虎杖は目の前で起きている事態に完全に戸惑っていた。自分が「殺した」と罪を認めた。ジャッジマンが死刑を宣告しようと槌を振り上げた。その裁きを止めたのは他でもない、敵であるはずのあの女だったからだ。
「……は?なんで、アンタが……」
呆然と立ち尽くす少年の声は冷たい法廷の空気に空しく吸い込まれていった。証言台を挟んで対峙する日車と北見。忌避権の自動発動により、互いの認識は完全に阻害されている。日車の目には北見が名もなき冷徹な検察官として映り、北見の目には、日車が青臭い理想を捨てきれない弁護士として映っていた。彼らは今完全に敵対する見知らぬ同士だ。
しかし――記憶と認識が塗り潰されても肉体に刻まれた罪の痕跡だけは消えていなかった。日車が握り込む手のひらには幾人もの術師の頭蓋を砕き、命を泥に変えてきた人を殺した感触がべったりと生々しく張り付いている。対する北見の喉の奥には13歳の頃から法廷で真実を殺し続け、都合のいい虚構を吐き出し続けてきた数多の偽証の苦みが焼けるように残っていた。彼らは決して少年を救う正義の味方などではない。それぞれが泥を啜り地獄を歩いてきた罪人として、己の信じる法理の刃を極限まで研ぎ澄ませて激突していた。
検察官として立つ北見は虎杖に向かって、淀みない口調で説明を始めた。
「勘違いするな、少年。私は君がやっていないなんて優しい嘘をつく気はない」
彼女の目はただ事実と手続きの不備だけを冷徹に射抜いている。
「だが刑法において、自白のみを唯一の証拠として有罪とすることは禁じられている。架空の罪や他人の罪を被る冤罪を防ぐための絶対的なルールだ。自白を裏付ける補強証拠が提示されていない以上、この法廷は君の罪を確定できない」
それは法という化け物の中で生き抜き培ってきた圧倒的な法廷経験から導き出された、隙のない論理だった。彼女は日車――彼女の目には名もなき弁護士として映っている男――と、巨大なジャッジマンを真っ直ぐに睨みつけた。
「被告人の自白のみによる断罪は司法の自殺だ!」
北見の声がガラスのように冷たい法廷の空気を鋭く打ち据える。
「当時の状況における責任能力や期待可能性、あるいは宿儺という別人格の介在を考慮した行為の主体性の不在といった高次元な法解釈を一切放棄し、ただ自白に飛びつくなど言語道断……!」
彼女は指を突きつけ、静まり返る空間に決定的な要求を叩きつけた。
「検察官としてこの杜撰な公判プロセスの即時修正を求める!」
その凄まじい気迫と完璧に構築された法理の壁を前にジャッジマンの天秤が大きく揺れ、ギシギシと悲鳴のような音を立て始めた。そのあまりに鋭くどこまでも手続きの正当性を重んじる正しい指摘に彼の魂が文字通り激しく震えていた。
(この検察官は……何を言っているんだ)
記憶を奪われ感情を記号へと塗り潰された日車の脳裏に、かつてないほどの衝撃が走り抜ける。死滅回游という名の法も正義も死に絶えた理不尽な戦場。誰もがただ生き残るために他者を殺しポイントという数字を貪る地獄の中で、目の前に立つ見知らぬ検事だけは驚くほど純粋に、そして必死に法の手続きを信じようとしていた。少年が自ら望んで死刑のギロチンに首を差し出そうとしているというのにそれを強引に引き剥がし、適正な裁判を行うべきだと空間そのものに刃を突き立てている。その頑ななまでの姿勢が自暴自棄になりただの肉の塊として人を殺し続けていた日車の、凍りついた心を激しく揺り動かした。
(……この検察官がここまで法を信じようとするなら)
日車の手のひらにかつて愛用し自らの呪力で真っ二つに叩き折ってしまったあの安物のペンの感触が、幻影のように蘇る。言葉を捨てただの質量としてガベルを振るい、血の海に沈んでいく世界を諦めていた自分が猛烈に恥ずかしく思えた。
(俺も弁護士としてどれだけ泥を啜ってでも、こいつの生への道を探さなければならない)
