸の髪の女神が、顔を真っ赤に染め上げ、大きな紅い瞳にうっすらと涙を浮かべながら、彼に向かってツカツカと詰め寄ってきていた。

 

 せっかく勇気を出して話しかけたのに、一瞥されただけで完全に無視を決め込まれたのだ。プライドの高い冥界の女主人にとって、これほどの屈辱はない。彼女は巨大な槍の柄を震える手で握り締め、彼を鋭く睨みつけていた。

 

 

(……面倒な女だ)

 

 

 宿儺は鼻を鳴らし、鬱陶しそうに眼下の神霊へと視線を落とした。

 

 本来であれば、己の思考を妨げた虫ケラなど、その瞬間に三枚に下ろして終わりである。彼にとって他者の感情など、何の価値もない。

 

 だが、今の彼には「情報」が必要だった。そして、目の前で涙目で怒っているこの小娘は、おそらくこの土地の管理者であり、現状を最も把握している存在だ。

 

 

 ならば、使うしかない。

 

 

「おい」

 

 

 宿儺の口から、低く、地鳴りのように腹の底を震わせる、王としての絶対的な圧を伴った声が響いた。

 

 あまりの威圧感に、怒っていたはずの女神の肩がビクッと跳ね、その足が一歩、後ずさる。

 

 宿儺は目を細め、他者に教えを乞う立場であるとは到底思えない、神霊を相手にしても微塵も揺らぐことのない極限まで傲慢な態度で、冷酷に言い放った。

 

 

「お前の知っている情報を、すべて吐け」

 

 

 ただの一瞥。そして、絶対的な命令。

 

 自身が何者で、なぜここにいるのかという記憶すら喪失し、未知の領域で情報が欠落している現状。だが、その白い和装の男の声音には、微塵の謙譲も、焦りも、あるいは虚勢すらもなかった。

 

 あるのは、己がこの場の絶対的な支配者であるという揺るぎない確信と、他者を文字通り「己を満たすため、あるいは利用するための道具」としか認識していない、底知れぬ傲慢さのみ。

 

 その人間の姿をしたバケモノから放たれた、あまりにも理不尽で巨大な「王気」に、冥界の女主人である彼女は一瞬、呼吸すら忘れ、完全に絶句した。

 

 だが、すぐにその美しい白磁の顔をカッと朱に染め上げ、手にした身の丈ほどもある巨大な槍の石突を、硬く冷たい冥界の大地へと激しく叩きつけた。

 

 

 

 ガァンッ!! と、鋭い金属音が静寂の底に響き渡る。

 

「なっ……! な、なんなのよその偉そうな態度は! 私は神よ!? この冥界を統べる絶対の管理者にして、恐れおおき女主人なんだからね! 生者の分際で、私に向かって命令するなんて……百年、ううん、一万年早いわ!」

 

 

 ツンッ、と尖った顎を上げ、神霊としての威厳を精一杯に張り上げる。

 

 ここが自身の庭であることを誇示し、相手の不遜な態度を上から叩き潰そうとするその態度は、彼女が長きにわたって死者の国を守ってきた、神としての強固なプライドの防壁そのものだった。

 

 

 ――しかし。

 

 

「クッ……ハハハッ」

 

 

 宿儺は、喉の奥で低く、だが明確に嗤った。

 

 威嚇して毛を逆立てる猫のような彼女の反発に、怒りや苛立ちを感じるどころか、ひどく単純で分かりやすい生き物だと見透かしたような、冷たくもどこか余裕のある笑いだった。

 

 己の極限のエゴを貫き通し、その果ての敗北すらも「己の身の丈」として静かに受け入れた、老成と達観の境地にいる今の彼にとって、他者の見栄や虚勢など、取るに足らない路傍の石ころの戯れに過ぎない。

 

 

「……いや悪かったな」

 

 

 宿儺は、一切の反省も感情も籠っていない、ひどく平坦な声でそう口にした。

 

