弦巻こころがハートに包帯をきつく巻き付けてくれる小説です。

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言葉も音楽も、時の中ではじめて動く。だが、ただ生きるものは死ぬのみ。

言葉は語られたのち沈黙に達する。形により、型により、はじめて言葉や音楽は静止に達する。

──『四つの四重奏』(T・S・エリオット) 第1章・バーント・ノートンより引用



精一杯、精一杯

 

 

 

「出てこない」

「んー?」

 

 同期が聞き返す。出てこないのだ、小説の案が。書き出しすら分からない。ただぼんやりと、山月記のオマージュにしようというヴィジョンしかない。

 

 校舎3階にある文芸部・部室、3月初旬。新入生歓迎会に配布する部誌の完成に向け、各々が部室であったり家であったりで執筆をするさなか。僕は未だに、原稿に手をつけられずにいた。

 

 締切は4月1日放課後。まだ1ヶ月近くあるのに、焦燥感が僕のアイデア袋を埋めつくしている。その中を探ってようやく出る絞りカスのようなアイデアも、取るに足らないものばかり。

 

 要するに僕は、軽いスランプに陥っていた。

 

 原稿用紙を前に、僕は10分か、またはそれ以上、もしくはそれ以下、とにかくそれくらい頭を抱えていた。多分上の吹奏楽部が2曲を演奏し終わったので、そのくらいだろう。

 

 まだ練度の低い『マーチ「ブルースカイ」』と『マーチ「スカイブルー・ドリーム」』が、僕の頭を駆け巡っている。マーチというよりかはカプリチオ。走ってる。

 

 というか、本当に僕の頭に残っているのは『なんでそんなに似た名前の曲にしたんだよ』という疑問だった。ああ、自分のことでもないのにイラつく。

 

「ほい、サプリ」

「便秘じゃ、ない」

「……ふーん?」

 

 ニヤニヤとして歪んだ彼女のそばかすが、形状記憶合金のようにスンと元に戻るのを見た。

 

 普段の僕なら2、3個ボケを増やして返すところを、少しサボっただけだ。何故そんなに冷めた目で僕を見る。腹が立ってきたので、僕は目の覚めるガムをカバンから取り出して口に放り込んだ。

 

 ここ数日、イライラが続いている。クラスメイトが弁当を食べる時の咀嚼音でさえ鼻につく。普段は全く気にならないというのに、妙に外からの光やら音やらの刺激が気になって仕方がない。そんな自分にもまたイライラする。

 

「じゃあもう今回は休む〜? 他のみんなは書けそうだしさ」

「は? 誰が……誰がそんなこと言った?」

「無理して欲しくないだけ。最近苦しそうじゃん、そーま」

「嫌なら書かなきゃ……いいってか」

「誰もそんなこと言ってないって。心配なの、そーまのことが」

「チッ」

 

 舐めてるんじゃあないぞ。ボケ。僕を誰だと思っているんだ。

 

 コイツもそうだし、クラスのアイツやアイツ、あの先公にあの顧問も……全員、敵だ。僕を舐めている。いいように利用しようとしている。

 

 僕からすれば彼らとの関係は単なる人間関係のひとつとして数えているのだが、彼らからした僕は舞台装置。決して直では飲まないバニラエッセンスのようなものらしい。

 

 普段は明るく振舞ってはいるが、ボケに回って周りのムードを良くしたりこそしているが、いざ少し真面目に落ち込むとこうなる。だから今日は学校に来たくなかったんだ。

 

 どうせなんの文も出てこないのだから、ずる休みをすればよかったと、今朝の『いや、ダメだろ。元気なのに、学校に行かないなんて……』とか考えてた真面目な僕ちゃん(笑)を頭の中でボコボコにする。

 

 なぜ真面目に生きようとしてしまうのか。気づけば高校三年生、皆勤賞は目前。少し風邪をひいても、少し目眩がひどくても、そこらの手すりに寄りかかって動けなくなっても、理由など何も無いというのに涙が出てくるようになっても、吐き気がしても、というか吐いても学校に来てしまうのはなぜだろう。

