水君は、冷たくなった晴香の右手に、彼女の愛する息子の写真をそっと握らせた。
荒れ狂う雨に打たれながら、物言わぬ遺体に最後の手向けを済ませ、
彼女はゆっくりと立ち上がった。
「あなたのことを忘れない……」
周囲を見渡せば、かつての誇り高き海上艦隊も、深海の狩人であった潜水艦隊も、
そして自分を導いてくれた晴香さえも、すべてが海の神王によって蹂躙され、波間に消えていた。
残されたのは、自分と、一匹の竜だけ。
今、この絶望的な海域で、カイオーガという天災から人々を、
そして残された世界を守れるのは、水君という一人の少女しかいない。
水君は、荒れ狂う風の中で目を閉じ、
遠い記憶の底にいる両親へ、届かぬ問いを投げかけた。
お父さん、お母さん
私が、なんでこんなに一生懸命戦うか……分かる?
視界が雨と涙で滲む。彼女を突き動かしているのは、崇高な正義感や、
選ばれた戦士としての使命感だけではなかった。
もっと泥臭く、もっと子供じみた、切実な「生」への執着だった。
このまま二人と別れたくないの
死にたくないの
だって私たち、まだ仲直りしてないじゃない。
喧嘩をしたまま家を飛び出したあの日。
ぶつけ合った鋭い言葉。それが今生の別れになることだけは、どうしても許せなかった。
謝りたい。抱きしめたい。その当たり前の明日を取り戻すために、
彼女は恐怖で震える足を踏みしめた。
「行くよ、カイリュー!!」
水君はカイリューの逞しい背に跨り、再び厚い雲の渦巻く空へと舞い上がった。
目標はただ一つ。母なる海を地獄へと変えた元凶、カイオーガを討つこと。
カイオーガは勝利を確信したかのように、巨躯をうねらせながら陸地へと接近を開始していた。
その進撃の先には、まだ戦い続けている仲間たちや、怯える人々がいる。
「行かせない……!カイリュー、『雷のパンチ』!!」
水君の叫びに呼応し、カイリューが急降下する。
雨天、そして海面上という絶好の条件が重なり、拳に凝縮された青白い電光が、
回避不能の雷となってカイオーガの背を打った。
バヂヂヂヂッと凄まじい放電現象が起き、潮の香りが焦げた匂いへと変わる。
流石に無視できない苦痛を感じたのか、カイオーガが巨大な鰭を叩きつけ、
水君たちを標的として再認識した。
黄金の瞳が、自分を刺し続ける「羽虫」を殺すために細められる。
そして、海面に巨大な水の渦が発生した。
晴香とギャラドスを散らした、あの最悪の極大技――。
『潮吹き』。
海中から吸い上げられた莫大な質量が、
一滴一滴が砲弾と化した飛礫となって空へ放たれた。
「カイリュー、『高速移動』!!止まるな、一点に留まらないで!!」
回避不能の弾幕。
だが、カイリューは残像を残すほどの超加速で、重力に逆らうように軌道を描いた。
背後で海面が爆発し、空気が切り裂かれる。
水の粒の一撃がカイリューの頬を一瞬掠め、鮮血が舞った。
だが、カイリューは怯まない。その僅かな傷を代償に、死の網を潜り抜けたのだ。
水君は、必死にカイリューの首にしがみつきながら、胸の内で祈り続けていた。
勝てるかなぁ……。
不意に、戦いとは無縁だった頃の日常が脳裏をよぎる。
食卓を囲む家族の笑い声。夕暮れの街並み。
子供の時のように三人仲良く、平和に暮らしたい。
これからもずっと。
そのために、なんとしても勝たなきゃね…。
彼女を支えているのは、過去への後悔と、未来への純粋な渇望だった。
その想いが、今、カイリューの魂と完全にシンクロした。
「今だ……!!『竜の怒り』!!」
水君は迫り来るカイオーガの巨大な眼を真っ向から睨みつけ、渾身の指示を叫んだ。
カイリューの口内に収束された青き竜の波動が、猛スピードで突っ込む加速を上乗せして、カイオーガの顔面をクリーンヒットさせた。
爆発的な衝撃が走り、神の巨躯が初めて大きく海へと沈み込んだ。
「畳み掛けるよ!!『ドラゴンクロー』!!」
体勢を崩し、無防備になったカイオーガの喉元へ、
カイリューがエメラルド色に輝く爪を突き立てた。
神の鱗を切り裂き、その深奥へと一撃を叩き込む。
海の神王が、断末魔のような悲鳴を上げた。
水君の瞳には、もう迷いはなかった。
どれほど世界が壊れようと、どれほど大切な人が消えようと、彼女は生きることを諦めない。
心に刻んだ家族の元に、きっと私は帰れるから―─。
嵐の最中、少女と龍は一筋の希望となって、神を討つための最後の旋回を始めた。
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