消えかけていた弁護士としての魂がいま完全に燃え上がった。日車はゆっくりと証言台の横に立つ虎杖の隣へと歩み出た。そして自らの身体を少年の盾にするようにして、向かい側の検察官を真っ直ぐに見据える。
「……検察官の主張に弁護人として全面的に同意する」
日車の低い声が法廷の冷気を切り裂いた。
「被告人 虎杖悠仁の自白は、当時の状況において自らの意志によるものとは言い難い。肉体を他者に乗っ取られ意識を強制的に排除されていたのであれば、それは個人の行為ではなく防ぎようのない自然災害、あるいは不可抗力によるものだ。自らの意志で罪を犯していない人間に、刑事責任を問うことは絶対にできない」
日車と言葉を交わす名もなき検事。互いの名前も顔も、これまでの凄惨な旅路の記憶も、すべては忌避権という呪いの縛りによって完全に遮断されている。目の前にいる相手が誰なのか彼らにはもう分からない。しかし言葉を重ね法理をぶつけ合うたびに、二人の魂の底にある波長が、恐ろしいほどの精度で完全に噛み合っていった。
(なんだ、この感覚は……)
(この相手なら……私の、俺の全力をぶつけても、すべてを受け止めてくれる)
それは剥き出しの魂が交わす絶対的な信頼だった。現実の司法制度において一度たりとも巡り合うことのできなかった、互いの理想の片割れ。私情も利害関係も、組織の圧力も一切存在しない。ただ法という共通の言葉を信じる者同士が互いのすべてを賭けて正々堂々とぶつかり合う、混じり気のない理想の法廷。
皮肉にも呪術という名の薄汚れた呪いの空間の中で、二人の法律家としての純粋な共鳴がその理想を強制的に再現させていた。北見は目の前の弁護士が放つ青臭いほどに真っ直ぐな法曹としての輝きを正面から受け止め、酷く歪で、しかしどこまでも晴れ晴れとした笑みを浮かべた。
「だが現実に数千の命が失われたという事実は消えない。少年がその肉体を提供し結果として凶行の引き金となった以上、原因において自由な行為としての側面を完全に否定することはできないはずだ。弁護人、君はその不可抗力をどう立証するつもりだ?」
(……は?え?どうなってんだ?)
証言台に立つ虎杖の頭は完全にパンク寸前だった。つい数分前まで自分の命を狙ってガベルを振り回していた男が、今は自分の前に立ち塞がり命懸けで弁護をしている。一方でさっきまで男の隣にいて「裁判には不参加」だと言っていた女が死刑判決に強引に割り込んで自分の命を救ったかと思えば、今度は弁護に回った男を激しい剣幕で追及し始めている。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!アンタら、さっきまで……!」
困惑から思わず声を上げる虎杖だったが白熱する法廷の空気は、少年の戸惑いなど置き去りにして恐ろしい速度で進んでいく。
日車――名もなき弁護士は、虎杖の言葉を制するように片手を上げると虚空から現れたジャッジマンの証拠封筒を静かに開封した。日車は封筒から取り出した証拠――虎杖の肉体に巣食う、別の呪力情報を記した記録に素早く目を通し、鋭い視線を検察官へと向けた。
「検察官。ジャッジマンから提示されたこの証拠には、渋谷での大量虐殺が行われた際、被告人の肉体を支配していたのは両面宿儺と呼ばれる全く別の呪力体であったことが明確に記されている」
日車は証拠を高く掲げた。
「つまり被告人の肉体は宿儺という名の悪魔に完全にハイジャックされていた状態だ。ハンドルもブレーキも奪われた乗客に対し暴走事故の責任を問うことはできない。彼には犯行を止める手段がなかったのだからな」
日車の言葉は感情論を排した完璧な防御陣だった。宿儺という別個の意思が肉体を乗っ取った以上、虎杖悠仁という少年に殺人の故意は存在しない。どれほど凄惨な結果であろうと法理上、彼を殺人罪で死刑にすることはできないという強固な盾。法廷の空気が再び検察官へと集中する。