 

 多分、僕は『正しいと思った方向に動くのが正しい』と考えがちなのだと思う。

 

 自分の中でどれが正しいかなんて人それぞれ。正しいかどうかを考える脳と、それを行動に移したり目標にしたりする脳というのはまるで別物である。しかし僕はキチガイなのか脳の異常なのか知らないが、その違うはずの2つの思考回路が直列繋ぎでドッキングしているのだ。

 

 僕にとって正しいのは、きちんと学校へ通うこと。テストでいい点を取ること。授業中に寝ないこと。周りの雰囲気を壊さないこと。弱音を吐かないこと。動物を愛すること。隣人を愛すること。家族を愛すること。病にかかった時は薬に頼りすぎないこと。殴られても殴り返さないこと。もう片方の頬を差し出さずとも、うずくまって嵐が去るのを待つこと。誰かに、僕の都合で、迷惑をかけないこと。

 

 僕と同じ価値観の人間がおそらく多数派だと思う。でも皆、なぜか器用にそれに逆らい、サボってイオンに行ったり、一夜漬けで挑んだテストで爆死したり、寝ているデコにチョークが直撃したり、雰囲気なんざ知るかって不機嫌になったり……誰かに愚痴ったりもする。

 

 教えられた価値観そのままに動いていれば、褒めてもらえた。現に今も皆からはよく褒められる。でも、それは僕が正しいと思ったからやっているのであって、僕のためには1個もなっていない。褒められたところで複雑な気持ちになるだけだ。

 

 僕のことを誰かが正しい、優しいといった類のありふれた言葉で褒める時、僕の『正しいと教えられた価値観』と、ソイツの『正しいと思う価値観』が一致しただけであり、僕自身が正しいわけではない。もちろん、それに価値がないとは言わないが、ただ僕がその褒め言葉に価値を感じない、むしろ気持ち悪いといった感情を抱くだけだ。

 

 僕の行動は、『正しいから』行われている。が、しかしその実、『やりたいから』やっていることでは、そこまでないのだ。

 

 褒められるのが苦手だ。思えば褒められることに対する嫌悪感が出たのは、中学の頃だったか。当たり前のことをしただけなのに、僕を神のように扱いやがった奴が、なぜか僕を下に見ているようで、おちょくっているようで、腹が立った。

 

 どうせ腹の中では、皆が皆のことをうっすら嫌っている。そして僕はめちゃくちゃ嫌われている。

 

 机を強く叩いて、僕は窓を開けた。叩いた音に同期──雨山(うやま) かすてら──がビビったような気がしないでもないが、そんなこと関係ない。どうせ既に嫌いなのだから、今更何をしても好感度なんてすぐに戻らない。

 

 風が吹き荒れ、まっさらな原稿用紙が向かいのドアへと飛ばされる。

 

「……花粉、平気なの?」

「ああ……お前、は?」

「私も別に」

 

 そうか、今は既に花粉が飛んでいるのか。身体だけは丈夫に生まれてきたもので、ヒノキやスギやイネの出すスペルマ的粉末には苦しんでこなかったものだから、忘れていた。

 

「すまない」

「いーよ。それより大丈夫? 原稿用紙……」

「本当は、破いて捨てたいくらいだ」

「まだ書いてないのに!?」

「それよかマシだと、思って」

「それはそうなんだけどさー……はあ、私も書くって気分じゃあなくなってきちゃった。帰る?」

 

 僕のせいだって言いたいのか。コラ。殴ってやろうかと思ったが、暴力では何も生まれないし埋まらないので耐えた。

 

 そんなに帰りたきゃ、というか、僕と一緒にいたくなきゃ、とっとと無言で帰れよ。

 

「……僕は……帰る」

「じゃあ私も〜!」

 

 原稿用紙を踏みつけて外に出る。雨山がカギを閉めたのち、僕についてくる。

 

「ねーぇ」

 

