青き炎のBEACON《道標》   作:リクライ

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第二十四話 『リザルト』

 

 

 

 

 

 

 静寂。

 

「…………」

 

 水面から顔だけを出したまま出久の肺は呼吸すら忘れ、ただ見た。目撃した。

 先ほどまで広場を支配していた、『(ミー)』と『(一条)』の剣戟の嵐が、今では嘘のように晴れ、鼓膜を痛めるほどの轟音もまた晴れる。

 

 その中央で、

 

「…………」

 

「か、ッ、あぁ……っ。こん、な……」

 

 大斧を持った女──ミーの体が、糸が切れた操り人形のようにゆっくりとアスファルトへ崩れ落ちた。

 刃はまるで導かれるままに胴を両断され、真っ赤な血がミーの体を濡らす。だが袈裟に深い斬撃を喰らったにも関わらず、その体はギリギリを骨で繋ぎ止めた。

 遠い場所に突き刺さった斧はそのままに、芝生に深く埋め込まれて一体となる。

 

「星野、さん……」

 

 勝った。

 一条が立ち、ミーが堕ちた。

 これを勝利と言わずしてなんと言う。

 

 得体の知れないヴィランを、一条は倒してのけたのだ。

 けれど、出久の胸を激しく締め付けたのは、勝利からくる余韻でも、ましてや奮い立った一条の気概による感動でもない。

 

 絶望からの壮絶なる安堵のギャップでもなかった。

 

「────ぅ、くっ」

 

 一条の痛々しい姿だ。

 ピント張り詰めていた一条の背中が、限界を告げるように大きく波打った直後、絶える気配さえ見せなかった青い炎は突如として霧散。

 右手に握られていた黒い長剣も、彼女の体に引き連れられるように形を失う。ガラガラと、崩れるように一条の体の中へと吸い込まれて──消えた。

 

「はぁッ……、が、ぅえ……は……っ」

 

 静寂の広場に、一条の血を吐くような、ひどく重く掠れた呼吸が響いた。

 無敵でも、なんでもなかった。あれら一幕は全て、致命傷を負っていたはずの一条が身を削り出して体現し、動かしていたのだ。

 

 限界など、とうに広場に打ち上げられた昔から迎えていたのだ。それからの目覚め、それからの足掻き、それからの気づき、それからの戦闘。それら全て、苦しみも痛みも飲み込んで、足を一条は動かしたのだ。

 

 だが、その奇跡も、今まさに青い炎が消えたように光を閉ざそうとした。

 

「星野、さ……だめだよ……っ、そんなッ」

 

 出久の掠れた声は、広場の静寂に溶けて消え入る。

 膝を折り、アスファルトに座り込む一条にも届かない。その青い瞳からは光が失われかけ、ただただ荒い息だけが一条をまだ生きているのだという証を立てる。

 

 だが、それさえも細々として、今の呼吸はまるで一条の体をなんとか保とうとしているような呼吸だ。

 

 もうこれ以上、一条は立ち上がることができなければ、動くこともままならない。そして、その近くには、死柄木はもちろん黒霧もいる。

 無視していても、このまま野放しにしていれば間違いなく一条は死んでしまう。それは確実だ。だが、その死を確実にするため、一条に近づこうと企む可能性すらある。

 

 ──なんとかしないとッ

 

 ──行けるかッ?

 

 ──行くんだよ緑谷出久ッ

 

 ──遅れたら星野さんが死んじゃうんだぞ──っ!?

 

 ──けど、気づかれないか?

 

 ──死柄木と黒霧は立ったまま。むしろ各個撃破か?

 

 ──いや、それよりも────

 

 思考が枝分かれして、一条と死柄木を含めたヴィラン達を視界の中で右往左往させる出久。口に出してしまいそうな思考言語を、なんとか口元を手で覆って隠した。

 

 

 

 

 だが──

 

「────」

 

 その懸念よりも先に、早く、絶望というものは別の形を繕って這い上がってきた。いや、突っ込んできた。

 

 最初の予兆は地響き。──違う。地響きに似た、地面を執拗にまで押し潰して抉り耕す、重々しい()の連続。

 凄まじいまでの速度で接近(・・)してくる足音だった。

 

「……っ!?」

 

「やっとかァ……」

 

 出久が息を呑み、広場の中央に立つ死柄木が苛立たしげに首を巡らせる。

 

 その足音の正体に気づいた時には、何もかもが遅すぎた。

 一条によって遥か彼方、USJの壁面まで吹き飛ばされていたはずの漆黒の巨体を持つ存在。あの『脳無』が、土煙を突き破り、まるで砲弾のような速度で地面を蹴り上げて一直線に帰還する音だったのだ。

 

「遅えよ、脳無。あのガキはいい、どうせすぐ死ぬ。おかげで霧を払ってくれたが、使者サマも使者サマで、ちゃっかりやられてるし……かっこ悪いなァ」

 

 首をガリガリと掻きむしりながら、死柄木が座り込む一条と地に堕ちたミーに向かって吐き捨てる。

 一条がどれほど規格外であろうが、すでに青い炎は消え、腹を割かれた体は誰が見ても限界を超越した。放置していても、数分後には確実に死に至る。だからこそ、死柄木にとってはもはや壊れた玩具をなかったこととして、壊れたミー共々見捨てるしかない。興味を引く対象ですらない。

 

 ──なら、早くっ

 

「ぐッ」

 

「ダメよ、緑谷ちゃん……!」

 

「梅雨ちゃん……っ!!」

 

 どうやら、見逃してはくれるが、あくまで状況の見送りにしかすぎない。今も一条の命の灯火が絶えようとしている

 だから出久は体を乗り出した。

 だというのに、そんな出久の行動を暴挙とする蛙吹が青い顔のまま目を見開いて引き止めにかかったのだ。

 

 早く助けに行きたいのに、このままでは、一条は死んでしまう。

 

「あーでも、姉貴の仲間……壊したから怒られる……。死体でも、届けたら幾分はマシになるか? まあいいか、黒霧、ゲートだ。ミーを回収して──」

 

 死柄木の言葉が、掻き消える。そして最後まで紡がれることもなくなった。

 凄まじい速さで通り過ぎるものがあったからだ。

 

 それは、

 

「は」

 

 広場に帰還し、主人である死柄木の傍で止まるはずだった脳無。あるいは、命令のまま相澤の頭を捻り潰そうとしていた脳無。

 その脳無が、死柄木の制止すら無視して加速したのだ。

 標的は、命にあった頭を潰すべき相澤でも、ましてや、まさかの死柄木でもない。

 

 ただ一人、

 

「は、……ぁ」

 

 動かなくなったミーの前に座り込み、消えゆく意識の中で必死にその体を立たせようと呼吸をつなぐ──

 

 ──待って。

 

 星野一条へ。

 

 待って待って待って

 待て、待て待て待て待て待てマテ待て。

 

「おい、脳無ッ!! 何し──」

 