『悪魔による肉体の乗っ取り』
常識外れだがジャッジマンの証拠として認定された事実。この圧倒的に被告人に有利な前提を前に名もなき検察官はどう切り返すのか。日車は静かにだが闘志に満ちた目で向かいの検察官を見据えた。
「さあ、検察官。被告人が自らの意志で殺戮を行ったわけではないというこの動かぬ事実を前にどうやって彼の罪を立証するつもりだ?」
「なるほど。弁護人の主張は合理的だ」
検察官が顔を上げる。その声には敗北を認めた者の響きはなく、むしろ法廷の根底をひっくり返すような恐ろしい静けさが宿っていた。
「悪魔に肉体を奪われていたのであれば、被告人 虎杖悠仁は加害者ではなく、悪魔に利用された凶器に過ぎない。……銃殺事件において引き金を引いた人間ではなく、使われた拳銃を死刑にする法律などどこの国にも存在しない」
その言葉に証言台に立つ虎杖がハッと息を呑んだ。自分は人を殺した。その罪悪感で押し潰されそうになっていた彼に、検察官の言葉は思いもよらない視点を突きつけていた。
「よって検察側は被告人 虎杖悠仁に対する本件の公訴を取り下げる」
ジャッジマンの天秤がピタリと動きを止めた。検察官自らが起訴を取り下げた。それはこの法廷における虎杖悠仁の無罪が確定した瞬間だった。だが法廷の空気は少しも軽くならない。むしろ検察官の放つ凄まじい呪力が、空間そのものを圧迫し始める。
「しかし法廷は裁かれるべき罪悪を求めている」
検察官は真っ直ぐに裁判官席の異形を見据えた。
「ならばこの不完全な法廷において、被害者に過ぎない少年にすべての罰を背負わせるような三流の裁定は却下する。検察側は刑事訴訟法に基づく訴因の変更および被告人の追加を要求する!」
彼女は自らの足元、そして向かい側に立つ弁護士を指差した。
「裁かれるべき真の大量殺人鬼はここにいる!己の目的のためにこの結界を蹂躙し、20人以上の命を独自の理屈で奪い取った、検察官と弁護人だ!」
狂気の沙汰だった。検察官が自らと弁護士を連続殺人鬼として法廷に告発したのだ。だがその告発を受けた弁護士の顔に驚きはなかった。むしろ彼の魂の底底から待っていたと言わんばかりの歓喜と、深い贖罪の念が湧き上がっていた。
(……ああ。なんて美しく、完璧な法理だ)
記憶がなくても、この目の前の検察官が自分と同じ地獄を歩いてきた罪人であることだけは痛いほどに分かった。自分たちは無罪ではない。この少年よりもずっと泥と血にまみれて汚れている。
「弁護側は検察側の訴因変更に全面的に同意する!」
日車が声を張り上げる。
「我々は死滅回游において、己のルールを押し通すために多数の命を奪った事実を認める。少年の無罪と我々の罪。これらを一つの事件として併合し、ただちにこの場で裁定を下すことを求める!」
二人の狂気的とも言える法理解釈の連撃。ジャッジマンの巨大な天秤が激しく上下に揺さぶられる。少年の不確かな罪と目の前にいる大人二人が明確に自白した「20人以上の殺害」という重すぎる罪。システムとしての法廷はより立証が確実で重大な罪を優先して裁かざるを得ない。ジャッジマンの縫い合わされた目から虎杖への関心が完全に薄れ、大人二人へと向けられた。
『併合を受理。被告人両名、有罪』
空間が歪む。
日車の手の中に巨大なガベルが具現化した。だが今の彼はそれを振り下ろすことに何の迷いも罪悪感も抱いていなかった。彼はガベルを高く振り上げる。敵を物理的に粉砕し命を奪うための呪われた武器ではない。自分たちが罪を抱えたままこの地獄で生き、そしていつか正しく裁かれる権利を承認するための魂の木槌だった。
「閉廷だ」
日車が振り下ろしたガベルが証言台の縁を力強く叩き据える。
――ガァァンッ!!