 後ろから聞こえる彼女の声は、どこか沈んでいた。だから、そんなに僕が嫌いなら別で帰ればいいだろ。何がしたいんだ、こいつは。

 

「無視?」

「……」

 

 違う。歩くのに精一杯で、話すことができない。僕はとっさに歩くスピードが早くなる。面倒なことから勝手に身体が逃げようとしているのだ。

 

「あっ、早! なに!? 置いてかないでよー!」

 

 知るか。お前ひとりで帰れ。噂されたら嫌だろ。藤崎詩織がよ。

 

「あ! ちょっと職員室に鍵返すから、待ってて!」

 

 待たねえよ。お前、ホントに僕と一緒に帰る気か。僕はスタスタと玄関に向かうも、ブレザーの首根っこを掴まれ、強制的に職員室の前へと戻される。

 

 ちょうどよかった、今少し早歩きしただけで体力がものすごい持っていかれたんだ。座って休もう。僕はあぐらをかき、壁に身体を預ける。

 

 タバコを吸っているわけでもないのに、最近体力が落ちたように思える。うっすらずっと具合が悪く、学校に来ると、というか外に出ると吐き気と目眩がして太陽の光が鬱陶しく思える。寝れてもいないし、起きれもしない。

 

 僕、近いうちに死ぬんじゃあないかな。死ねたら死ねた方がいいけどさ。

 

 少ししたら、すぐにかすてらが職員室から出てきた。

 

「お待たせ。律儀に待っててえらいね♡ よ〜しよしよし……」

 

 疲れただけだって。僕のことは置いて帰れ。あと撫でるな。昨日風呂入ってないから。

 

「じゃ、帰ろっか」

「…………」

「なに? 動けない?」

「……」

 

 問いかけに答えられず、ただ自分の中に焦りが生まれる。何か答えないと。いや、無視でもいいのか。さっきもしてたし。いや、でもこんな所に座り込んだままでは。いや。

 

 まずい、呼吸が荒くなってきた。というか苦しい。過呼吸か。最近バイト先でも突然こうなって、倒れて早退したっけな。その日、誕生日だったのに早退しただなんて言ったら家族が心配するだろうから、元気になって数時間は、近くの公園でただぼうっと月を見上げていたっけ。

 

 ああ、二酸化炭素が次々に減っていく。こういう時はなんだっけ。そうか、腹式呼吸だか何だかだ。あの内弁慶・キモオタ・キチガイの集まりこと演劇部に体験入部した時にやらされた覚えがある。

 

 なんとか腹を動かせ。あれ、吸ったらへこませるんだっけ。吐いたらだっけ。細かいことを考えようとしては、頭の中が煙のようなものに埋め尽くされ、何もつかめなくなってしまう。

 

 クソが。クソが。僕はまた惨めな姿を晒すのか。いや、最早そんなことはどうでもいい。身体が重い。重力が倍になったようだ。

 

 周りの声や音が薄くなっていき、それでも人々は僕を見て見ぬふりして通り過ぎていく中、突如として口にビニール袋が当てられた。

 

「息吐いて!!」

「……おえ」

「ゲー吐けってんじゃないのよ!? ほら、呼吸!!」

 

 かすかに聞こえるかすてらの声に、僕は素直に従ってビニールの中に息を吐き、そして吐いた息をそのまま吸う。

 

 痺れる唇に、くしゃくしゃとしたセブンの茶色いビニール袋が当たる。ぐるぐると目眩が襲う。それでも僕の口には、吐き出した二酸化炭素が入ってくる。

 

 不思議なもので、心でどれだけ死に向かおうとしても、身体は生に向かい続けるのだ。

 

 何分そうしていただろうか。僕はすっかり落ち着き、いや、ずっと僕の中にあった、うっすらとした体調の悪さまでは改善されないが、立ち上がれるほどにはなった。

 

「……大丈夫?」

「そう、見える、か」

「ううん。でも、立てるなら……よかった。うん」

「すまなかった」

 

