作戦伝達のために集められた広場は、兵士の集団というより、まだ制服を着ているだけの敗残兵の置き場だった。
訓練兵だけではない。駐屯兵団の兵士たちの中にも、明らかに目の焦点が合っていない者がいる。
どいつもこいつも、顔に同じことが書いてある。
もう無理だ。
次に外へ出れば、今度こそ食われる。
人間は、巨人に食われる前から壊れるらしい。腕や脚より先に、頭の中の何かが折れる。そうなれば、たとえ五体満足で立っていても、戦力としては死体と大差ない。
隣ではヒストリアが小さく息を呑んでいた。少し離れた場所では、先ほどまで拘束されていたユミルが、手首に赤い縄の跡を残したまま立っている。
その時、壁上に立つ小柄な老人の声が、広場の空気を裂いた。
「注もぉぉぉおおく!!!」
ドット・ピクシス司令。
酒瓶でも抱えていた方が似合いそうな、飄々とした老人。だが、その声が響いた瞬間、ばらばらに崩れかけていた兵士たちの視線が、一斉に彼へ向いた。
エレン・イェーガーは、巨人化生体実験の成功者である。
その言葉に、ざわめきが走る。
そのエレンに大岩を運ばせ、破壊された門を塞がせるという。
正気の作戦ではない。だが、この状況で正気の作戦など残っているはずもなかった。
当然,広場は荒れた。
「ふざけるな!」
「そんな訳の分からねぇ話で,俺たちに命を張れってのかよ!」
その叫びを皮切りに,兵士たちの理性が崩れていく。
「俺は降りる!」
「もう無理だ!」
「こんなの作戦じゃねぇ! 処刑だろ!」
列を離れる者が出る。装備を外す者がいる。逃亡を止めようとした上官が刃に手をかけ,広場の空気が味方同士の血で汚れかけた。
その瞬間,ピクシスの声が落ちた。
「ここを去る者を,わしは咎めん」
広場が凍る。
ピクシスは、恐怖に屈した兵士を責めなかった。巨人を見て逃げたくなることを、醜い臆病として切り捨てなかった。
その上で、別の恐怖を置いた。
自分が逃げれば、その恐怖を次に味わうのは誰か。家族か。友か。愛する者か。
逃亡を「自分が助かる選択」から、「後ろにいる者を巨人の口へ押し出す選択」へ変えた。
正義で人を動かしたのではない。
勇気を与えたのでもない。
恐怖の向きを変えたのだ。
(......なるほど、あれが本当の指揮官ってやつか)
広場の空気が、少しずつ変わっていく。顔色は悪い。手は震えている。だが、逃げ出そうとしていた兵士たちの足は止まっていた。
「囮班、前へ!」
駐屯兵の怒号が響き、兵士たちは三人一組の班へ再編されていった。
配属表に並んだ名前を見て、俺は小さく息を吐いた。
アルフレッド・ローマイヤー。
クリスタ・レンズ。
サシャ・ブラウス。
ヒストリアが同じ班にいる。
その事実を確認した瞬間、アルフレッドの中で、張り詰めていた糸がほんのわずかに緩んだ。
「……サシャか」
悪くはない。突拍子もない女だが、勘は鋭い。恐怖で固まるより先に体が動く種類の人間だ。
一方、ユミルの名前は別の場所にあった。
通常の囮班より前線寄り。監視付き。
命令違反者の扱いとしては、あまりに分かりやすい。
「命令違反者は、普通の餌より前に出されるらしいな」
手首の縄の跡をさすりながら、ユミルが皮肉げに笑った。
だが、その笑みは薄い。いつものように相手を刺す鋭さがない。
ヒストリアは不安げに彼女を見ていた。さっきの謝罪の余韻が、まだ完全には消えていないのだろう。ユミルもそれに気づいているくせに、わざと軽薄な顔を作っている。
下手な芝居だった。
「……今度は、ちゃんと自分で戻ってくるよ」
小さく落ちた声に、ヒストリアが息を呑む。
「ユミル……」
「そんな顔すんな。私はしぶといんだよ。あんたが泣くほど簡単には死なない」
「しぶといだけで生き残れるほど、巨人は優しくない」
俺が言うと、ユミルは嫌そうに顔をしかめた。