世界を震わせるような轟音とともに閉鎖された法廷の空間が粉々に砕け散った。光が反転し元の薄暗い劇場が姿を現す。その瞬間二人の脳を縛り付けていた忌避権による強制的な認識阻害が解けた。視界の靄が晴れ日車と北見の視線が交差する。
日車の目には見知らぬ冷徹な検察官ではなく、無茶な論陣を張って息を切らす北見遥の顔が映っていた。北見の目にもまた愚直なだけの弁護士ではなく、自分を庇うように立つ日車寛見の姿がはっきりと戻っていた。互いの瞳の奥に同じ地獄を歩いてきた消えない罪の記憶と捨てきれなかった相手への執着を見つけ、息を吐き出して安堵した。
だが安堵も束の間、二人の身体から急速に何かが抜け落ちていく感覚が襲った。ジャッジマンが下した有罪判決に伴うペナルティ『没収』。
二人の肉体に刻まれた術式が一時的に封じられたのだ。彼らは今圧倒的な力でこの結界を蹂躙してきた化け物ではなく、ただの弱い大人へと引きずり下ろされていた。日車は重くなった身体を微かに揺らしたが、その表情に後悔はなかった。少し離れた場所で虎杖悠仁が信じられないものを見るような目で二人を見つめていた。
虎杖にも理解できていた。目の前の大人二人は自分を死刑から救うためにあえて自分たちの過去の罪を被り、自ら強力な能力を捨てる道を選んだのだと。虎杖はきつく拳を握りしめた。この二人が自分を救ってくれたのは事実だ。だが彼らがこれまでに20人以上の命を奪ってきたこともまた、先ほどの法廷で明かされた事実だった。葛藤に顔を歪める少年に向かって、術式を失いただの男に戻った日車は静かに告げた。
「俺たちの命は君に預ける。煮るなり焼くなり、好きにしろ」
それは罪を犯した者が下されるべき当然の報いを受け入れる、覚悟の言葉だった。しかし虎杖はしばらく震える拳を握りしめた後ふっと大きく息を吐き出し、その拳をゆっくりと下ろした。
「……助けてもらったのに殴れるわけねーだろ。それに、アンタらにも色々あったみたいだしな」
虎杖のその不器用で真っ直ぐな言葉は彼らに対する明確な赦しだった。泥にまみれ己の法を歪めてまで生き延びてきた二人の大人は、自分たちが救ったはずの少年のそのあまりにも純粋な強さに救われた。
虎杖は「ちょっと頭冷やしてくるわ」と頭を掻きながら気を遣うように劇場の奥へと歩いていき、少し離れた場所で座り込んだ。少年の背中を見送った後日車はゆっくりと向き直った。
視線の先にはずっと死に場所を求め、自らを汚れきった道具だと信じ込んでいた北見遥がいる。術式を失い少し肩で息をしている彼女の姿はいつになく小さく、そして脆く見えた。
日車は彼女に向かって、弁護士としての最終弁論を告げる。
「北見。自分がすべて嘘でできた化け物だと言うなら、その挙証責任は君にある」
彼の言葉にはかつての法廷のような冷徹さはない。自嘲でもなくただどこまでも穏やかで、深い慈しみを湛えた眼差しで彼女を見つめていた。
「だが君が提示したその主張は、先ほどの公判記録によって完全に棄却された。君はたった今自分の命を懸けて、名も知らぬ少年を救うための正しい法理を紡ぎ出した。嘘にまみれた化け物には決して出せない言葉だ」
日車は一歩近づき小さく震える彼女の肩に、自らの大きな手を優しく置いた。それはもう罪を共有するための呪いの繋がりではない。人間として彼女を認め支えるための手のひらだった。
「そのたった一つの真実がある以上、君の自己卑下は、論理的に完全に破綻している」