 そう言って僕はビニール袋を返し、立ち去ろうとする。が、かすてらはピッタリと僕にくっついてくる。

 

「そこは感謝だよ、そーま」

「……シン・仮面ライダーの、一文字かよ……」

「ん?」

 

 伝わらなかった。死にたい。シンウルは見たって言ってたから、てっきり見てるかと思ったのだが、勘が外れた。

 

 倒れそうにふらふらと歩く僕を支えるように、肩を持って横を歩く。

 

「下向いてたら危ないよ」

「……何が」

「電柱とか?」

「質問に、質問で、返すな」

 

 校内に電柱などない。それに、お前が横にいてその類のものにぶつかったとしたら、それはお前の注意不足でもあるだろう。

 

 そう思ったそばから、こいつは僕の真横でスマホをいじり出した。パスコードが見えると怖いので、思わずまた下を向く。お客さんにクレジットカードの暗証番号打ち込んでもらう時の店員みたいなことを、何故僕がしなくっちゃあならないんだ。

 

「おー。アカイトリノムスメ、勝ったって」

「……秋華賞か……」

「うん」

「確か、戸崎か……?」

「えっと〜……うん、そうみたい」

「……そうか。そうか……」

 

 頑張ったな、アイツ。惜しかった桜花賞とオークスを経て、ついにGⅠ優勝とは。オークスなんてルメールが乗ってるものだから、てっきり勝つかと思ったものだが。

 

 それに比べて僕ときたら、同級生の女子に肩を持ってもらっている。半ば引きずられるように歩いている。

 

 ううむ、ダメだな。いくらか、いくばくか頭の中で思考を巡らせてみたが、あんなに好きだった競馬にみじんも興味が湧かない。

 

 無駄に長く思える正門までの道を、しばらく歩く。いや、実際長い。うちの高校は中庭というか、校舎以外のスペースがやたらと広いのだ。都内で一番渡り廊下が長いらしい。なんの自慢にもならないだろ、それ。と思いながらも、校長は鉄板ネタとしてこの知識を毎回のように話に組み込んでくる。

 

「もうすぐ、正門だね」

「嬉しいか?」

「……ねえ、そーま」

 

 僕の問いかけにも答えず、かすてらは背中へと周り、僕を支える。というか、抱きついてくる。

 

「辛かったら、いつでも言って。電話……は、確か苦手か。個チャ送るのもちょっと抵抗あるんだよね? あっ、ほら、ちょっと鍵垢で愚痴でも言ってくれたら、大丈夫? とかくらいなら言えるよ。電話もSNSも全部面倒になったら……」

 

 抱きしめる力を強め、かすてらは。

 

「こうすれば、大丈夫」

 

 顔が肩甲骨のあたりに埋められ、鼻息が当たる。くすぐったい。力が抜けてふいに膝から崩れそうになるも、彼女はそうならない程度には僕のことをしっかりと支えている。

 

 大丈夫、とは言うがな。

 

「何が、大丈夫なんだ、これの」

「落ち着くでしょ」

「全く。人が、見ている」

 

 衆人環視と言うには周りがドン引きしているような、そんな校門の前で、僕はきつく、強く、かすてらに抱きしめられる。降ってくる雪をその手につかまえ、体温で解けることも気にせずに両手できゅっと守る子供のようだと、僕は思った。

 

 そんなに抱きしめずとも、今すぐに死ぬわけではない。ただ、今は死に場所を探しているだけだ。それが心配だと言われたら、まあ、ぐうの音も出ないのだが。

 

 僕の人生だ。僕のタイミングで死んでみせるさ。なるべく痛くない方法で。勘違いしないで欲しいのだが、僕は首をつりたいわけでも、ダムに身を投げたいわけでもない。

 

 なるべく多くのぼやっとした不安や焦燥感、気だるさや辛さから解放されたいのだ。つまり、消えたいのであって、死にたいとはニアリーイコールではあっても完全なるイコールではない。

 

 この国に安楽死制度がないのが悪い。日本が、日本が僕を追い詰めている。この国が悪い。

 