 それは、死柄木すらも困惑し、その困惑すら黒い巨躯が置いていき爆ぜた。

 移動というよりも、暴力を全てに叩きつけるような突進。

 

 それが、小さい一条の体に影を落として、

 

「あ──────」

 

 避ける術も、ましてや防ぐ力も残されてはいなかった一条。

 鉛のように重い両腕を上げるよりも早く、無慈悲なまでの黒い巨腕が一条を捉え──、

 

「────」

 

 飛んだ。

 出久の目にはそれがコマ送りのように、一秒、一フレームも逃さず捉えてしまった。

 真正面から、脳無の拳を迎え入れるように撥ね飛ばされた──一条の姿を。

 

 人が到底鳴らすことのできない、砲弾のような破裂音が、ドーム内に反響する。その最中、一条の体が木の葉のように軽々と舞って、飛んでいく。

 血飛沫を撒き散らしながら、飛んで、飛んで──落ちて、落ちて……

 

「星野さん──ッッ!!」

 

 そのまま、一条の体は受け身もまともに取れないまま、アスファルトも何もない芝生の上に堕ちた。ポトっと、まるでボールが誰にも受け止められず跳ねながら、崩れ落ちた。

 

 出久の絶叫が、ただ虚しく響き渡る。誰もその奇行から放たれた撃に、貼り付けられたかのように動けなかった。

 

「あーぁあ、壊しちまったか……。脳無も苛ついたんだなぁ」

 

 吹き飛ばされ、落ちたまま微動だにしない一条の方を執念深く見つめる脳無に、死柄木は首元を手で撫でながら喉を楽しげに震わせる。だが、その声には怪訝な色も滲んだ。

 そも脳無の行動は、今まで死柄木の声ひとつで従順に従ってきていたのだ。出久もそれを間近で目撃した。

 だからこそ、今の脳無の行動は──おかしかった。

 

「おい脳無。もういい、帰るぞ。黒霧、ゲート開けオープン」

 

「死柄木弔。しかし脳無の様子が……」

 

「いいから──脳無ッ さっさとし──」

 

 懸念の色を滲ませる黒霧にため息混じりの死柄木の声が言の葉を返す。

 だが、最後まで紡がれることはなかった。

 死柄木が振り向きながら脳無に放った言葉。それを届かせようとした矢先、目に映る光景を疑ったからだ。

 

 それは──、

 

「────」

 

「は」

 

 脳無が──何かをしていた。

 

 気付かぬうちに移動していたと思えば、そこは血溜まり。一条が震えながら立ち上がり、そして一部を一部として切り離した、まだの温みのあるモツがある場所。そこに、黒い巨体が立ち尽くしていたのだ。

 両腕を持ち上げ、口元にやるようにして。

 

 違うのはそれだけではない。脳無の足元──つまり血溜まりには確かにモツがあったはず。しかし、脳無の足元に『ソレ』はなかった。

 

 代わりに音。何かを咀嚼(・・)するような、ヌチャヌチャと筋を噛み千切る不気味な音が、静寂を讃えていた広場に響き渡る。

 ただ、

 

「……あ、ぇ」

 

 出久は、出久の深緑の瞳はそれを横から垣間見た。──見てしまった。

 恐怖と生理的嫌悪で極限まで収縮した出久の瞳孔に真っ逆様に落ちる光景。

 脳無が、血の池に打ち捨てられていた桃色の臓物を、巨大な手で拾い上げて、鳥のような嘴を模した口の中へと放り込んだ様子を──。

 

 ──なんだ……あれ。

 

 理解が追いつかない。いや、理解はしている。理解はしているが、目の前に起きていることが明らかに常軌を逸しすぎていて、思考が混乱を連れてくるのだ。

 

 ただ目に入るのは、瞬きしても何も変わることはない。

 黙々と咀嚼し、空虚なはずの剥き出しの眼球がギラギラとした異様な執着を宿す様。剥き出しの歯は常軌を逸して赤く染まり、隙間から覗く一条の素材が消えていき、

 

「────」

 

 ゴクリとひとつ、まるでこぼさないように、欠けたピースを埋めるような嚥下が脳無の喉元から鳴った。

 もっとも原始的で、目の前で執り行われた悍ましいまでの──食事。

 

「ケ、ケロッ……」「ぅ、ぅぅぅ……」

 

 蛙吹が口元を抑えて、胃が出るよりも先にせり上がるものを必死に堪える。

 峰田はとうの昔に完全に意識を手放していたが、その表情は苦悶を浮かべたまま。水に浮かぶ木片の如く出久と蛙吹の側を揺蕩う。

 

「う、あ……ぁあ……っ」

 

 自分の喉から、声にもならない言葉が漏れるのを出久は覚えた。

 目の前で友人が、一条が、ただ殺されるだけでなく、その肉を異形の化け物に貪られている。

 これほどの冒涜があろうか。

 これほどの絶望が、あるのだろうか。

 

 ──星野さん……っ!

 

 今すぐにでも飛び出したかった。今すぐにでも、あんな化け物に、これ以上一条を、たった一人の尊厳を踏み躙られるなんてことがあってたまるか。

 

「脳無……お前、何食って──」

 

 死柄木の声が、初めての予想外を前にしたように低く濁る。けれども、脳無に開示の命を下した。いや、正確に言えば下そうとしたの方が正しい。

 なぜなら、脳無は死柄木の言葉すらまるで耳に入れていないように、血に塗れた手をそのままにして緩慢に走り出したのだ。

 

 ──待て。

 

 出久の思考は、その黒い巨体が一体何を考えて、何を目指して走り出したのかを知っていた。いや、出久の分析脳がすでに編み出してしまっていて、警鐘をガンガンと鳴らして眉間を鋭く突き刺す。

 

 ──待てよ。

 

 脳無の虚な眼球が捉えていたのは、自分たちでもなければ相澤でも死柄木でも、ましてや烏合のヴィランでもない。

 一直線に向かう視線の先にあるのは、吹き飛ばされ、芝生の上で仰向きになりながら微動だにしない──一条の姿なのだ。

 

 欠けたピースを埋めるような、静かなる歓喜の嚥下。

 先ほどの光景が、再び出久の脳裏で新たな推測を冷酷に、素早く結びつけた。

 

 脳無は、まだ足りなかったのだ。

 一条からこぼれ落ちた肉体の一部では飽き足らず、今度は彼女の肉体そのものを求め──

 

 ──やばいやばいヤバいやバイヤバイヤバイ──ヤバいっ!!

 

 思考回路が体に直結した瞬間、体から冷たい汗が湧き出す。

 

 ──絶対に、

 

 刹那、水底に根を張っていたはずの両足が、理屈を超えた衝撃によって泥を、

 

 ──行かせてたまるか!!