日車のその言葉は北見がずっと、心の底で誰かに言ってほしかった言葉だった。お前は化け物なんかじゃない。お前の言葉には確かな真実があるのだと。
北見の瞳からいつもの他者を煙に巻くような軽薄な仮面が音を立てて崩れ落ちた。ポロポロと堰を切ったように大粒の涙が頬を伝って落ちる。しかし彼女は泣き顔のまま日車を見上げてしっかりと首を横に振った。
「……違うよ。私一人じゃない」
北見は震える手で日車のスーツの胸ぐらを軽く握りしめた。
「私が少年を救えたのは君がこの地獄に公正な法廷を最後まで維持してくれたからだ」
彼女の声は涙に濡れひび割れていたが、そこには確かな熱が帯びていた。
「君はずっと、自分が法を捨てたただの殺人鬼に成り下がったと絶望していたね。でも君は最後まで手続きを放棄しなかった。自分の命やポイントのためではなく少年の無罪を証明するために、君は自分の領域を、正義を貫くために使ったんだ」
北見は日車という男の高潔さを、今度こそ嘘偽りのない言葉で立証していく。
「法は死んでなんかいなかった。君の心の中にちゃんと生きていたんだよ。……だから、君だって化け物なんかじゃない」
お互いがお互いの最も暗い絶望を打ち砕き、まだその魂に正義が残っていることを証明し合う。これまで共犯者として泥を啜り嘘で相手を庇い合ってきた二人が、初めて何一つ飾りのない真実の言葉だけで繋がった瞬間だった。もう二人はかつて信じていたような清廉潔白な正義には戻れない。その手はすでに多くの血で汚れており、100点という数字の重みが消えることはない。
しかしだからこそ二人は、互いを最も近くで監視し合うことでもう二度と嘘で人を裁かないと無言のうちに誓い合っていた。日車は自らの胸元を握る北見の手を、そっと自分の大きな手で包み込んだ。そしてどこまでも真摯な声で告げる。
「北見。俺たちはもう真っ白な世界には戻れない。だが、一人で背負うには重すぎる罪だ。だから俺の人生を君の人生に併合し俺の隣で罪を雪ぎ続けろ」
それは法というシステムを通してしか世界を見られなかった男が紡いだ、不器用すぎる生涯の誓いだった。その言葉を聞いた北見は一瞬目を丸くした後、こらえきれないように小さく噴き出した。彼女はずっと欲しかった温もりに額を預け、涙で顔をくしゃくしゃにしながら心の底から嬉しそうに泣き笑いする。
「ばかだなあ、日車くん。プロポーズの言葉にしては、センスがなさすぎだぜ」
北見はどこか晴れ晴れとした笑みを浮かべていた。日車の手のひらに包まれた彼女の指先は術式を一時的に没収されたことによる喪失感で震えていたが、その内側には確かに温かい血が通っていた。日車は彼女の不器用なからかいをただ黙って、深く噛み締めるように受け止めていた。その横顔にはこれまでの張り詰めた刃のような鋭さはなく、憑き物が落ちたかのような静けさが戻っている。ひとしきり涙を拭い少し照れたように視線を泳がせた後、北見は浴槽の縁から離れ劇場の奥で所在なさげに佇んでいた少年に向き直った。
「少年、いや、虎杖くんだったか。少し話をしないか」
その呼びかけに自分の頭を強引に冷やすように壁に背を預けていた虎杖は、驚いたように大きな目を瞬かせた。大人の男女が血みどろの地獄の中で互いの存在を証明し合い不器用すぎる約束を交わす様を特等席で見せつけられていた彼は、完全に気まずさで顔を赤くしていた。
「えっ?あ、俺……?」
虎杖はバツが悪そうに頬を掻きながら視線を泳がせる。北見はそんな少年の等身大の戸惑いを可笑しそうに見つめると日車の腕を軽く叩いた。
「ほら、日車くんも!椅子を持ってこようぜ」