「ごめんね。今度は2人きりでしようね」

「……誰にでも言うなよ、そんなこと。僕のことが、性的趣向が……オールドタイプの男に見えないのか?」

「前田利家、井伊直政、大内義隆」

 

 オールド時代の男色家を挙げるな。一説によると男色というか、なんか普通にバイ・セクシャルだった説があるが、いまはどうでもいい。

 

 論破しようとするなよ、こんなくだらない一言につっかかってさ。やっぱお前、僕のこと嫌いだろ。

 

「僕の守備範囲は、主に年の差プラマイ15だ」

「未就学児いけンのッ!?」

「……冗談を返せば、これだよ。お前は、僕を、どうしたいんだ」

 

 いや、ただ単にこれはノリがいいというやつか? 

 

 ああ、ダメだ、目に入るものすべてが僕を害する敵にしか見えなくなっていた。そんなことは決してないというのに。強いて言うなら家族は絶対に味方だ。この前、病院に連れていくって言ってたし。うっすら顔色が悪かったのに目を瞑れば、僕のことを思ってくれるいい親だ。

 

「ごめんごめん」

「帰っていい、か……」

「あー、待って待って」

 

 手を振りほどき、彼女から離れるも、またすぐに捕まってしまう。しかも正面からハグをされる。

 

「最後にもうひとぎゅー」

「あまり言いたかないが、お前は、僕に殴って欲しいのか? 辱めだ、こんなものは」

「私にぎゅーされるの、嫌?」

 

 嫌とかじゃあない。お前が嫌だろ、むしろ。僕は特にお前に抱きしめられようとキスをされようと構わないのだが、その、そんなに情熱的なハグを正面からかまされると。

 

「アイツの前では、やめてくれ」

「……あっ」

 

 正門の物陰から、こころが物珍しそうにこちらを覗いていた。

 

 目が合った時、はっと驚き隠れ、そしてまたちらりとこちらを覗き見るこころ。その目線は、どちらかというと僕の顔ではなく、僕の腹あたりにある、かすてらの手に行っていた。

 

 照れながらではあるが、こちらに近づいてくるこころ。そういえば待ち合わせなど一切していなかったのに、何故ここにいるんだ。

 

「い、一緒にっ。帰ろうと、思ったの」

 

 物珍しい表情だ。基本的にこいつは笑顔を絶やさぬ人間であり、寝ているときでさえうっすら笑顔というモナリザみたいな奴だから、こうやって少し狼狽えているのはあまり見ない。

 

 何に動揺しているのかはいまいち分からないが、とにかく僕はかすてらの手をゆっくりとほどく。当のかすてらはというと、こころに見つかって苦笑いしながら硬直している。

 

 お前らの間に何があったんだ。そうしてこころを一瞥すると、彼女はびくっと肩を震わせ、ただ黙って後ずさる。

 

 少し不安定な、酔っ払ったような足取りで、僕はこころに近づく。

 

「何を……怖がっているんだ」

「っ……」

 

 僕に言えない話だったらそれでいい、ただ友達同士が少し気まずそうなのが気になっただけだ。

 

 そうしてこころに近づくと、後頭部にチョップが飛んできた。

 

「あんたのせいだよ!」

「ンだよ、全部僕のせい?」

「ち、違うの! ただ、その……今の颯舞(そうま)は……」

 

 どこか泣きそうにも見えるこころは、言葉に悩み、悩んで、ついに耐えきれなくなったといった様子で僕の手を握る。

 

「深い、深い海の底にいる、なんでも食べちゃうクジラみたい」

 

 涙目、かつ上目遣いでそんなことを言うものだから、僕の元々いっぱいだった頭の中はクエスチョンマークでさらにパンパンになる。

 

 どちらかといえば、死んだ魚の目と揶揄されることが多いのだが、目全体を魚そのものに例えるとは。感受性が豊かすぎて、僕には意味が分からないな。

 