 

 蹴り上げた。

 隣で蛙吹が制止の手を伸ばした気配を感じたが、もはや振り向く気も、余裕もない。

 一つではなく、二つ。二つではなく三つと。この足は確かに地面を蹴り上げていく。

 そんな確かな走りであるはずなのに、全身を平等(・・)に行き渡る力の感覚にすら違和感が感じないほど、出久は走り向かった。

 

「やめろ──ッ!!」

 

 出久の喉から出る叫びは、自分でも驚くほど鮮明に聞こえ、絞られた喉を裂いてまで出たようにすら思えてくる。

 けど、そんなこと今はどうでもいい。

 

「星野さんから──!」

 

 右左。いや、出久の体はそれを考えてはいなかった。ただひとつ──

 

「離れろ──ッッ!!!!」

 

 一条を助ける(救ける)

 これだけだった。

 

 絶望も、何もかも置いていき、全身の力で脳無に追いつく。例えこの手がこの全身が砕け散ろうとかまわない。一条が感じた痛みは、こんなものでは収まることもなければ、返せようもない。

 

「SMAAA──!!」

 

 右腕に入れろ。体へ水のように行き渡らせて、全身で挑まなければ、脳無には絶対に届かない。

 だからこそ、今一条の元に辿り着いて黒い巨腕を伸ばす脳無に──

 

「SSSSHHHHHHH──ッッ!!!!」

 

 出久は今自分にできる最大最良のポテンシャルを、拳に集約させて──突き放った。

 

「──ッッ! ……、ぇ」

 

 出久の脳に、ふと思考の湖面に落ちるものがあった。

 

──違和感。

 

 それは、今に始まった事ではない。手応えもあったにも関わらず、ここに至るその瞬間から過程において何もかもがおかしかった。

 いつもならあるはずの激痛が、

 

 ──ない……。ないっ、折れてない!?

 

 全くなかったのだ。

 

 入試時であれば、50メートルすら軽々と一っ飛びできるはずのパワーが、走ってくる時はむしろ小分けで活用していた。

 体が勝手に。

 

 ──まさか“調整”……っ!? こんな時に……ッ!

 

 普段であれば、まさに快挙である。今までなかった、この身に渡された“個性”の順応なのだから。

 けれど、今の出久にとってそれは全く嬉しくもなかった。なぜなら脳無は──一度USJの端まで吹っ飛ばされたのだから。一条によって。

 そして効いていなかった(・・・・・・・・)

 

「────」

 

 ゆっくりと顔が持ち上がり、出久の視界も持ち上がる。

 砂埃が舞い起こり、目の前に何がいるのかはわからない。けれど、その砂塵の大きさは、確かに殴ったはずの存在と同じだった。

 

 煙が晴れる。

 

 そこにいたのは、

 

「おい……」

 

 一切のダメージも、吹き飛びもせずその場に佇み、

 

「待てよ……っ!」

 

 黒い巨腕で一条の体を無造作に掴み上げようとする──

 

「離せよ……ッ!!」

 

 『脳無』だった。

 

 見上げるまでの黒い巨体はまるで小さな山のようであり、殴った感触の不動さはまさに山。

 

 初めてだ。初めてだった。出久にとって、人を殴ることは。だが殴ったというのに、出久の頭には罪悪感が昇るよりも一足早く焦燥感突き抜ける。

 

 どうにかして、どうにかして脳無から一条を離さないといけない。けれど、無意識の制御を得たスマッシュでも無駄。そしてもし、これが100%で放ったとして、果たして脳無は効くのか。

 

 思考がぐるぐると剛速で回転する中、時間は待ってはくれない。

 腕をつき放った状態から、出久の体は動かず、目を見開いたまま脳無を見上げる。

 

「────」

 

「離せ、やめろっ」

 

 飛び出したのは、腕でも足でもなく、乞いだった。

 制止の言葉なんて、もとより脳無の耳に入るはずもない。

 出久の打撃なんてなかったかのように振る舞う脳無が、一条の身体を両手で捉えたと思えば、

 

「グパァァァア…………」

 

 鳥の嘴を思わせる異形の顎を大きく開き、一条の頭部を迎え入れんとし始める。

 ゆっくりと。まるで体の中に入れるのを心待ちにして、その楽しみを一瞬にしたくないとするように。より深く味わうためにするように。

 ゆっくりと、仰向けに倒れる一条を芝生から起こし掴み上げる。

 

「ぅ、うっ……」

 

「──!!」

 

 不意に、出久の耳に入ったのは血に溺れて苦しみに苦悶する声だ。その行方は、脳無の手の中で震える──

 

「い、ず……」

 

「────」

 

 一条だった。

 一条は、まだ意識を往生際の瀬戸際で耐え続けて、今もなお青い瞳を僅かにこじ開けていた。

 抵抗は、無理だ。できない。一条の体はとうに限界にいるのだ。

 

 ──星野さん……っ!!

 

「クッッソが──ッッ!! 止まれよ──ッ!!」

 

 それを見た瞬間、出久はがむしゃらに腕を振り上げて振り下ろした。

 何がなんでも、

 

「止まれ!! この野郎ッ!!」

 

 一条をコイツから引き剥がすために──。

 

「星野さんを!! 離せ──ッ!!」

 

 けれど、びくともしない。いや、それ以前に手応えがなかった。

 必死に。そう、必死にするがあまり、出久の拳には“個性”が溜まるのはおろか、まともな攻撃として役に立たないのだ。

 なぜか。確証はつかないけれど、脳無には何をしても無駄だとでも、無意識下に決めつけたか。それとも“個性”を使おうとする自分の精神の腰が抜けたのか。

 

 ──なんで!!

 

 苛立ちに拳を叩きつけても、ボールがグラウンドに『トサッ……』と落ちて、反発するように虚しい音だけが脳無に呑み込まれるだけ。

 自分の体と同じかそれ以上の太さの巨腕を引っ張っても、体が負けて地面を足で削るだけ。

 

 一秒経つごとに、一条の命の行方が決定し始めた。

 

「……やめ、ろ…………っ」

 

 出久の声はもう、掠れた吐息にすぎない。

 出久の抵抗も、一条のギリギリで繋ぐ意識をも、脳無の前では鳥の囀りのように通り過ぎるだけ。

 

「…………」

 

 脳無が動く。

 無駄な努力を嘲笑うかのように、出久の目の前で、無言の脳無が両腕を持ち上げた。太い五指で、一条の華奢な頭部を、肩を、無造作に、まるで果実の皮を剥くかのような手つきで引き寄せる。

 その血に塗れた『口』へと運んでいく。

 一条の頭が、

 

「やめろ──ッッ!!!!」

 

 見えなくなる。

 

 そうなる直前に、唐突に、絶望をUSJの大扉が粉砕される轟音と破裂音で切り裂いた──。

 

「な──」

 

 死柄木が、そして広場にいた全員の視線が、音の出所──入り口へと釘付けになる。脳無でさえも、その圧倒的な『音』と『圧』に動きをピタリと止めた。

 

「────」

 