 言葉の形こそ謝罪の体をとっているが、その真紅の瞳は、目の前の神霊を完全に「使える手駒」として冷静に値踏みしている。

 

「俺は記憶がない。自分がなぜここにいるのか、ここが何処なのかも分からん。……だから、何が起きているのか情報を寄越せと言っている」

 

 

 そこで宿儺は言葉を区切り、ほんのわずかに声を低くして、金糸の髪を揺らす彼女の紅い瞳を真っ直ぐに射抜いた。

 

「頼りが、お前しかいないのでな」

 

 

「…………えっ」

 

 

 その一言が、冥界の女主人の鼓膜を揺らした瞬間。

 

 彼女の全身から、先ほどまでのツンケンとした神霊の威圧感と怒気が、針を刺された風船のように一瞬にしてひゅるりと消え去った。

 

 大きく見開かれた紅い瞳が、パチパチと、信じられないものを見るように瞬きを繰り返す。

 

 

(た、頼りが……私しか、いない……?)

 

 

 何千年、何万年もの間、この暗く、冷たく、太陽の光すら射さない地底で、たった一人で黙々と魂の管理を続けてきた彼女。

 

 死者の魂は言葉を持たず、彼女の途方もない孤独を慰める者は誰もいなかった。誰かに必要とされ、生者から正面切って「頼られる」ことなど、彼女の長きにわたる神生において、ただの一度もなかったのだ。

 

 

「そ、そこまで言うなら……」

 

 

 彼女はサッとそっぽを向き、必死に口元の緩みを隠そうとしながら、ゴニョゴニョと言い訳のように呟いた。

 

「し、仕方ないわね! 記憶がなくて右も左も分からない哀れな人間のために、この慈悲深い冥界の女神が、特別に色々教えてあげるんだから! 感謝しなさいよ!」

 

 

 あまりにも簡単な籠絡。

 

 宿儺はその一連のやり取りに、自身の魂の奥底で再び「既視感」がチリッと音を立てるのを感じたが、やはり深く追求することなく思考の隅へと追いやった。

 

 

 今は、現状の把握が最優先だ。

 

 宿儺は足元の枯れた大地を確かめると、背後の切り立った岩壁に寄り掛かるようにして、胡座をかいてどっしりと座り込んだ。

 

 女神は少しだけ戸惑いながらも、自身の槍を傍らに置き、宿儺から少しだけ距離を空けて、恐る恐る、しかしどこか弾むような気配を隠しきれずに、その隣に腰を下ろした。

 

 

 暗く澱んだ地底の世界。

 

 最凶の呪いの王と、冥界の女神が並んで座るという、異常にして静謐な時間が流れ始める。

 

「いい? 今、地上の世界は大変なことになっているの。……『人理焼却』って言ってね、人間の歴史そのものが根本から燃やし尽くされようとしているのよ」

 

 

 彼女は、教師が物覚えの悪い生徒に教えるような、少し得意げな、それでいてどこか嬉しそうな声で語り始めた。

 

 

 歴史の歪みである『特異点』の存在。

 

 この紀元前2600年のメソポタミアにおいて、本来の歴史には存在しないはずの神々が現れ、人類を滅ぼそうとしていること。

 

 宿儺は目を閉じ、黙ってその話を聞きながら、卓越した知性をもって脳内で情報を整理していく。

 

 

(なるほど。やはり俺の仮説はあながち間違っていなかったというわけか)

 

 

 歴史の歪み。世界の巨大なバグ。

 

 己がこの地に呼ばれたのは、その異常事態を修正するためのカウンター、あるいは世界の修復機構の一部として召喚された可能性が極めて高い。

 

 記憶はない。だが、この地に蔓延る原因――すなわち特異点の根源となるものを解体し、切り刻み、粉砕すれば、自ずと道は開けるはずだ。

 

 

「……そうか。情報は感謝する」

 

 

 宿儺は短くそう告げると、岩壁から背を離し、ゆっくりと立ち上がった。

 