 こころの手の力は強くなっていく。ひょっとしたら僕くらいの手だったら折れるかもしれないな。肉がついていないもので。

 

 背骨を押される。振り返ると、やれやれ顔のかすてらが、どこか諦めたように笑っていた。

 

「行ってきな。一緒に帰るんでしょ」

「僕は、まだ、決めたわけでは」

「いいから!」

「? ……うん。じゃあな」

 

 こころはかすてらに礼を言い、僕を引きずるように連れていく。いつも受け身だな、僕って。

 

 江戸川区の街並みは、新宿や渋谷のそれと比べてそこまで変わらない。こと、僕らの住んでいるような下町感溢れる地区においては、なかなか味のある風景が拝める。

 

 シャッターが動くことをサボっている店。すっかり色褪せたポスター。ピンク映画でもやっていそうな風情のおんぼろ映画館。商店街に並ぶメガネ屋、時計屋、純喫茶。そしてひとつまみの、申し訳程度の自然。

 

 川の上にかかる橋を、ゆっくり、ゆっくりと僕らは歩いていく。普段、こころは僕を置いていくくらいの速さで歩いて、というか走っていってしまうくらい元気なのに、今日はどこかしおらしい。

 

 たまにこちらを振り返り、僕が伏し目がちにふらふら歩いているのを見て、目を合わせてはにこりと微笑む彼女。彼女のペットとして散歩に連れて行かれているかのようだ。

 

 そんなに僕を手のひらにおさめたいか。と、彼女から目を背けると、ふと横にあった川が目を焼く。

 

 傾いた陽の光が水面に反射して、やたらと眩しい。ただ、それでも水の流れはどうしようもないほどに美しく、川沿いに咲いた桜の花びらが水面に落ちては流されていく。

 

 ああやって生きていけたら楽なのにな。川の流れに身を任せ、ゆらゆらと、ゆらゆらと流れていって。

 

 いや、川に入って今の僕をとりまく流れから脱することなら、まだできる。遅くは無い。そう思った瞬間、僕は川を見て立ち止まった。

 

 こころと繋いだ手が、手と手が、腕と腕が、ぴんと伸びる。僕が立ち止まったことに気づいてこころは足を止め、こちらを見る。

 

「川に何かあるの?」

「………………」

「んっ?」

 

 しばらく見つめていても、こころは手を離さず、むしろこちらに戻って僕の隣にぴたりとくっついて立つ。

 

 僕には、この手を離すことはできない。飛び込むほどの勇気も持ち合わせていないというのに。

 

 こういう所で踏み出せないから、僕はいつまで経ってもダメダメなんだろうな。

 

「綺麗、だな」

 

 苦し紛れに僕がそう言うと、こころは笑って。

 

「……ええ、そうね! 綺麗ねっ!」

 

 僕にはあれが、美しい三途の川に見える。地獄へと僕を連れていく、凪いだ水面。いずれ船頭さんが来るに違いない。その前に、あの川へと飛び込み……。

 

 ふと、小野塚小町の言葉を思い出した。『自殺をする奴は、悟った賢者か、考えすぎた愚者だけだ。九分九厘、後者だがな。愚者は、自殺を正当化するという事が愚かという事に気付かない』──。

 

 それでも、僕にはあの川がとても綺麗に見える。僕を全てから解放してくれるからだ。もちろん痛みや苦しみは襲ってくるだろう。しかし、これから僕の味わうそれらに比べたら、総量としては自殺の方が少ないと思うのだ。

 

 死そのものが、僕には美しく魅力的に思えるのではない。生きるという選択肢をとる気にならなかった。できることなら全身が灰になって消えられる方がいい。人生を終わりにしたい。安楽死がしたい。それくらいには、僕の頭に余裕はない。

 

 ただ、僕は吸血鬼ではないから、安楽死制度が日本にはないから、僕は死ぬという道を選ばざるを得ない状況になっていると言った方が正しい。

 

 こころは、その後少しだけ黙って。

 

「綺麗だからといって、無理して行くことはないわ」

 