 粉塵が舞う。ひしゃげた巨大な扉が、凄まじい勢いで吹き飛んだと思えば、広場を飛び越えてようやく芝生を削って地面へと転がることなく突き刺さる。

 

 そして、ドアのあった場所。その奥から、ゆっくりと、しかし一歩に宿るのは、まさしくこの絶望の黒の領域を光で照らし尽くすオーラだ。

 

 立ち込める土煙を切り裂き、砕け散った扉の枠の向こうから現れる巨躯。

 逆光を背負って立つその姿を、誰もが知っていた。

 

「嫌な予感がしてね……。校長の話を振り切り、来る途中で飯田少年とすれ違って、あらまし聞いた……ッ」

 

 そこに立つのはトレードマークであるはずの、

 

「もう大丈夫……ッ」

 

『笑顔』を完全に消し去った、

 

「私が来た……ッ!」

 

 平和の象徴──オールマイトだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後のことは、あまりよく覚えていないんだ。

 

 ただ、視界が真っ白に塗りつぶされるほどの、凄まじい衝撃と風圧の連続。

 

 平和の象徴が、僕の知っている誰よりも……あの笑顔の奥底で怒りを燃やして、あの化け物と対峙していたこと。

 

 ……そして、僕の中に預けられた星野さんの体が、まるで最初から中身なんて詰まっていなかったんじゃないか(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)と思えるほど、空虚な重さ。冷たくなっていく感覚が、網膜と、この両手に染み込んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 気がつけば、あれほど圧倒的だった脳無は空の彼方へ消え、プロヒーローたちが現着したと同時に死柄木たちはチンピラたちを残して黒い霧の中へ逃げ去っていた。

 

 謎の女、ミーの姿はすでに衝撃波に吹き飛ばされてしまったのか、気づいた時にはいなかった(・・・・・)

 

 ……けれど、僕にはあれが勝ったなんていう実感なんかひとかけらもなくて、この耳には、救急車のサイレンと──

 

 

 ──

 

 

 

 ────

 

 

 

 ──────

 

 

 

 

 * * *

 

 

 赤、赤、赤。光が、ひどく暴力的に僕ら、出久らをチカチカと差し続けていた。

 

 救急車のサイレンが耳を劈くように鳴り響いているのに、出久の頭の中は奇妙なほど静まり返った。

 ただ、自分のこの両手にこびりついた、鉄の匂いと生暖かい感触だけが、これが夢でなく、現実であることを出久に押し付けてくる。

 

「急げ! バイタル低下、早くストレッチャーに乗せろ!」

「ダメです、出血が多すぎる……!」

 

 1、2、3。

 レスキュー隊員たちの怒号が飛び交う中、出久の足はへたり込んだまま、ただ運ばれていく一条から目を離すことができなかった。──目を開けたまま、事切れたように停止する、彼女を。

 一条のお腹は、瀬呂のセロハンテープで幾重にも、何重にもぐるぐると乱暴に巻かれている。入り口にいた瀬呂たちが、泣き叫びながら、震える手で必死に開いたお腹を塞ごうとした痕跡。

 そのテープでさえも、隙間から命がこぼれ落ちていくようにわずかに漏れる。

 

 まるで、壊れた人形を無理やり繋ぎ止めているようにしか、見えなかった。

 けれど、けどだ。この両手には、まだかすかに一条の鼓動が伝ってきていた。それは確かなのだ。

 運ばれていく一条は、まだこの世界に残ろうと──しがみついている。

 

「……っ、あ……」

 

 なのに、自分はどうだ。何も、できなかったじゃないか。

 あれほどまで近くにいた。近くにいたのに、バケモノが一条を貪ろうとしたその瞬間まで、自分はただ見上げることしかできていなかったではないか。

 

 己の不甲斐なさが、無力さが、喉の奥をギリギリと締め付けて、奥歯を噛み締めた。

 骨折したはずの指が痛いのか原因なのか定かではないが、目の奥が熱く、やり場のない感情が頬を伝って落ちる。

 

 音が、音が。

 ストレッチャーが、冷たい金属音を立てて、白の車の内へと向かう。その音が、何度もくぐもったように反響して、消えようとしない。

 

「いっちゃん……っ! いっちゃん!!」

 

 不意に、女の人の声が頭を叩いた。いや、こちらではなく、一条が入っていく救急車に向かってだ。

 それは、現場を制圧するために駆けつけた増援の雄英教師であり、プロヒーローのうちの一人──ミッドナイトの声だった。しかし、今のミッドナイトからは、自分たち生徒に教えを説く余裕と艶やかさのあるプロとして、何より教師としての面影など微塵もない。

 

「うそ……」

 

「ミッドナイト、下がって──あ、ちょっと!?」

 

「いっちゃん!!」

 

 血相を変え、場を整理する別の救急隊員を振り切って、転がるようにミッドナイトが救急車へと駆け寄ってきた。

 血に染まり、瀬呂のテープで患部をぐるぐる巻きにされた一条。その無惨な姿を目の当たりにした瞬間、ミッドナイトは口元を覆って、その場に崩れ落ちそうになった。

 けれど、それでも膝をつかずストレッチャーに駆け寄るのは、ヒーローとしての意地か。それとも、親戚の子供であれど親として接してきたからか。

 

「いっちゃん……っ! お願い、見てっ! アタシをしっかり見なさい、いっちゃん!」

 

 どうしてだろうか。出久には、ミッドナイトが目を開いたままの一条に当てる声を知っている気がした。

 いや、知ってるのではない。似たような声を──

 

『ごめんねえ出久っ……ごめんねっ』

 

「──っ」

 

 聞いたことがあるからだ。齢四歳にして、最大の挫折を味わった時の、涙に声を絞る母の声を。

 

 ミッドナイトは震える手を伸ばし、虚空を見つめる一条の血に塗れた頬に縋り付くように触れようとして、その手が妨げられる。

 

「下がってください! すぐに出発します!」

 

「待ってっ! せめていっちゃんのそばに居させ──」

 

「重症患者なんです! 事は一刻を争うため、例え親族であっても同乗させることはできないんです」

 

「────、そん……なっ」

 

「今、全霊をかけて処置を行います。どうか、容赦を……っ。これが、この子のためになると思って……!」

 

 救急隊員に制止され、彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。行方は一条の真っ白な肌に落ちるわけでもなく、ただ灰色の路面へと落ちてシミにするだけ。

 届くわけもなく、ストレッチャーの揺れに従うまま体を揺らす一条が、救急車へと、向かう。入れる。入っていく。

 

 それを、目一杯に開かれたミッドナイトの青い瞳は一片たりともこぼさず、なおも前に進もうとしていた。

 

「待って! お願いです行かせてください……っ。これじゃあこの子は…………いっちゃんは、また一人になっちゃうんですよ!?」

 

「何もついてくるなとは言ってはいません! 救急車に搭乗ができないというだけ! 警察車両に乗せてもらい、ついてきてください!」

 

