国鉄三十四物語   作:五十嵐 響

4 / 4
石北本線の煙

――旭川鉄道管理局・旭川運転所(昭和61年 秋)

旭川の朝は、重厚な地響きのようなエンジン音で幕を開ける。

透き通るほど冷え切った空気の中で、朱色の巨体――DD51形ディーゼル機関車が、ゆっくりと目覚めの唸りを上げていた。

 

かつて北の王者と呼ばれた蒸気機関車達の座を引き継いだ、力強い機械の鼓動。排気管から吐き出される白い煙が、朝焼けの空へと真っ直ぐに昇り、軈て淡く溶けて消えて行く。

運転士・瀧口繁は、キャブの窓からその行方を見つめていた。

還暦を迎えたその顔には、北海道の厳しい風雪が刻み込んだ深い皺がある。旧制中学校を卒業後、鉄道省に入職。石炭の煤に塗れて生きてきた男の眼差しは、穏やかだが鋭い。

「……煙、か」

思わず零れた言葉が、白い息となって窓硝子を曇らせた。

それはもう、とうの昔に記憶の彼方へ追いやられたはずのものだった。

 

「仕業点検、終わりました!」

若手の佐藤が、張りのある声で報告した。まだ20代半ば。これから始まる民営化後の「新しい鉄道」を担っていく世代だ。

「燃料、油圧、冷却水……全て異常なしです、瀧口さん」

「……よし。出すべ」

瀧口は短く応じ、使い込まれた計器類に目を落とした。

 

彼が鉄道員としてこの道に入った頃、相棒は巨大な鉄の塊、蒸気機関車だった。文字通り石炭をくべ、火を熾し、命を吹き込む。手も顔も煤で真っ黒になり、鼻を噛めば黒い鼻水が出た。夏は灼熱、冬は隙間風との戦いだったが、それでも「自分の手で山を越えさせている」という確かな手応えがあった。

 

今は、ボタンを押せばエンジンがかかる。煤で汚れることもない。

時代は変わった。そして、もうすぐ国鉄という名前さえも終わろうとしている。

列車がゆっくりと動き出した。

旭川を発ち、石北本線へと足を踏み入れる。網走方面へと続くこの路線は、北海道でも有数の難所だ。北見峠や常紋峠に代表される険しい勾配と、連続するトンネル。機関士の僅かなレバー捌きが、そのまま列車の運命を左右する。

 

エンジンの回転数を上げる。重い貨車を従えたDD51が、鼻息を荒くするように咆哮した。

「……瀧口さん。昔は、もっと賑やかだったんですか」

佐藤が前方を注視しながら、ふと尋ねてきた。

瀧口は少しの間を置いてから、口角を僅かに上げた。

「賑やかっていうか……そりゃあ、煩かったべ。今のディーゼルなんて可愛いもんだ」

彼は遠い目をして続けた。

「蒸気はな、機械じゃなくて『生き物』なんだわ。火の機嫌を見て、水の音を聞いて、五感の全部を使って走らせる。今はよ、機械が全部数字で教えてくれるべ? 楽にはなったけどな……なんちゅうか、寂しいもんだ」

佐藤はハンドルを握る手を少し強め、黙って頷いた。

列車は「石北の壁」と呼ばれる上り勾配に差し掛かった。

 

軈て、闇が口を開けて待つトンネルに入る。

一気に押し寄せる闇。密閉された空間で、エンジン音が反響し、鼓膜を激しく叩く。

瀧口は無意識に目を細めた。

かつて、この暗闇の中は猛烈な煤煙で満たされていた。前は見えず、熱気と煙で息も出来なくなり、濡れタオルを口に当てて耐え忍んだ。命懸けの山越えだった。

今は、ヘッドライトが真っ直ぐにレールを照らし、換気装置が空気を澄ませている。

視界は良好だ。恐怖もない。

だが――。

瀧口の胸の奥には、何かが足りないという、穴の開いたような感覚があった。

トンネルを抜けると、秋色に染まった山々が目に飛び込んできた。

針葉樹の緑と、広葉樹の鮮やかな赤。冷たい風がキャブの中を通り抜けていく。

「なあ、佐藤」

瀧口が唐突に言った。

「煙っちゅうのはな、見えなくなっても残るんだわ」

「……え? どこにですか」

「山に染み付いて、空に溶けて……そして、それを走らせた人間の中にな。一度でも釜に火を入れた奴は、一生その匂いを忘れられん」

自分でも、なぜこんな感傷的なことを口にしたのか分からなかった。佐藤は不思議そうな顔をしていたが、やがて真剣な表情で「……僕も、いつか分かりますかね」と返した。

 

峠を越え、列車は緩やかな下りに入る。

エンジンの負荷が軽くなり、音が柔らかく変化した。その微細な揺らぎを感じ取りながら、瀧口は淀みのない動作でブレーキを調整する。

燃料が石炭から軽油に変わっても、組織がバラバラになっても。

レールの軋みを腰で感じ、重い質量を御するこの感覚だけは、自分の身体が覚えている。それだけは、誰にも奪えない。

 

終着のホームに機関車が止まり、エンジンが停止した。

激しい音が消え去ると、急激な静寂が世界を包み込む。

排気管から最後の一息が白く空に昇り、秋の空に消えていった。

瀧口は、その消え行く白を見つめながら思った。

煙はもう出ない。自分も、もうすぐこの運転台を降りる。

だが、自分がこのレールの上に刻んできた轍は、消えることはない。

遠くで、別の列車の警笛が鳴った。

それは空気を震わせ、かつての汽笛の残響のように優しく響いた。

「……まだ、終わってねえな」

瀧口は小さく笑い、愛機の手摺をポンと叩いた。

その様子を、ホームの端でノートを抱えて見つめる男がいた。

片桐光崇は、冷え始めた秋風にコートの襟を立てながら、一文字ずつ丁寧にペンを走らせた。

 

【記録】

旭川鉄道管理局 機関士 瀧口繁

「煙は消えても、仕事は残る」

 片桐は、遠ざかって行く老機関士の背中に向けて、深く、静かに頭を下げた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。