神鳥フリーザーが去ったあとの街は、
まるで硝子の破片をぶちまけたような、鋭利で静かなパニックに包まれていた。
朝日が昇り始めると、凍りついた建物の表面が鈍く光り、
あちこちで「お湯を持ってこい!」「ここにも閉じ込められている人がいるぞ!」という
怒号と、氷を砕く鈍い音が響き渡る。
水君は、その喧騒の中を幽霊のようにトボトボと歩いていた。
カメックスとの死闘、フリーザーの涙。
あまりにも巨大な運命の奔流に身を置き、彼女の心は摩耗しきっていた。
腫れ上がった頬の痛みすら、もはや遠い世界の出来事のように感じる。
だが、家路を急ぐ彼女の脳裏に、ふと最悪の光景がよぎった。
「(お母さん……!)」
フリーザーの無差別な襲撃は、この街の多くの民家を無残に破壊していた。
もし、自分の家が、あの部屋が、氷の牙に貫かれていたら。
心臓が警鐘を鳴らし、足が勝手に動き出す。水君はなりふり構わず走り出した。
肺が冷たい空気を吸い込んで悲鳴を上げるが、止まることはできない。
玄関の戸を乱暴に開け、靴を脱ぎ捨てて廊下を駆け抜ける。
「お母さん!お母さん!!」
二階へ駆け上がり、祈るような心地で寝室のドアを突き破るように開けた。
「……お母さん?」
そこには、静寂だけがあった。
整えられたベッドの上に、本来いるはずの母親の姿はない。
枕元に置いてあったお粥の器だけが、虚しく主の不在を告げている。
冷たい汗が背中を伝う。連れ去られたのか? それとも――。
その時、一階で電話のベルが鋭く鳴り響いた。
水君は階段を転げ落ちるように下り、廊下の受話器をひったくった。
「ハ、ハイもしもし!?青川です!」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、地元の総合病院の看護師の声だった。
「……え? 病院……?今、すぐ行きます!!」
病院の廊下は、魔獣の襲撃による負傷者で溢れかえっていた。
「お母さん、お母さん、お母さん……!」
水君は呪文のように母の名を唱えながら、教えられた病室のドアを押し開けた。
そこには、ベッドに腰掛ける母と、その隣で椅子に座り、
右腕に痛々しいほど厚い包帯を巻いた父親の姿があった。
「水君……」
母が弱々しく、だが安堵したような笑みを浮かべる。
「お……お母さん!大丈夫なの!?何があったの、一体……!」
「私は大丈夫よ。……怪我をしたのは、お父さんだから」
水君の視線が父へと向く。
あの傲慢で、暴力的だった男は、今は見る影もなく肩を落とし、
濁った瞳を床に落としたまま一言も発さない。
母の口から語られた事実は、あまりにも情けなく、そして皮肉なものだった。
父は奪った結婚指輪を手にヤクザの博打場へ向かったが、
些細な口論から「イカサマ」を疑われ、奥の部屋へ連れ込まれた。
そこで凄惨なリンチを受け、あわや殺される寸前だったという。
いつまでも帰らない夫を、死の予感と共に案じたのは、
他でもない病床の母だった。彼女は這うようにして警察へ通報し、
夫が通い詰めていた場所を特定させた。
駆けつけた警察と母によって、父は九死に一生を得たのだという。
父は、ただ黙って頭を下げていた。
その姿は、かつての威圧感など微塵もない、ただの老いた敗北者のようだった。
「バカッ!!」
水君の叫びが病室に響き渡った。
「散々、私やお母さんに暴力を振るって、好き勝手してたくせに……!
お母さんは死ぬほど心配したんだよ!?死ぬほど苦しんだんだよ!
お父さんなんて……お父さんなんて、そのまま殺されちゃえば良かったんだ!!」
溢れ出したのは、長年蓄積された憎悪と悲しみだった。
「……水君」
母が嗜めるように名を呼ぶが、水君の涙は止まらない。
「……すまなかった。母さん、水君。本当に……合わせる顔がない」
父が、絞り出すような声で言った。
「今回のことで、目が覚めたよ……。
俺は、自分の一番大切なものを自分の手で壊そうとしていた。
……心を入れ替えるなんて言葉、信じてもらえないだろうが……
これからは真面目に働いて、借りも返していくつもりだ。本当に……すまなかった」
母は静かに涙を流し、不自由な手で父の背中を撫でた。
「いいのよ、あなた。生きていてくれただけで……」
二人の和解を、水君は冷めた目で見つめていた。
許せるはずがない。あのアザの痛みも、心の傷も、
たった一度の謝罪で消えるものではないのだから。
翌日。母の体調が一時的に安定したことを受け、
水君は母に連れ出されるようにして病院の中庭のベンチに座っていた。
「水君……貴方、本当は旅に出たいんじゃない?」
唐突な問いに、水君は言葉を詰まらせた。
「……え?」
「お前がいつも、窓から街を行く魔獣使いたちを羨ましそうに見ていたこと。
隠れて旅の地図や本を読んでいたこと。お母さん、全部知ってるよ」
「……それは……でも、いいの。私には、お母さんの看病があるから」
母は水君の細い手を、包み込むように握った。
「行っておいでよ、水君。自分のために、自分の足で」
「でも!! お母さんの体は!? それに、お父さんだって……
あんな人、またいつ元に戻るか分からないよ!」
「大丈夫。お前が魔獣バトルで稼いでくれたお金で、いい薬も買えたし、
体はすっかり良くなったわ。それに、お父さんも……。
あんな情けない姿を見せちゃったんだもの。
今度こそ、自分を変えようとしているのが分かるの。私を信じて、行ってきなさい」
母の瞳は、どこまでも澄んでいた。
それは、娘を縛り付けていた「罪悪感」という鎖を解き放つための、
母としての最後の教育だった。
「……お母さん」
水君は母の胸に飛び込み、子供のように泣いた。
それは悲しみの涙ではなく、ようやく自分の人生が始まることへの、怖れと歓喜の涙だった。
翌朝。
街の氷はすっかり溶け、澄み渡るような青空が広がっていた。
水君は、使い込まれたリュックサックを背負い、シャワーズ、ハクリュー、ハガネール、
そしてカメックスの入ったボールを腰に固定した。
街の門の前には、腕を吊った父と、微笑む母の姿。
「……お母さんのことは、まだ少し心配だけど。
あんなお父さんだけれど……。今は、信じてみようかな」
彼女は心の中でそう呟き、一度だけ振り返って大きく手を振った。
「行ってきます!」
一歩、踏み出す。
そこには、雷光や炎帝が追いかけている、果てしない世界が広がっている。
魔獣と人間がなぜ争うのか。この戦争の果てに何があるのか。
そして、あの時フリーザーが見せた涙の意味は。
水君の胸は、これまでに感じたことのない高鳴りで満たされていた。
たとえ道が険しくとも、彼女には共に戦い抜いた、誇り高き怪物たちがついている。
彼女の旅路を祝うように、遠くの空で一筋の輝きが走った。
それは伝説の鳥の羽ばたきか、あるいは、輝かしい未来への予兆か。
青川水君の「本当の物語」が、今、ここから始まろうとしていた。
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