 無情にも、救急車の分厚い後部扉が閉められるのと同時に、ミッドナイトの制止が解かれる。

 

 ──…………。

 

 その音が、鼓膜を突き刺すサイレンの音よりも、ひどく重たく出久の心臓を跳ねさせた。

 

「いっちゃん……。────っ」

 

 サイレンを発して、一条を乗せた救急車が発進するのを目の当たりにするミッドナイト。伸ばした腕を、手のひらを握りしめると、目を覆う赤縁のマスクを取り外して拭う。

 

 一呼吸。深い呼吸だ。己の胸に言い聞かせるような、震えるような呼吸。

 

 短い一秒の末、腕をよけてマスクをつけたミッドナイトが、青い瞳を開けた。

 

「すぐに追うわ! パトカーを出してちょうだいッ」

 

 さっきとは一転し、毅然たる振る舞いを見せるミッドナイトが警察官の元へ駆け出して行った。

 その姿は、普段メディアを賑わせるような妖艶さのある『ヒーロー』ではなく、信じるための『ヒーロー』がそこにいた。

 

 必死に縋りつこうとするんじゃない。確証はないけれど、それでも一条が、帰ってくるのを信じる。ヒーローと、娘を信じる()としてのミッドナイトが、そこにいたのだ。

 

「────」

 

 赤のパトランプが回転し、出久たちの顔を交互に照らし出す。

 けたたましいサイレンを騒ぎ上げながら、一条を乗せた救急車に続いてミッドナイトの乗せるパトカーが追跡していった──。

 

「…………」

 

 遠ざかっていくその光を、出久はただ、USJの入り口でへたり込んだまま見送ることしかできなかった。 

 

 遠く。

 遠くへ。

 赤色灯が瞬くたびに。

 遠くへと、離れていく──。

 

 やがてその音も、USJを覆う風の音に溶けて消え、後には重苦しいあまりのも冷たい静寂だけが残された。

 

 静寂だけが残された。両腕を折られ顔面を潰されかけた相澤も。背中を黒霧の個性によって自身の個性で裂傷した13号も。脳無と激闘を繰り広げたオールマイトも。このUSJにはもういない。

 いるのは現着し、残るエリアでまだヴィランと交戦しているクラスメイトを救援しに行ったプロヒーローと、気絶したヴィランを護送する警察官。

 そして、自分たち。

 

「……あ、ぁ……」

 

 出久はへたり込んだまま、もう離れて見えない救急車から目を伏せて両手を見下ろした。

 震えは止まらない。止まるはずもない。

 右手には、空気を押し出すスマッシュの代償で赤黒く腫れ上がった親指と中指。そして、それを動かさないように、苦し紛れに肘のプロテクターを纏った手。

 

「……っ……、く」

 

 この手、いや両手には、べっとりとこびりついているもの、一条の命の色があった。

 鉄の匂いが、鼻から喉元、ひいては気管まで侵し、肺をめぐって体に巡っとさえ思えてくる。洗っても、洗っても、擦っても、うがいして口をゆすいでも噛んでも、これは──一生消えない。

 記憶が、過去が、決して感触を脳裏からこびりついて離さない。

 

「大丈夫かい、君! 怪我をしているのなら、見せてくれ!」

 

「────ぇ」

 

 不意に、駆け寄ってきた救急隊員の声で、出久はハッと顔を上げた。

 そこには、隊員が右手を手に取り、覆った布を取り払う光景が。実に手際のいい処置で、添え木を当てて固定していった。

 

「指の骨折だね。ひとまずこれで固定できたから、後でリカバリーガールに診てもらいなさい。……よく頑張った」

 

「────、……。…………ありがとう、ございます」

 

 救急隊員のねぎらいの言葉に、出久は掠れきった声で返すことしかできなかった。

 よく頑張った、とは名ばかりで、自分は何もできていない。だってそうだろう。

 目の前で、一条が化け物に貪られそうになるのを、体を張って戦っていた先生たちが倒れるのを、ただ足が張り付いてみていることしかできなかったのだから。

 

 ──何も、できなかったじゃないか……。

 

 重い頭はそれでも思考を回し続ける。けれど、出てくるのはどれも、まるで脳無のという怪物の下で駄々をこねるように手を叩き続ける自分の姿。取られたくないお菓子を必死に取られまいとするような、そんな子供。

 自分という存在が、スケールダウンしていくのを感じる。

 

「…………」

 

 出久は、瞳を重く横へとずらして周囲を見やった。

 回転灯がくるくると無機質にUSJの入り口にいるものを照らし続け、光の波が通り過ぎるたびに、昼間にも関わらず闇に浮かび上がるようにクラスメイトたちの姿がある。

 誰一人として、出久の知る活気あふれる顔をしてはいなかった。

 

「…………っ、お、俺……っ、うまく塞げてたかな……。星野の腹、あんな──」

 

 少し離れた場所で、瀬呂が地面に腰を下ろしてへたり込んだまま、己の両腕をさすり震えた。

 当然だ。瀬呂は一条の裂かれた腹を間近で見ながら、死に物狂いで無理やり巻き塞いだのだ。その両手は血には塗れてはいない。だが、巻き付けるテープ越しに、一条の『モノ』ではない、『本物の人間』の柔らかさが伝わったのだ。

 

 その隣では、芦戸が血の気をなくしながらもセロの背中を摩っていたが、彼女自身の目からもボロボロと涙が溢れ、止まる気配がない。

 

「……あいつが、星野が……あんな風になるなんて。俺が、間に合えばまだ……ッ」

 

 別の方では切島が拳を強く握り締め、地面を睨んだ。いや、睨んだ先にあるのは地面ではない。地面に落ちる自分の形をした影だ。

 出久は、実技入試で切島が一条とナナと共に戦ったというのを耳にしたのを確かに覚えている。

 だからこそ、一緒に戦ったからこそ、たどり着くのに遅れて守れなかったという苛立ちが、切島の背中から伝わってくる。

 

「……、────」

 

 壁にもたれず、地面に屈むのは轟だ。地面を見下ろし、腕を膝にかけて深い吐息を吐く彼の瞳には何が映るのかこちらでは定かではない。

 普段の静けさと違うのは、焦燥と底知れない現実を咀嚼しきれていないような、冷たい影が彼の顔を掛けた。

 

 そして、爆豪。

 いつもなら、真っ先に怒鳴り声をあげ、誰彼構わず傍若無人を体現して噛み付くはずの爆豪は、今はひどく、恐ろしい程に静けさを纏う。しかし、彼の内側にたぎるものはまだ、燃え尽きてなんていない。

 未だ爆豪の両手に宿る力は健在だ。消化不良か、はたまたやるせなさか。

 わからないが、爆豪の両手は小さくパチパチと火花を散らし、瞳は一点を見つめていた。

 

「──ッ」

 

 『逃げるな』とでも言うように、救急車が去っていった道路の向こうを射殺さんばかりに。

 

「…………」

 

