僕のヒーローアカデミア Gentle step lovers 作:まだら模様
沈黙は、思ったより長く続いた。
姉は俺の顔をじっと見ていた。値踏みするわけでも、呆れるわけでもなく、ただ真剣に、俺の言葉の重さを測るように。
俺も黙って待った。
ここで焦って言葉を重ねるのは悪手だと分かっていた。姉は感情で動く人間だが、馬鹿じゃない。十一歳の弟が突然「ヴィランに会いに行きたい」と言い出したのだ。どれだけ真剣な顔をしていても、簡単に頷ける話じゃない。
「……しんちゃん」
姉がようやく口を開いた。
「ジェントルクリミナルのこと、どこで知ったの」
「YouTube」
即答した。嘘じゃない。前世の記憶の話は、さすがにできないから。
「見てたの? あの動画」
「ずっと」
姉の眉が、かすかに動いた。
「俺だけじゃないよ」と俺は続けた。「姉さんも見てたでしょ」
今度の沈黙は短かった。
「……見てた」
小さな声だった。認めたくなかったのかもしれない。好きなヴィランがいますなんて、普通は言えない。
「好きなんでしょ、ジェントルさんのこと」
「そんな——」
「俺も好きだよ」
姉の言葉を遮って、俺は言った。
「かっこいいと思う。個性も、喋り方も、諦めないところも。あんな人、他にいない」
姉はしばらく黙っていた。それから、困ったように笑った。
「変な弟だね、しんちゃんは」
「姉さんの弟だから」
笑いが、少し深くなった。
その夜、俺たちはリビングのソファに並んで座って、ジェントルクリミナルの動画を最初から全部見直した。
再生数はそれほど多くなかった。世間的にはまだ「ちょっと変なヴィラン」程度の認知で、ヒーロー事務所も本腰を入れて追っていない段階だ。コメント欄は半分が野次で、半分が苦笑いで、ジェントルさんの紳士的な立ち振る舞いを真面目に受け取っている人間はほとんどいなかった。
でも俺には分かる。
動画の端々に滲み出る、本物の痛みが。
夢を諦めた人間の、それでも諦めきれない人間の、叫びが。
「……この人」
姉が呟いた。画面の中でジェントルさんが高らかに笑いながら弾力個性を使っている場面だった。
「笑ってるけど、目が笑ってない」
俺は姉の横顔を見た。
さすがだと思った。姉の個性は声と音に関係したものだが、人の感情を読む力は個性とは別のところにある。ラブラバとして戦うためではなく、ただ生きてきた中で磨かれた、姉自身の力だ。
「そうだよ」と俺は言った。「だから放っておけない」
姉は画面から目を離さなかった。
「会いに行って、どうするつもり」
「説得する」
「何を」
「ヒーローになってほしいって」
姉がようやく俺の方を向いた。呆れているのかと思ったが、違った。その目には、俺が予想していなかったものが宿っていた。
真剣さだ。
「……勝算はあるの」
「ある」
嘘じゃない。原作知識という反則級のアドバンテージがある。ジェントルさんが何に傷ついて、何を求めていて、何を言えば届くか——全部知っている。
でも、それだけじゃない。
「俺の個性、見せたことなかったよね」
俺は右手を持ち上げて、手のひらから薄い膜を展開した。透明に近い弾性の膜が、蛍光灯の光を受けてかすかに光った。
「弾膜って言う。膜を出して、飛ばして、固定できる」
姉は目を細めた。
「ジェントルさんの個性と合わせれば」と俺は続けた。「ジェントルさんの届かない場所に、弾力のポイントを作れる。姉さんの個性も合わされば——三人で、どんな穴も埋められる」
「私の個性も、計算に入ってるの」
「最初から」
また沈黙が来た。
今度は短かった。
「……しんちゃん」
「うん」
「あなた、本当に変な子だね」
「姉さんの弟だから」、
二度目の同じ返しに、姉は今度こそ声を出して笑った。少し呆れたような、でも嬉しそうな笑い方だった。
問題は居場所だった。
ジェントルクリミナルはYouTubeに動画を投稿しているが、個人情報は一切出していない。活動拠点も不明で、ヒーロー事務所でさえ把握できていない段階だ。
ただ、動画には手がかりがあった。
背景に映り込む景色。使っている備品の種類。動画の投稿時間帯のパターン。前世で散々見込んだ記憶と、この世界で改めて見直した分析を合わせれば——絞り込むことはできる。
「この動画の三十二秒あたり、窓の外」
俺はタブレットを姉に向けた。
「電柱の配置と、遠くに見えるビルの形。それとこっちの動画の背景と合わせると、活動拠点はたぶんこのあたりの区域に絞れる」
姉は画面を食い入るように見た。
「……本当だ。気づかなかった」
「あとは足で探すしかないけど」
「子供二人で?」
「姉さんは来年十八だから子供じゃない」
「しんちゃんは十一でしょうが」
正論だった。
「……一緒に来てくれる?」と俺は言った。「俺一人じゃ、さすがに限界がある」
姉はため息をついた。長い、深いため息だった。
でも、その顔は笑っていた。
「行くよ」
静かな声だった。でも、迷いはなかった。
「ジェントルクリミナルに、会いに行く。しんちゃんと一緒に」
俺は息を吐いた。ずっと張っていた何かが、すとんと落ちた気がした。
「ありがとう、姉さん」
「お礼はまだ早い」と姉は言った。「会えたとして、あの人が話を聞いてくれるとは限らないよ」
「聞かせる」
「根拠は」
「俺たちが本気だから」
姉はしばらく俺の顔を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「——分かった。信じる」
窓の外は夜だった。街の灯りが遠く広がって、どこかにジェントルさんがいる。まだ夢の残骸を抱えて、誰にも届かない場所で叫んでいる。
でも、もうすぐ届く。
俺たちが、届かせに行く。