そう言って北見は舞台の上へ彼らを誘うように、軽やかに一歩を踏み出した。日車は北見に促されるまま楽屋の隅に置かれていた古びたパイプ椅子をいくつか手に取り、彼女の後を追って動き出した。術式を失いただの不器用な大人の男に戻った日車の背中を見つめ、虎杖もまた小さく息を吐き出して歩みを進める。
「で、あー……まあ、なんていうかな」
舞台の上に並べられたパイプ椅子に腰を下ろしながら、北見は少しだけ気恥ずかしそうに髪をかき上げた。かつて法廷で何千もの言葉を操り完璧な虚構を編み上げてきた彼女の口から、これほどまでにまとまりのない生身の響きを持った言葉が出るのは彼女自身にとっても奇妙な感覚だった。日車は彼女の隣に静かに座りただ無言でその横顔を見つめている。術式を没収された今、ただのどこにでもいる大人の男女の肌がそこにあるだけだった。北見はまっすぐな瞳で自分たちを見つめる少年へ、今度こそ偽りのない言葉を届けるようにゆっくりと視線を合わせた。
「ひとまずはすまなかった、そしてありがとうかな」
自分たちを死刑という極刑から引き剥がすために自らの不完全な法理をぶつけ合い、結果として少年の重い罪悪感を真っ向から否定してのけたこと。その剥き出しの善性で赦してくれたこと。そのすべてに対する彼女なりの誠実な謝罪と感謝だった。
虎杖は「えっ、あ、いや……」と、大人の直球な言葉にまたしても照れたように頭を掻いた。そんな少年の瑞々しい反応に柔らかな笑みが浮かぶ。彼女は黒いスーツのポケットに手を突っ込むと新宿の雨と血戦を生き延びた、少し形を崩した紙箱を取り出した。
「あ、ポッキー食べるかい?」
そう言って北見は箱から引き抜いたチョコレート菓子を、ひょいと虎杖の前に差し出した。それはただの不器用な大人からの、ささやかな歩み寄りの印だった。虎杖は差し出された菓子を見て一瞬きょとんとした後、嬉しそうに破顔した。
「お、ありがたくもらうわ!」
「北見、君というやつは……」
日車は眉間に指先を当て小さく溜息を吐き出した。だがその声は呆れたような言葉とは裏腹に、口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。血の雨の中でただ法理の怪物としてシステムの一部になろうとしていた彼女が、どこか不器用なお姉さんとして振る舞っている。その生身の姿が日車にはたまらなく愛おしく、そして嬉しかった。虎杖はもらったポッキーを一本口にくわえサクサクと小気味よい音を立てながら、どこかそわそわとした様子で見守っている。北見はそんな日車の視線を軽くいなすと再び虎杖へと向き直り、その声音から軽薄な響きを完全に消し去った。
「聞きたいことは正直いろいろあるんだ。なんでそんなどえらい罪を自分のせいだと思ってるのかとか、100点をどうしようとしてたかとか、とかね。私たちもこの死滅回遊を壊すためにプレイヤーになって点を集めてたから」
その言葉に虎杖の喉が小さく鳴った。サクサクという菓子の音が止まる。少年の大きな瞳の奥に先ほど法廷で暴かれた渋谷の記憶が、重い泥のように沈殿していくのが見えた。だが北見は少年の罪悪感をそれ以上追及するような真似はしなかった。彼女の目的はかつて自分が日車を地獄から引き止めたように、この少年をもまた独りの夜から引きずり出すことにある。
「ただまあ、まずは話をしよう。君のことを聞かせておくれ」