「緑谷ちゃん……」

 

 不意に、肩に手を置かれた。

 その声に出久が反射のように振り向けば、そこには抑えようもない動揺で震える真ん丸の瞳があった。

 

「梅雨ちゃん……」

 

「ケロ……」

 

 隣にしゃがみ込んだ蛙吹が、そっと出久の肩に手を置いていた。

 ひどく冷たい手だった。湖に浸かっていたせいでもあるだろうが、恐怖がその大半を占めて、出久の肩に乗っていた。

 それが、凍えたように震える出久の精神をほんの少しでも支える礎にはなった。

 

「星野ちゃん……きっとなんとかなるはずよ……。リカバリーガールも、医療チームもついてるんだから。…………それに、……それにあの子は、あんなにも強かったもの」

 

「────。……どう、だろう…………」

 

 出久は、蛙吹の希望観測に素直に飲み込むことができず、首を力無く左右に振ってしまう。

 なぜなら、出久は知っているからだ。その頭の中の記憶に、刻まれているのだ。

 

『度重なる手術と後遺症で、憔悴してしまってね────』

 

 誰よりも限界などないように振る舞っていた人が明かした、限界(・・)。他の誰でもない、平和の象徴が、限界があると言った。

 どんなに超人であれど、その身には常に器という限界が伴ってくる。

 なら、

 

 ──星野さんにだって……。

 

 あるのだ。

 胃なら、まだなんとかなるだろう。だってオールマイトは血反吐を吐きながらも、今もなお立ち続けているのだから。けれど、一条は違う。

 

「腸がないと、いくら食べても体に栄養が渡らなくて……結局だめなんだ……」

 

「────」

 

 知っているだろうか。

 腸。特に小腸は、食べ物から栄養や水分を補給する人体最大(・・)の器官なのだ。これを、一条は自分で切り捨ててしまった。欠損して欠損してしまったときに起こりうること。

 

「自分で栄養吸収ができないから……だから星野さん、たとえ生きてても……っ、免疫の大半を占めてる腸がないと、病気にかかりやすくなるんだよ……っ」

 

「ケロ…………」

 

 はっきり言えば、蛙吹のそれは希望的観測に過ぎないのだ。

 出久は知っている。平和の象徴であっても、体内の欠損を気力でカバーすることなんてできない。できるとしても、それは時間制限付きだ。

 

 しかしだ。形さえあれば、腸を清潔にして縫い合わせることなんてできる。なぜなら、この世の中には“個性”で溢れている。

 

 けれど、その腸はもうない。

 

 ──化け物が、食べたから……。

 

 今ごろは、あの化け物の胃の中にある。細切れに、執念深く噛み砕かれて。

 だから、

 

「だからっ……だから星野さんは……っ」

 

 回復は困難。それどころか、もうダメかもしれないのだ。そもそも、あんなに血を流して、タダで済むとは思えないから。ものの数分、あるいは数時間で尽きる可能性すらある。

 むしろ奇跡と言ってもいい。一条の鼓動が絶えず刻まれているのは。

 

 だが先にあるのは、たとえ生還しても管で繋がれて機械を背負い、口から美味しいものを味わうという生物としての喜びを失うという、人生の色の損失だ。

 

「……っ、星野さんは……」

 

 一条を信じたくないわけじゃない。そんなことを思うはずもない。だが、信じさせてはくれないほど、事実というのは重くのしかかり、現実を無慈悲に突きつけてくる。

 

 そのときだ。

 

「すまない──ッ!!」 

 

 絞られた喉を無理やり張り上げ、痛々しい叫びが、この空気を切り裂いた。

 その声の主は──、

 

「俺が……俺がもっと早く、先生方を呼んできていれば……ッ!!」

 

 アスファルトに指を、爪を立てて、崩れ落ちるように膝をつく、飯田天哉だった。

 コスチュームの装甲は土埃に塗れ、ふくらはぎの排気筒からはまだ熱気が立ち上る。飯田もまた限界を挑み、そしてUSJから校舎へ走り抜き、ヒーローたちを引き連れてここへ戻ってきたのだ。

 『今』の自分にできる、クラスを救うための、委員長として、自分として、責任を全うしようと。

 

 だが、今や飯田の顔を覆うものは達成感でも、ましてや嬉しみでもない。ヘルメットを脱ぎ捨てた素顔にあるのは、

 

「ッ……く、ぅッ……!」

 

 後悔と、自責の念だ。

 ぐしゃぐしゃに歪め、下唇を噛み締めて、飯田が顔を上げた。

 

「俺が走っている間に……先生方が、星野くんが……っ! あんなにも無惨に傷ついて……ッ、それなのに俺は! 俺は、ヒーローを引き連れッ、ようやく! この禍根に終止符が打てると、そう思っていたッ!」

 

 声を震え、飯田が地面に置いた手を握りしめた。力がかかり、震える手をキツく。

 

 彼が連れてきたプロヒーローたち──プレゼント・マイク、スナイプ、セメントスといった雄英教師陣は、今もなお残党のヴィランを制圧し、エリアに残されたクラスメイトを救うため動いている。

 飯田が知らせてくれて、彼らが間に合ったからこそ、これ以上の被害は食い止められた。それは紛れもない事実だ。誰が言おうと、その事実だけは揺らがない。

 けれど、揺らがない事実だってときに刃物にもなりうるのだ。

 

 飯田の目は、見た。皆が懸命に救命処置を施す、その中心にいた星野を。正気の無い、瞳を開けたまま、血に塗れた一条を。

 

「これで大丈夫だと思った、そんな迂闊なことを宣った安易な心を殴りたい……ッ。ふざけるのも大概にしろ……っ」

 

「飯田くん……」

 

 出久は、震える声で彼を呼ぶことしかできなかった。

 責めるわけがない。誰も責められるわけがない。だって飯田が走らなければ、それこそ全員がここで全滅していたのだ。飯田のおかげで、命が繋がった。

 だが、言えるか。『君のおかげで助かった』と、簡単に紡ぐことができるか。いいや、あまりにも失われたものが大きすぎた。大きすぎて、その言葉がただの空虚な慰めにしかならないことを、出久自身がわかっていた。

 

 わかっているからこそ、それが自分にも言われている気がして、出久は口を強張らせてしまう。

 もっと訓練できる時間だって、ここに至る前にもあったはずなのに。それを怠った。

 オールマイトから受け継がれた──いや、オールマイトだけではない。この力には、少しでも世界が良くなるために奔走した先代たちの祈りがある。それなのに、この体たらく。

 

 ──僕は……っ

 

「俺は……ッ」

 

 失格だ。

 それが、飯田の声と声が重なる。

 そのはずだった。

 

「やめろ。……自分を責めるな、飯田」

 

 不意に、重く低い声が落ちた。

 見れば、そこにいたのは今までマスクの中で口を閉ざして拳を握っていた障子が、ゆっくりと歩いてきた。

 その瞳には、諦観に似ても似つかない色を宿らせる。

 

