なのに、“妹”は戻ってきた。
「お腹空いた」
そう言って、妹は僕の手を握る。
だが、その言葉も、その仕草も、兄の知る妹ではなかった。
お腹が鳴った。
ぐぅ、と嫌な音がした。
僕の隣にいるニーナも、自分のお腹をさすっている。
「にぃちゃん、お腹空いた」
ニーナの声は小さい。
今にも消えそうだった。
僕の手を握っている力も弱くて、少し手をゆるめたら、すぐ離れてしまいそうだった。
お腹が空いたから、村近くの森に来た。
今は木苺が沢山実るから、少しはお腹が膨れるかなって。
でも、木苺の木には、ほとんど実が残ってなかった。
「……あっちの、もっと奥に行こう」
僕は、ニーナの手を引いた。
パパやママ、村の大人が
『入ったらいけない』って言ってた、森の奥へ。
でも、どうしてダメなのかは、誰も教えてくれなかった。
森の奥は、空が見えなくて怖かった。
知らない鳥の声や、草の擦れる音がする。
ニーナの手が、少しだけ強く握ってきた。
もう帰ろうかと思った時、少しだけ開けた場所があった。
暗い森の中に光が落ちて、キラキラしていた。
「わぁ……!」
そこだけ明るかった。
怖くなかった。
そして、真っ赤に熟れた大きな木苺が、たくさんなっていた。
「にぃちゃん、見て!」
ニーナが声を弾ませた。
亜麻色のふわふわした髪がキラキラしている。
大きな茶色の瞳も輝かせて、凄く嬉しそう。
そんな妹に僕も笑って、温かくて、柔らかい手を離した。
一粒取って口に入れた。
甘酸っぱい汁が、口いっぱいに広がる。
おいしい。
口の中が、あまい。
もっと食べたい。
夢中で木苺に手を伸ばしていて――気づくと、ニーナの姿がなかった。
「ニーナ?」
返事は、ない。
鳥の声も聞こえない。
森も、しんとしている。
胸の奥が、ひやりとした。
さっきまで、すぐそばにいたはずなのに。
僕はひとりぼっちになっていた。
怖い。
早くニーナを見つけて、帰らないと。
気づいたら、手に汗をかいていた。
「ニーナ? ニーナどこ?」
静かな森の中で、僕の声だけが木霊する。
耳をすませると、森の奥から何かの音がした。
ぐちゃ、と何かを潰すような音。
ぬちゃ、と湿った音もする。
思わず足を止めた。
それから、変な匂いに気づいた。
鉄みたいな、変な匂い。
生臭い、嫌な臭い。
僕は思わず、腕で鼻を押さえていた。
胸の奥がざわざわする。
ここにいたらダメな気がする。
行っちゃダメな気がする。
なのに――
その音がする方へ。
匂いのする方へ。
足が、止まらなかった。
茂みの先に、それはいた。
黒くて、大きな獣がいた。
それはパパよりもずっと大きくて、汚れた太い毛で覆われていた。
腕は地面につくくらい長い。
その大きな背中の下から、さっきの音が聞こえる。
ぐちゃ。
ぬちゃ。
そんな音。
何かを、食べている。
足元に、見覚えのある
さっき食べた木苺よりも、ずっと濃くて、どろどろした、赤。
そこに、ニーナの靴が片方だけ転がっていた。
ニーナが大事にしていた、黄色い花の刺繍がついた靴。
ニーナが、そこにいた。
ニーナは動かない。
ニーナは……食べられてる。
大きな化け物に、妹が食べられていた。
「……」
声が出なかった。
声が、出なくてよかった。
出したら、次は僕だから。
ニーナを食べ終えた大きな化け物。
どこかに行くと思ったのに、それはゆっくりと小さくなり始めた。
嫌な音がする。
パキパキ、メキメキ。
固い木の枝を折るような音。
腕や足の黒い毛がはらはらと落ちて、その下から白い肌が見えてくる。
長かった腕が、みるみるうちに短くなっていく。
黒くて太い毛は、ニーナが来ていた服に。
最後に、頭のてっぺんから、ニーナと同じふわふわの長い亜麻色の毛が生えてきた。
ニーナだ……違う。
ニーナなのに、違う。
背中しか見えないけど、ニーナにしか見えない。
でも、違う。
あんなの、僕の妹じゃない。
早く逃げなきゃ。
叫びたいのに、喉がひりひりして熱い。
目を背けたいのに、ニーナになった化け物から目が離せなかった。
いつでも逃げられるように。
目を、離せなかった。
偽物の妹が、ゆっくりとこっちを振り返った。
顔は、ニーナだった。
でも、ニーナじゃなかった。
表情が、ない。
茶色い瞳は、瞬きをしない。
じっと僕を見ていたニーナは、僕のそばに近寄ってきた。
喰われる。
「にぃ、ちゃん」
ニーナの声だった。
さっきまで一緒に木苺を食べていた、大好きな妹の声。
「お腹、空いたぁ」
ぱっくりと開いた口の隙間に、さっきの
「……うん、おうちに、帰ろうか」
気づいていない。
化け物がニーナを食べていたのも、ニーナになる所も。
僕が全部見ていたことに、気づいていない。
だから、僕も、気づかないフリをした。
妹じゃないって、気づいていないフリをした。
そしたら、僕もニーナみたいに食べられないって。
妹の手は少し冷たかった。
握る力が強くて、痛かった。
僕は来た時と同じように、二人で村へ歩き出した。
パパとママが待っている、温かいお家へ。
あそこなら、きっと大丈夫だ。
食べるものは、たくさんある。
だって――そうしないと。
次に食べられるのは、僕なんだから。
【終わり】
最後まで読んで下さってありがとうございます。
本当は長編作品にして、しっかりラストも考えていましたが、技術力不足のため、短編となりました(1話だけでも後味の悪い、綺麗な終わり方?にできた気がします)。
いつか長編作品も書いてみたい所存。