「いちいち縁起でもないこと言うなよ」
「戻ってこい。クリスタが面倒になる」
ユミルが一瞬だけ目を丸くする。
それから、呆れたように笑った。
「あんた、それ励ましてるつもりか?」
「警告だ」
「本当に嫌な男だねぇ」
ヒストリアは二人を交互に見て、少しだけ表情を緩めた。ユミルはその顔を見て、今度こそ少しだけいつもの調子で笑った。
「じゃあな、クリスタ。そこの嫌な男にちゃんと見張られてろよ」
「ユミルも、気をつけてね」
ユミルは監視役の駐屯兵に促され、前線寄りの班へ歩いていった。
俺たちに合流したサシャは、いつものサシャではなかった。
いや、腹が減っていそうな顔はしている。そこはいつも通りだ。だが、目の奥に妙な暗さがある。
「……私は、駄目です」
「何がだ」
「さっき、補給所で……巨人を仕留め損ねました。ミカサに助けてもらわなかったら、私は今ごろ巨人のお腹の中でした。つまり私は、芋を盗むことはできても、巨人のうなじは削げない女なんです……!」
「比較対象がおかしい」
即座に切り捨てたが、サシャの表情は真剣だった。
補給所で仕留め損ねた恐怖。自分の失敗で誰かを巻き込んだかもしれないという後悔。それが、普段なら食欲で曇っている目に、妙に人間らしい陰を落としていた。
面倒くさい。
怖がる兵士は面倒だ。落ち込む兵士はもっと面倒だ。これから囮として巨人を引きつけるというのに、自分の内側ばかり見ている人間は、だいたい早く死ぬ。
だから、外側に餌を吊るす必要があった。
実に単純で、実に分かりやすい餌を。
「生き残ったら、今日の夕飯のパンを半分やる」
空気が止まった。
サシャの顔が、ゆっくりと上がる。
「……半.....分?」
「そうだ。半分だ」
「本当に?」
「俺が冗談を言うタイプに見えるか」
「見えません!!」
サシャの目に光が戻った。
さっきまで巨人の腹の中を想像していた女が、今は完全にパンの味を想像している顔になっている。
「私、頑張ります! 巨人でも何でも引きつけます! パンのために!」
「人類のために頑張れ」
「もちろん人類のためです! その結果としてパンがあるだけです!」
「動機が透けているぞ」
そのやり取りを、ヒストリアが驚いたような顔で見ていた。
「……何だ」
「ううん。ただ、アルフィがそういうこと言うの、珍しいなって」
「そういうこと?」
「人を元気づけるみたいなこと」
その瞬間、俺の思考が一拍遅れて追いついた。
それは、俺が嫌っていたはずのものだった。
誰かに優しくあろうとする。誰かのために自分を差し出す。
クリスタ・レンズ。
嫌いなはずのその女の真似のようなことを、自分がしていた。
「……なしだ」
サシャの顔から光が消えた。
「え?」
「今の話はなしだ。パンはやらん」
「な、なぜですか!? 今、私の生きる理由が生まれたところだったのに!!」
「事情が変わった」
「私の士気が今まさに壊滅的に変わりました!!」
「うるさい。生き残れ。パンは自分で確保しろ」
「そんな……! 一度見えたパンが消えるなんて……巨人より残酷です……!」
サシャはこの世の終わりのような顔で膝をつきかけた。
ヒストリアが堪えきれず、小さく笑う。
その笑顔を見て、俺は余計に面倒くさくなった。
「……一口なら考える」
サシャが復活した。
「一口でも構いません!!」
「現金だな」
「命がかかってますから!」
「パンの話だろ」
「私にとっては同じです!」
世界は巨人に壊され、作戦は狂気じみていて、次の瞬間には誰が食われてもおかしくない。そんな状況で、パン一口をめぐって目を輝かせる女がいて、それを見て笑う少女がいる。
そして自分は、その笑顔を守るためにまた死地へ戻ろうとしている。
本当に、救いようがない。
次でトロスト区奪還編は終わらせます