 白い衣服の裾が翻り、彼の中から再び、隠しきれない呪いの気配が立ち昇る。

 

「え……?」

 

 

 隣に座って熱心に語っていた彼女が、弾かれたように顔を上げた。

 

「まずは地上に出る。その『歪み』とやらが何処にあるのかを探し出し、潰す。……ここはどうやったら出られる?」

 

 

 宿儺は彼女を見下ろし、淡々と要求した。

 

 彼にとっては、ここが夢であろうと現実であろうと関係ない。ただ己が快楽の為。闘争を行い、立ち塞がる障害を排除するだけだ。それに、記憶は思い出せずとも、彼には「辿り着かなければならない約束」の感触だけが、魂の奥底で燻り続けている。

 

 

 こんな地底で、立ち止まっている暇はない。

 

「も、もう……行ってしまうの……?」

 

 

 不意に、足元から聞こえた声。

 

 宿儺が見下ろすと、そこには、先ほどまでの誇り高く威厳に満ちた女神の面影はなく。まるで、暗闇の中でようやく見つけた小さな灯りを、無慈悲に吹き消されそうになっているような。

 

 ひどく寂しそうで、不安に揺れる、孤独な子供のような瞳が、宿儺を真っ直ぐに貫いていた。

 

 

(……知ったことではない)

 

 

 生前の彼であれば、間違いなくそう切り捨てていただろう。

 

 他者の孤独や寂しさなど、彼にとっては道の端に転がる石ころ以下の価値しかない。さっさと地上への道を開けさせ、用が済めば背を向ける。それが「歩く天災」たる呪いの王としての絶対の在り方だ。

 

 

 ――だが。

 

 不思議な感覚は、止まらなかった。

 

 彼女のその寂しそうな瞳を見た瞬間、彼が目覚める直前、暗い影の底で彼を包み込んでいたあの「温もり」が、脈打つように彼の中で熱を持ったのだ。

 

 

 宿儺は、静かに彼女を見つめ下ろした。

 

 冷酷な真紅の瞳の中に、ほんのわずかな、彼自身にすら説明のつかない「揺らぎ」が生じる。

 

 己の限界を知り、他者の在り方を受け入れた、達観の境地。

 

 そして、魂の奥底に深く刻み込まれた、ある傲慢な少女と共に駆け抜けた日々の残滓。

 

 それらが複合的に作用し、呪いの王に、生前であれば決して選ばなかったであろう「気まぐれ」を選択させた。

 

 

「…………」

 

 

 宿儺は小さく息を吐き出すと、再び岩壁へと背を預け。

 

 先ほどと同じ位置――彼女のすぐ隣へと、ゆっくりと腰を下ろした。

 

 

「……もう少し、体を休めてから地上へ行く」

 

 それだけを短く告げ、宿儺は正面の暗い空間へと視線を外した。

 

 

「……っ!」

 

 

 隣で、彼女が小さく息を呑む気配がした。

 

「べ、別に……私はどっちでもいいのよ? 貴方が勝手に休んでるだけなんだから。……でも、冥界の空気に慣れるまでは、無理しない方がいいわね。ええ、仕方ないから、もう少しだけ隣にいてあげるのだわ」

 

 

 ツンデレめいた強がりの言葉。

 

 だが、その声の裏には、隠しきれないほどの弾むような嬉しさと、微かな期待が入り交じっていた。

 

 

 宿儺は彼女の方を見ない。

 

 ただ、絶対的な死の国であるこの冷たい冥界の底で、隣から伝わってくる微かな体温と、自身の魂の底で微睡む「温もり」の奇妙な一致を感じながら、静かに目を閉じた。

 

 血と泥に塗れた神話の闘争が始まる前の、ほんのわずかな猶予。

 

 記憶のない呪いの王は、自身の内にある矛盾した感情を抱えたまま、この静かな夢の断章の中にもう少しだけ、身を委ねることにした。

 

 

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