国鉄三十四物語   作:五十嵐 響

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シャークノーズ

――新幹線総局・東京第一運転所(昭和61年 冬)

検修庫の奥深く、その列車は青白い水銀灯の下で静かに息づいていた。

銀白色の車体は、磨き上げられた陶器のような光沢を放っている。何より目を引くのは、これまでの新幹線の象徴だった「団子鼻」を過去のものとする、鋭く突き出した先頭部だ。

落成直後の100系。

まだ営業運転のダイヤには載っていない、国鉄が最後の威信をかけて世に送り出した次世代の旗手。

運転士・三上徹は、その鼻先に吸い寄せられるように歩み寄った。東京都大田区で育った彼は、幼い頃から機械の機能美に敏感だった。26歳。国鉄に入職して8年。0系という偉大な親の背中を追い続けてきた彼にとって、この車両はあまりにも挑戦的で、官能的ですらあった。

三上がその滑らかな鼻先に手を伸ばしかけた時、背後から硬い声が飛んだ。

「触るなよ、これから試運転だ。指紋ひとつで空気抵抗が変わる……何てことはねえがな」

振り返ると、指導運転士の岡部啓介が、制服のポケットに手を突っ込んで立っていた。三上の父親ほども歳の離れた、叩き上げのベテランだ。

「すみません。つい」

「気持ちは分かる。だがな、三上。こいつはまだ、産声を上げたばかりの世に出てない列車だ。余計な体温を分け与えるのは、運転台に座ってからにしろ」

三上は短く「はい」と答え、手袋をはめ直した。

 

0系の運転台で東海道・山陽を走り抜けてきた日々。その経験が、この100系を前にすると、まるで古い教科書のように感じられた。

「名前、知ってるか」

岡部が隣に並び、銀色の巨体を見上げた。

「……シャークノーズ、ですか」

「そうだ。鮫の鼻先だ。空気を切り裂くというより、噛み砕いて進む。国鉄が最後に造り出した、最速の牙だ」

岡部は自嘲気味に笑ったが、その眼光は鋭い。

「こいつが本格的に走り出す頃、俺たちの制服の襟章がどうなってるかは分からん。だが、機械に罪はねえからな」

翌朝、4時。

静まり返った東京駅のホームに、試験走行の100系が滑り込んで来た。三上は運転席に深く腰を下ろし、指差喚呼を行う。

「発車定時。点呼、よし」

マスコンを引く。0系よりも遥かに滑らかに、巨体が動き出した。多摩川を越え、相模川を渡り、列車が速度を上げていくに連れ、三上は奇妙な感覚に包まれた。

周囲の景色が、流れる線ではなく、色彩の溶け合いとなって背後へ消えていく。

 

200キロ。

210キロ。

指針は更に右へと振れる。

運転台を支配するのは、かつて経験したことのない静寂だった。風切り音も、モーターの唸りも、最新の技術によって封じ込められている。

「……静かですね」

隣の岡部に向かって、三上は思わず呟いた。

「怖いか? 静かすぎるのは、地面から離れて浮いているようなもんだからな」

「いえ。ただ……現実じゃないみたいで。自分がこの速度を支配しているという実感が、追い付いて来ないんです」

岡部は前方のレールを見つめたまま、重々しく頷いた。

「そのうち慣れる。だがな三上、こういう列車は、機械が賢い分だけ人間のミスを許さねえ。一瞬の油断が、200キロの質量を持った凶器に変わる。それを忘れるな」

 

静岡を過ぎたあたりで、朝日に照らされた富士山がその全貌を現した。

雪を冠した白い頂。雲海に半分身を隠したその姿は、あまりにも神々しく、静止画のように動かない。三上は一瞬だけ視線を向けたが、すぐに前方へと戻した。

1秒で60メートル。瞬きの間に、列車は次の閉塞区間へと踏み込んで行く。

止まることは許されない。

ただ、決められた時間を、決められた速度で、正確に刻み続ける。

それが国鉄運転士としての、唯一絶対の矜持だった。

試験走行を終え、東京第一運転所に戻った頃には、日は西に傾いていた。

パンタグラフが降り、高周波の駆動音が消えると、運転台には途端に冷ややかな静寂が戻る。さっきまでの200キロの世界が、まるで白昼夢だったかのように遠ざかって行く。

詰所のテレビでは、ニュースキャスターが淡々と「国鉄分割・民営化」の進捗を報じていた。道州制に基づく六社への分割、数万人規模の配置転換。画面の端には、抗議行動を行う組合員の姿も映っていた。

三上は、配られたばかりの冷めた茶を啜りながら、その画面を眺めていた。

「三上。どう思う?この騒ぎ」

 岡部が、新聞を畳みながら聞いてきた。

「……正直、良く分かりません。組織の名前がどうなるとか、どこの会社に配属されるとか」

三上は正直に答えた。そして、少し間を置いて続けた。

「ただ、線路が繋がっていて、列車が走るなら、俺のやることはどこでも同じです。1秒を削って、1秒を守る。それだけですから」

岡部は何も言わなかった。ただ、僅かに目を細め、若き運転士の横顔を頼もしそうに見つめた。

 

帰宅前。

三上はもう一度だけ、検修庫に佇む100系の前へ行った。

昼間の激闘を終えた鮫は、闇の中で静かに眠っている。三上は周囲に誰もいないことを確かめ、今度は躊躇わずにその白い車体に触れた。

掌から伝わってきたのは、鉄の冷たさではなかった。

内部の機器が抱える、微かな熱。それはまるで、長距離を走り抜けたアスリートの体温のようだった。

(――まだ、行けるな)

三上には、そう聞こえた。

国鉄という巨大な船が沈もうとしていても、この列車は、そしてこの技術は、決して死なない。もっと速く、もっと遠くへ。時代がどう変わろうとも、この鉄路の先には必ず未来がある。

ならば、自分もそこへ行く。

このシャークノーズと共に、新しい時代の風を噛み砕きながら。

遠くで、別の列車の入換信号が青に変わった。

夜の闇に飲み込まれて行くレールの先を見据え、三上は誇らしげに顎を引いた。

その光景を、検修庫の柱の陰から見つめていた男がいた。

片桐光崇は、手元の大学ノートに、三上の背中から感じ取った言葉を静かに書き留めた。

 

【記録】

新幹線総局 運転士 三上徹

「列車は、まだ先へ行けると言っていた」

 片桐は、三上が去った後の静かな検修庫に一礼し、夜の丸の内へと足を向けた。一冊目のノートの、最初の一頁が埋まった。

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