「俺たちはヒーローの卵だ。……だが、今日起きたことは……卵の俺らには荷が重すぎた」

 

「障子くん……だが、しかしッ、それで星野くんが──」

 

「それでもッ」

 

 謝罪に謝罪を重ね、自分の膝を地に離れがたいものにしていく飯田を、障子が声をあげて──止めさせた。

 その声に、皆の沈みきって伏せていた顔を上げさせるまでにも至った。

 

「それでも、お前は走った。その足で、恐怖を振り切って外へ出た。プロを連れてきた。それが俺たちの命をどれだけ繋いでくれたか……。星野もあの中で戦ったんだ。なら、俺たちはどうだ。なあ、おまえら!」

 

「「「────」」」

 

「この中で、やれることがあったのに、ただヴィランの闇に指を咥え、流されるままだった者はいるか! 今に至るまで、妥協して逃げた者はいるか! もし、もしいるなら……俺は──恥に思う」

 

 その言葉に、皆が冷や水にでも当てられたかのように動けなくなった。皆、一条の身に何が起こっているのか分からず、自分に手一杯だった。

 もっとこうしていれば良かったのではないか。もっと訓練をして、使い方を学べばこんなことにはならなかったのでは──

 

「でも、違うだろう? 俺たちは、手一杯でも、あのときやれることを尽くして、やったんだ。その過去は、結果がどうであれ絶対に消えたりはしない」

 

 一度、障子は言葉を切り息を保ち、複製腕で自らの腕を強く掴んだ。ギリギリと強く掴むわけでも、ましてや落ち着かせるようにするのでもない。ただ、掴んだ。

 

「自分の器を超えたことをすることはできない。──飯田、お前は走っているとき、その足を少しでも緩ませたか。少しでも、心に弛みを生ませたか」

 

「────。……、いいや──ッ」

 

「ならば、飯田は尽くてやれることをやってのけた。今過ぎたことを考えても……俺たちの腕はもう届かない。過去を変えるなんて“個性”なんて、俺たちは持っていない」

 

 障子の声は、どこまでも低く、揺るがない。

 

「待つんだ、報せを。それが吉報でも、あるいは最悪の訃報でも。何が来るかは、そのときでなければ分からない。……けれどな」

 

 声が震える。障子が、始めてわずかに声を震わせて、蒼空を仰いだ。

 

「尽くしてもなお、己を責めるのは……それは、俺たちが生き残るために命を賭して戦った、星野への冒涜だ。俺たちにできるのは、後悔に溺れることじゃない。ただ──信じること。それだけだ」

 

「信、じる……」

 

 出久が、掠れた声でその言葉を繰り返した。

 誰もがUSJの件を、一条の容体を皆が動揺する中、障子は不安を押し殺して落ち着いた声音で紡いだのだ。

 根拠なんて、どこにもない。医学的な知識は今もなお出久の頭の中で『無理だ』と警鐘を鳴らしている。

 けれど、障子の言葉が。

 

「星野が、またここに戻ってくるんだと」

 

 凍りついた出久たちの凍りついた心臓を、無理やり一度跳ねさせた。

 『信じる』。

 その言葉に──理由はいらない。根拠なんてない、けど。

 

『誰に負けるのは、どうでもいい。けど、今にだけは、負けられない──ッ』

 

「──ッ」

 

 そうだ。

 

 震える両手を、出久は強く握りしめる。こびりついた血の匂いはまだ消えてなどいない。

 けれど、譲れないものがある。嘘がつけないことがあった。

 

 ──僕は、星野さんを信じるよ……っ。

 

 信じれる自分を、信じること。

 それでも一条なら帰ってきて、また戻ってきてくれることを、

 

「──信じるよ」

 

 気づけば、口が勝手に音として響かせていた。

 

「私も、一条ちゃんを信じるわ」

 

 すると、蛙吹が、

 

「俺も信じるぜ……ッ」

 

 切島が、立つ。

 

 立ち上がるものが、現れた。

 

「ああ……星野はあれでやられるやつじゃねえ」

 

「そうだよっ……! 星野ちゃん、あんなに強かったんだから……っ」

 

 轟、芦戸──。

 

「はは……っ、なんだよそれ。けど、そうだな信じるよ俺。だってあんな大砲軽々と持ち上げるんだぜ?」

 

「そしたら、案外ケロッと帰ってくるかもな!」

 

「なんだよそれっ。でもそうだといいな。いや、そうなる……──きっと」

 

 瀬呂も佐藤も──。

 

「星野ちゃんなら、きっと戻ってくる」

 

 麗日も──。

 

「あんな程度でくたばりやがったら……、俺がこの手で爆破してブッ殺してやるわッ」

 

 爆豪も──。

 

「な、なんかわかんねえけど、オイラも乗ったぜ!!」

 

 今起きた峰田も。

 みんなが、

 

「俺も信じよう……星野くんを──ッ!」

 

 飯田が、この場にいる仲間が、一言を皮切りにして立ち上がった。

 小さな、けれど確かな熱が伝播していた。

 

 これは、なんの根拠もない『信じ』だ。そこに諦観はなく、あるのはただ理由はなく、また理由も必要ない。

 ただ、『信じる』。

 それだけで、皆も、自分も、前に向かって進むことができる。進むことができるのだ。

 

「「「────」」」

 

 暗闇はなく、代わりにやってくるのは、今まで気にもしてなかった風の音だった。

 

 

 誰が言い出すでもなく、僕は顔を上げた。

 視界を埋め尽くしたのは、抜けるような、どこまでも行けそうな蒼穹の空。

 いつも見ていたはずの、空の下。その空が、今ではとてつもなく広がって見えた──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 だが、あの日の僕たちは知らなかった。

 休校明けの、心臓が締め付けられそうなその日。

 1−A教室の教壇の存在に

 

「ん…………みんな、おはよう」

 

 ──僕たちの覚悟も。

 

 ──流した涙も。

 

 ──一生消えないと思った、あの鉄の匂いも。

 

 全部、ミイラのようにぐるぐると包帯を巻かれた相澤の隣。『おはよう』といつもと変わらない眠たげな声に、拍子抜けするほどあっけなく塗り替えられてしまったんだ。

 

「「「「え、ええええええええええ──ッッ!?!?!?!?!?」」」」

 

「…………。……みんな元気だね」

 

 包帯でぐるぐる巻きになった、一条の姿に──。

 

 ──星野さん、よかった……!! けど、これって一体どういうことなの──っ!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

   ── 街外れ 廃倉庫 ──

 

 埃と、古びた機械油の匂いが立ち込めるその空間に、重苦しい呼吸の音だけが断続的に響いていた。

 

「はっ、……ぁ、がっ…………」

 

 コンクリートの壁に背を預け、ずるずると崩れ落ちているのは──ミーだ。

 かつて『使者』として、不遜な笑みを浮かべていた面影は、今や見る影もない。その顔にはただ必死に息をするという、余儀もない行為の苦痛に顔が歪められる。

 

