――旭川鉄道管理局・旭川運転所(昭和61年 秋)
旭川の朝は、重厚な地響きのようなエンジン音で幕を開ける。
透き通るほど冷え切った空気の中で、朱色の巨体――DD51形ディーゼル機関車が、ゆっくりと目覚めの唸りを上げていた。
かつて北の王者と呼ばれた蒸気機関車達の座を引き継いだ、力強い機械の鼓動。排気管から吐き出される白い煙が、朝焼けの空へと真っ直ぐに昇り、軈て淡く溶けて消えて行く。
運転士・瀧口繁は、キャブの窓からその行方を見つめていた。
還暦を迎えたその顔には、北海道の厳しい風雪が刻み込んだ深い皺がある。旧制中学校を卒業後、鉄道省に入職。石炭の煤に塗れて生きてきた男の眼差しは、穏やかだが鋭い。
「……煙、か」
思わず零れた言葉が、白い息となって窓硝子を曇らせた。
それはもう、とうの昔に記憶の彼方へ追いやられたはずのものだった。
「仕業点検、終わりました!」
若手の佐藤が、張りのある声で報告した。まだ20代半ば。これから始まる民営化後の「新しい鉄道」を担っていく世代だ。
「燃料、油圧、冷却水……全て異常なしです、瀧口さん」
「……よし。出すべ」
瀧口は短く応じ、使い込まれた計器類に目を落とした。
彼が鉄道員としてこの道に入った頃、相棒は巨大な鉄の塊、蒸気機関車だった。文字通り石炭をくべ、火を熾し、命を吹き込む。手も顔も煤で真っ黒になり、鼻を噛めば黒い鼻水が出た。夏は灼熱、冬は隙間風との戦いだったが、それでも「自分の手で山を越えさせている」という確かな手応えがあった。
今は、ボタンを押せばエンジンがかかる。煤で汚れることもない。
時代は変わった。そして、もうすぐ国鉄という名前さえも終わろうとしている。
列車がゆっくりと動き出した。
旭川を発ち、石北本線へと足を踏み入れる。網走方面へと続くこの路線は、北海道でも有数の難所だ。北見峠や常紋峠に代表される険しい勾配と、連続するトンネル。機関士の僅かなレバー捌きが、そのまま列車の運命を左右する。
エンジンの回転数を上げる。重い貨車を従えたDD51が、鼻息を荒くするように咆哮した。
「……瀧口さん。昔は、もっと賑やかだったんですか」
佐藤が前方を注視しながら、ふと尋ねてきた。
瀧口は少しの間を置いてから、口角を僅かに上げた。
「賑やかっていうか……そりゃあ、煩かったべ。今のディーゼルなんて可愛いもんだ」
彼は遠い目をして続けた。
「蒸気はな、機械じゃなくて『生き物』なんだわ。火の機嫌を見て、水の音を聞いて、五感の全部を使って走らせる。今はよ、機械が全部数字で教えてくれるべ? 楽にはなったけどな……なんちゅうか、寂しいもんだ」
佐藤はハンドルを握る手を少し強め、黙って頷いた。
列車は「石北の壁」と呼ばれる上り勾配に差し掛かった。
軈て、闇が口を開けて待つトンネルに入る。
一気に押し寄せる闇。密閉された空間で、エンジン音が反響し、鼓膜を激しく叩く。
瀧口は無意識に目を細めた。
かつて、この暗闇の中は猛烈な煤煙で満たされていた。前は見えず、熱気と煙で息も出来なくなり、濡れタオルを口に当てて耐え忍んだ。命懸けの山越えだった。
今は、ヘッドライトが真っ直ぐにレールを照らし、換気装置が空気を澄ませている。
視界は良好だ。恐怖もない。
だが――。
瀧口の胸の奥には、何かが足りないという、穴の開いたような感覚があった。
トンネルを抜けると、秋色に染まった山々が目に飛び込んできた。
針葉樹の緑と、広葉樹の鮮やかな赤。冷たい風がキャブの中を通り抜けていく。
「なあ、佐藤」
瀧口が唐突に言った。
「煙っちゅうのはな、見えなくなっても残るんだわ」
「……え? どこにですか」
「山に染み付いて、空に溶けて……そして、それを走らせた人間の中にな。一度でも釜に火を入れた奴は、一生その匂いを忘れられん」
自分でも、なぜこんな感傷的なことを口にしたのか分からなかった。佐藤は不思議そうな顔をしていたが、やがて真剣な表情で「……僕も、いつか分かりますかね」と返した。
峠を越え、列車は緩やかな下りに入る。
エンジンの負荷が軽くなり、音が柔らかく変化した。その微細な揺らぎを感じ取りながら、瀧口は淀みのない動作でブレーキを調整する。
燃料が石炭から軽油に変わっても、組織がバラバラになっても。
レールの軋みを腰で感じ、重い質量を御するこの感覚だけは、自分の身体が覚えている。それだけは、誰にも奪えない。
終着のホームに機関車が止まり、エンジンが停止した。
激しい音が消え去ると、急激な静寂が世界を包み込む。
排気管から最後の一息が白く空に昇り、秋の空に消えていった。
瀧口は、その消え行く白を見つめながら思った。
煙はもう出ない。自分も、もうすぐこの運転台を降りる。
だが、自分がこのレールの上に刻んできた轍は、消えることはない。
遠くで、別の列車の警笛が鳴った。
それは空気を震わせ、かつての汽笛の残響のように優しく響いた。
「……まだ、終わってねえな」
瀧口は小さく笑い、愛機の手摺をポンと叩いた。
その様子を、ホームの端でノートを抱えて見つめる男がいた。
片桐光崇は、冷え始めた秋風にコートの襟を立てながら、一文字ずつ丁寧にペンを走らせた。
【記録】
旭川鉄道管理局 機関士 瀧口繁
「煙は消えても、仕事は残る」
片桐は、遠ざかって行く老機関士の背中に向けて、深く、静かに頭を下げた。