 心の中でも読み取られたか。僕はこころの方を見る。

 

「どうせ行くなら海にしましょっ。そろそろ夏よね? 前に行った島が……」

 

 こころは僕の方を見ずに、川を見て楽しげな、いや、楽しげに計画を話す。僕にとって、そんなハードなスケジュールは、今は拷問だ。

 

 そして、海が楽しいかどうかを、僕は考えていない。少なくとも、ここから飛び込んで溺れて死ねたなら。海に行くなら、そこに沈むことができるか。

 

「たしか、に……」

「! ……ふふ」

「今より楽には、なれるかも、しれない」

 

 こころの夏の計画をひととおり聞き、僕はぽつりとつぶやく。すると、彼女は。

 

「ええ。少し、楽になるかもしれないわ」

 

 そんなことを言いながら、優しい笑顔で僕のことを撫でるのだ。ああ、多分、海に行ったら楽しくて精神的に楽になれると思ってるんだろうな。

 

 違うんだ。僕は今、海に入って死ぬことを考えているんだよ。死ぬ、って何か分かるかな。さすがに分かるか。

 

 黙って川を見つめる僕の肩に、こころは頭を寄せる。そして、僕の方を見て。

 

「あなたも綺麗よ」

「……ふうん」

「だから……」

 

 少しの沈黙が流れ、こころは震える唇をひらいた。

 

「死なないで」

 

 少し鼻声になったこころの声は、僕というか、川、そして虚空に向けられているように見えた。

 

 本当に伝えたいことというものは、しばしば誰もいない方に向けて話される。歌だってそうだ、心を込めて歌う時ほどつい目を閉じてしまったり、どこでもない、ここではないどこかに向けられていたりするのだ。

 

「あなた、最近おかしいわ」

「なに、が」

「……だって、喋り方が……」

 

 思わぬところを突かれ、というか自覚していないところを突かれ、僕は少しびっくりして目を見開く。

 

「……誤字脱字の類じゃあ、ないか?」

「違う。今のあなたは、話すので精一杯に見えるの。無理しないでちょうだい」

 

 確かに今の僕は、話すことで精一杯だ。できれば心の中で思ったことを、そのまま読み取って欲しいくらいだ。心に余裕がないから、何かを考えることさえも面倒なこともしょっちゅうだ。

 

 しかし、そうか。他人から見て違和感のある話し方だったか。次からはもっと頑張って隠さないとな。

 

 僕が勝手に落ち込んで、沈んで、病んで、そういった鬱屈とした気持ちになっているだけなのだから、それを察されてどうにか他人に動かれたり、嫌われたりすることを、僕はそれこそ鬱陶しく思うのだ。

 

 僕の努力不足で、こころに余計な感情を動かせてしまった。いや、もう動いていないかもしれない。愛想が既に尽きているかもしれない。それにしても、ともかく。

 

「どこまで……知ってるん、だ」

「あなたがかすてらに話したことは、全部聞いたわ」

 

 なるほど。なら、表面上のこと、つまり僕の目に見える症状しか知らないな。

 

「頭が割れそうになったの。あたしには、どうしても……その……」

「『死にたい』」

「!!」

「それが、分からないんだろう」

 

 僕の最近の口癖を聞いて、そんなにびくっとするなよ。失礼だな。

 

 それでもこころは、川から目を離さず、僕の手を離さずのままだ。

 

「ねえ、あたし……どうしたら、あなたを笑顔にできるかしら」

「あえて……冷たい……言い方を、するなら、僕にも分からない」

 

 あえて、というか、こんな言い方しか頭に出てこなかっただけだ。わざとじゃあないですよってアピールをするために、『まァ、こういう言い方は違うかもしれないですけど』とか『決して悪い意味じゃあなく、いい意味で』とか、そういう言葉を付け足すのは、僕は悪だとは思わない。余裕のない時に言われるとイラつくけど。ただの保身だから。

 

 こころは「そう」とだけ言い、少し震えた手で僕の腕にしがみつく。身体を密着させて。

 