北見は穏やかに、しかし拒絶を許さない確かな響きを持ってそう問いかけた。その瞬間、日車は北見の意図を完全に理解した。彼女は少年を尋問しようとしているのではない。この死滅回游という理不尽なゲームの中であまりに多くのものを背負い込み、独りで擦り切れようとしている少年に他者と対話するという当たり前の避難所を与えようとしているのだ。そしてその役割を北見一人に背負わせるわけにはいかない。北見の言葉に被せるようにして、日車は静かに声を響かせた。
「ああ、彼女の言う通りだ。我々もまたこの盤面を変えるために動いていた。だがまずは君という人間を知りたい。……虎杖くん、君がこれまで何を見て、何を背負ってきたのか、話せる範囲で構わない。聞かせてくれないか」
虎杖はくわえていたポッキーを小さく噛み砕き、ゴクリと飲み込んだ。それから膝の上に置いた自分の両手をじっと見つめる。未だに肉体を他者に乗っ取られていたあの日の、生々しい血の記憶がべっとりとこびりついている。
「……俺は」
ぽつりと言葉を零した虎杖の声は先ほどまでの年相応な明るさはなく、酷く低く、掠れていた。
「俺は呪術師としての正しい死に方ってやつが、よく分かんねーんだ」
彼はゆっくりと顔を上げ並んで自分を見つめる二人の法律家へと、その濁りのない真っ直ぐな、だからこそ底知れぬ危うさを孕んだ瞳を向けた。
「じいちゃんが死ぬとき、お前は強いから人を助けろって言ったんだ。大勢に囲まれて死ねって。だから俺、学校の奴らが呪いに襲われたとき、迷わず宿儺の指を喰った。人を助けるための力を手に入れたつもりだったんだ。……でも、結果はこれだ。俺が生きているせいであいつが俺の体を使って、渋谷で信じられねえくらいの人を殺した。俺が指を喰わなきゃあの人たちは誰も死なさずに済んだんだよ」
虎杖の言葉が進むにつれ日車と北見の身体が、目に見えない衝撃を受けたように微かに強張った。二人の脳裏には司法の現場で見てきたありとあらゆる最悪の事態がフラッシュバックしていた。これは自らの意志で悪に手を染めた人間の言葉ではない。特定の目的のために都合よく生み出され過酷な現実に放り込まれ、自らの存在そのものを悪だと信じ込まされている――徹底的に壊された子供の言葉だ。
北見の検事としての冷徹な直感がこの少年の背後にいるであろう大人たちの存在を鋭く察知していた。この少年をただの器として利用し、限界を迎えてもなお前線に放置している組織。それは彼女がかつてアメリカの暗部で見てきた未成年を使い捨ての鉄砲玉にするギャングの構造と何ら変わりはない。
日車もまた己の内側で弁護士としての義憤が猛烈な炎となって燃え上がるのを感じていた。自首することすら許されず、ただ自分の死を救済だと思い込まされている少年。もしここにまともな法があるならばこの少年の周りにいるすべての環境、すべての管理者を児童虐待、あるいは重大な不作為による致死罪で即座に起訴しているはずだった。
「だからさ」
虎杖は自嘲気味にだが酷く静かに微笑んだ。
「アンタらがさっき、あいつのせいだって、俺の罪じゃないって言ってくれたとき正直すげえ救われた気がしたんだ。でもだからって俺の責任が消えるわけじゃねえ。俺はもうこれ以上、誰も殺させたくねえし、誰も死なせたくねえんだ。そのためなら俺の命がどうなったっていい。……この死滅回遊を終わらせるために俺は、やれることを全部やるだけだ」
自分の命の価値を完全にゼロとして計算している。その厳然たる事実に二人は、息を呑むことすら忘れて立ち尽くしていた。
SAN値0だった2人が虎杖セラピーによってやっと正気に戻りました。
素の北見は結構破天荒な女のイメージです(予告)