――釧路鉄道管理局・根室本線 白糠構内(昭和61年 冬)
午前4時。
世界はまだ、深い夜の底に沈んでいた。
気温-20度。
吐き出す息は瞬時に白く凍り付き、睫毛さえも霜で重くなる。空気そのものが結晶化したかのような静寂の中では、雪を踏みしめる音さえも遠くの異国の出来事のように響いた。
保線員・坂東勝は、構内の片隅に鎮座する転轍機の前に立っていた。
34歳。地元、白糠町で生まれ育ち、この地の厳しさを骨の髄まで知っている。釧路局に入職して以来、彼はこの鉄の道を守り続けてきた。
目の前の鉄の塊は、死者のように冷たく、白く霜を纏っている。
手袋越しに触れても、その冷徹な温度は防寒着を突き抜け、骨まで染み込んできた。
「……動かんか」
低く呟き、ハンドルに手をかける。
力を込めて回そうとするが、びくともしない。
内部の油はガチガチに凍り付き、機構は沈黙を貫いている。
「坂東さん、火炎ストーブ持って来ますか?」
後ろで、凍えそうな声を上げながら若い作業員が尋ねた。
坂東はゆっくりと首を振った。
「慌てるな。急に温めりゃ、鉄が歪んでまうべ。鉄っちゅうのはな、急かすと機嫌損ねて壊れるもんだ」
それは教科書には載っていない、極寒の地で鉄と対話し続けてきた男の直感だった。
遠くで、鋭い警笛が鳴り響いた。
回送列車が近付いている。まだ夜明け前、凍り付いた原野を貫いて走る一番列車。この線路が、まだ死んでいないことを証明する一筋の光だ。
坂東は、意を決したように厚手の手袋を脱ぎ捨てた。
素手で、氷のようなハンドルを握る。
皮膚が鉄に張り付き、引き千切られるような激痛が走る。だが、彼はその手を離さない。
「ぬう……っ!」
自身の体温を鉄に分け与えるように、ゆっくりと、しかし確実な力を込めていく。
――ギ……。
微かな苦悶に満ちた音がした。
――ギギギ、ギ……。
凍り付いた鉄が、男の執念に僅かに応える。
「……よし、そのまま。あともうちょいだ」
若い作業員が息を呑み、固唾を呑んで見守る。
坂東は全身の体重を乗せ、一気にハンドルを回し切った。
――カン!
重厚な金属音が、静寂を切り裂いた。転轍機が、正しい進路へと切り替わる。
「信号、青に戻せ!」
「はい!」
待避所のスイッチが押される。
闇の中で、それまで拒絶を象徴していた赤い灯が消え、希望のような青い灯が灯った。
その青を見た瞬間、坂東は漸く肺の中の冷気を吐き出した。
列車のヘッドライトが雪煙を猛烈に巻き上げながら近づいてくる。
凄まじい轟音。
大地を揺らす振動。
一瞬だけ、世界が白銀の光に包まれ、列車は何事もなかったかのように通り過ぎていった。
後には、舞い上がった雪が静かに降り積もる、以前にも増した静寂だけが残った。
「……良いか、よく聞け」
坂東は、感覚のなくなった自分の掌を見つめながら、若い作業員に諭した。
「俺たちの仕事っちゅうのはな、『何も起きない』ようにすることだ。事故が起きりゃ派手にニュースにもなるべ。でもな、何事もなく列車が通り過ぎりゃ、誰も俺たちのことなんか気付きゃせん」
彼は夜明け前の空を見上げた。鉛色の雲の向こうに、わずかな光の兆しがある。
「それで良いんだ。誰にも気付かれんで、当たり前に列車が走る。鉄道っちゅうのは、そういうもんだべさ」
詰所の休憩小屋に戻ると、古いラジオからニュースが流れていた。
『国鉄分割・民営化。再建に向けた人員整理の波は、地方管理局にも……』
誰かが忌々しそうに、音量を少し上げた。
「分割だの民営だの、上の方は景気良いこと言ってるけどよ……」
別の作業員が、ストーブの火を見つめながらぼやいた。
坂東は、真っ赤に腫れ上がった手を火に翳しながら、静かに口を開いた。
「上がどう変わろうとよ、雪は降るんだ。雪が降りゃ線路は埋まる。だったら、誰かが掘らなきゃなんねぇ。ただそれだけのことだべ」
火が爆ぜる音が、小さく小屋の中に響いた。
坂東にとって、組織の名称が変わることは、空から降る雪を止めることよりもずっと現実味のない話だった。
外に出ると、雪は止む気配もなく降り続いていた。
遠くの信号機が、赤から黄へ、そしてまた赤へと規則正しく変わって行く。
その光を見つめながら、坂東は静かに立っていた。
明日も、明後日も、同じようにここに来るだろう。
寒さも、容赦なく降り積もる雪も、気難しい鉄も、何一つ変わらない。
変わるのは、東京の偉いさんたちが決めた「名前」だけだ。
ふいに、遠くから別の列車の警笛が聞こえた。
凍て付く空気を裂いて伸びていくその音を聞き、坂東は小さく頷いた。
(――線路は、まだ生きてるべさ)
その様子を、詰所の陰で見届けていた男がいた。
片桐光崇は、凍えた指で大学ノートに、この最果ての地で鉄を守る男の言葉を書き留めた。
【記録】
釧路鉄道管理局 保線員 坂東勝
「何も起きないことが、一番の仕事だ」
片桐は、坂東に気付かれないように軽く会釈をし、雪の中へと消えて行った。
ノートの二頁目が、厳しい冬の匂いと共に埋まった。