 胸元から腹部にかけて、一条によって刻まれた、あまりに深く、凄惨な一筋の斬撃。そこからは、紫に発光する糸が伸び、じわじわとだが血に混じって修復を始める。だが、絶え間のない赤の方がミーの温度を冷たいものにして、このままでは動けなくなるだろう。

 

「あ、の……ガキ……ッ。次は……っ、次、は……必ず……ッ」

 

 震える手が傷口を抑える。傷口は大きすぎて、ほとんど押さえつけることもできず血が続々と流れ落ちていった。

 次第に苦しげの呼吸が小さくなっていき、ミーの瞳は虚空を睨みつける。

 

「──あの炎」

 

 一条が見せた『青い炎』。あの底知れない輝き。

 あれは、確かに自分の中に渦巻くモノと同じものだ。あれがホワイトで、あれが真の姿。

 その事実が、

 

「チッ──」

 

 明確に自分を失敗作と称されるみたいで、腹が煮え繰り返る。

 屈辱が、彼女の心臓を叩いて、無理やりその体を立たせようとした。

 

 が──。

 

「──ここにいたのかい? ミー」

 

 不意に、静寂を切り裂いて、哀れみと慈愛の織り混ざったような声が落ちた。

 その声に、ミーは聞き覚えがある。ありすぎる。

 

「……ッ、総督……!?」

 

 目を横に走らせると、そこには周囲の穢れなど一切寄せ付けない、周りを捌ける純白の衣装を纏う少女。その少女──『総督』と呼ばれる少女が、左右から伸びる白く長い髪を揺らしながら悠々と歩き近づいていた。

 この薄暗い倉庫から漏れて入ってくる陽光を背負い、微笑むその姿は、あまりにも神聖で、異質。

 

「総督……。……申し訳、ありま……せん。……あいつが……ホワイトが……」

 

「ああ、知っているとも。あの子は、自分の『色』を見つけることができた。ホワイト……だが、これは扉が開いた先で、ようやく一歩踏み出したにすぎない」

 

 総督は、まるで愛し子を慈しむような面持ちで口角を上げると、ミーの前に立つ。

 見下ろされる。けれど、総督に見下ろされるのだけは、なぜだか心が落ち着くような気がしてならない。

 分けてくれたからだろうか。いや、違う。

 

 ──あの日から、総督の目は変わらない。

 

 ──私を迎えてくれたあなたは、あなたのまま……。

 

 相も変わらず、彼女の紅い瞳は見守るようだ。それが一条というホワイトに向けられるのは癪に障るが、今自分に当てられているという事実だけで、何もかもどうでも良かった。

 

「あの子は、ホワイトは、私の期待通りに実ってくれる。その一役を買ってくれたのは、ミー──君のおかげだ。ありがとう」

 

 総督の声。同じような境遇の仲間、いや同族の声を耳に入れても、下民が下民同士の声をなんとも思わないように聞こえるようでいても、この総督の声は違った。

 いや、同族の中でも、一人だけ聞いてあげていい存在が一人いたが。

 

 ──別に、いいわ……。

 

 おだやかでありながら、芯の揺らがない純粋な、自分を賞賛(・・)してくれる声。その響きに、ミーの瞳に穏やかな高揚が宿った。

 

「……ありがとう、ございます。総督……っ」

 

 今なら、一人でも立ち上がれる。

 総督の手を煩わせることも、その純白さにシミをつけることすら烏滸がましい。

 だから、ミーは崩れそうな体を持ち上げて立ち上がり、総督の横を過ぎた。すると一瞬──、

 

「────」

 

 総督の瞳が冷たいものになるが、ミーは気にも留めず歩き、横を過ぎて、

 

「あいつ。ホワイトは、また私が──」

 

「いや?」

 

 振り返ろうとした。刹那──

 

「────。ぇ」

 

 衝撃が背中から貫かれて、倒れかけ──倒れない。

 まるで、釣られたように支えられているように。

 

 見てはいけない、と頭が叫んでいる。だが、ミーはその警鐘すら聞こえないほどに頭が真っ白になっていて、下を見た(・・・・)

 

 体から、胸から、白い切先が生えていた──。

 

「…………ごぽっ」

 

 その事実に気づいた瞬間、這い上がってくる異物感に咳き込んだ。しかし出てきたのは、空気ではなく粘ついた血液で、口元を濡らす。

 胸から、ある体の中に送り出すポンプを一直線に貫く白い物体。その根本からは、勢いを失った赤い汁が滴り落ちて、足元を濡らす。

 一体誰が。いや、知っている。

 

「ぁ……がっ、……総、督?」

 

 体が振り向けない中、首を回し、目を後ろに向けた先には、

 

「──砦の役割は、超えられないことにある」

 

 総督が、いた。

 

「どう、して……っ」

 

「どうして……? 君が言うかい? ミー、一度超えられた砦というのは、振り返って見下ろすだけの光景でしかなくなるんだ」

 

「ぁっ……!?」

 

 白剣によって貫かれ、総督の手によってミーは最も簡単に浮かされて、足が地面から離れていく。

 

 先とは違う、感情の起伏すら感じさせない、平坦な声。まるでミーを血の通った生き物から、物へと格下げするような声音へと落ちたようだった。

 だが、貫かれた一点が体重によって重くのしかかり、理解が及ばないまま痛みに脳を焼き尽くされる。

 

 そのまま──、

 

「リリ、お…………」

 

 最後に脳裏によぎった男の名を口にして、ミーの瞳は閉じられる。

 体の熱は消え、ミーは物言わぬ存在へと変貌。総督の持つ剣によって宙吊りになるまま、その目は開かれることはなかった。

 二度と──。

 

「あとは私たちに任せて、君はゆっくりと眠るといい。お疲れ様──ミー」

 

 瞬間、貫かれた部位を起点にしてミーの体にノイズが走り始め、次第に体を覆い尽くしていく。

 ミーの体は見る影もなく、直後としてバラバラに跡形もなく分解──光の粒子と化し、

 

「ふぅ……」

 

 全て、総督の体へと吸い込まれていった──。

 後に残ったものは、何もない。白い切先を汚す血液はない。ここにミーがいたという痕跡も、もうなかった。

 あるのは、白剣を消失させて右腕に収め、そっと息を落とす総督の姿だけ。

 

「…………。そうか、君の味は……こういうものか」

 

 一つ、言葉を落とすと、総督はそれっきり振り返ることもなく、明るい方へと歩き出した。

 何もなかった。ここで食事が執り行われたことは、一人しか知らない。廃倉庫に人格でもあれば、証拠は残るのだろうが。

 

 総督は歩き進めていく。そして、ただ溶け込むように陽の光と一つになるように歩いていって、

 

 

 

 

 

 

 

 

 廃倉庫はようやく元の平穏を取り戻した──。

 

 

 

 

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