 前はこういった距離の近い彼女にいちいちドギマギしていたものだが、今となってはそんなことはどうでもいい。性欲も、またそれに並ぶ食欲や睡眠欲もなくなりつつあるのだ。

 

 僕の腕の感触を全身に感じながら、擦り寄るように腕の形を確かめる彼女は、どこか寂しそうだった。

 

「ずいぶん、痩せたのね」

「そうでもない、だろう」

「あたしがおばあちゃんになって目が悪くなっても、あなたの手の感触を覚えていれば、あなたがそこにいるんだって……分かると思ったのに。これじゃあ、はじめから覚え直しよ」

「そんなに…………生きられないよ……」

「……生きるのよ。あたしと一緒に、ずうっと。立てなくなって、歯も全部抜けちゃうまで」

 

 ひとりで老人ホーム行くよ、そこまでになったなら。

 

 君がおばあちゃんになる時、僕はそばにいない。もし僕がそんな歳まで生きながらえていたとて、君はこれから許嫁とでも結婚するんだろう。相手はおおかた親の決めた人間か、家の使用人。そんな小説、沢山見たぞ。

 

「あの子、寂しがっていたわ。あなたに抱きついた時」

「君にどうして、そんなことが分かる」

「泣きそうだったもの。あんなに悲しいハグは見たことがないわ。あなたの細くなった身体を、全身で感じていたんでしょう」

「痩せてた方が……タイプなのかな、あいつ……」

「心配していたのよ。きっと、前のあなたのことが好きになったんだから……今のあなたも好きだと思うけど、できれば元に戻って欲しいとは言っていたわ」

 

 心配。僕にはその2文字が、どうしても受け入れられなかった。それもあのかすてらが? 信じられない。

 

 あいつでないにしても、僕の心配なんて時間の無駄だ。まだ汚水を飲むことしかできない外国の子供に思いを馳せた方が、有意義な時間になることだろう。

 

 僕は価値のない人間だ。文字の書けない僕なんて、サンタクロースのいないグリーンランド、ポップコーンシュリンプのないサイゼリヤ、タミヤ製品のない模型店だ。ようするに魅力も人間性もなくなり、ぬけがらと化してしまう。アイデンティティをひとつの何かに一任してしまうというのも、いかがなものかと今になってみて僕は思うね。

 

 弦巻こころ自身からは笑顔がなくなっても、僕からすれば弦巻こころだ。何故なら、肝心要の『世界を笑顔にする』という思想は消えていないから。

 

 でも、僕にとってものを書くというのは生きる軸であり、生きる目的であり、全ての日常がそれのための糧であったからである。

 

 僕だって元に戻りたい。周りが戻って欲しいと言うのも無理はない。しかしそれは同時に、そうでなければ僕が存在価値のないものだと、真に周りに思われていることにもなる。

 

「好きな人が心配になったのよ……あなたのことを話しているあの子は、バカだとか真面目すぎるだとか云ってこそいたわ。それでも、ずうっと、ずうっと、あたしの前で涙を流していたの」

 

 涙。

 

 その言葉が信じられず、認められず。前の僕でなければ僕ではないような言い方にムカつき。

 

「ドライ、アイ、だな」

 

 気づけば、そんな言葉が口から出ていた。

 

「酷いこと言うのね」

「あいつの泣いてるところなんて、見たことがないもので……」

「あたしのことも信じられない?」

 

 そういう話をしてるんじゃあねーだろ。ダボが。

 

「君のやっていることは、笑顔と、思いやりの、押し売りだ。前に戻れというのも、それまたエゴだ」

「……あなたのやっているのが、笑顔と思いやりの拒絶なのよ」

 

 黙れ。僕を否定するな。今の僕を否定し、拒絶するな。今の僕だって、紛れもない僕であるというのに。

 

「今の僕に、価値は……ないか?」

「……目に前みたいな光がない、あたしを楽しませてくれることもない。このくらいで、あたしは嫌いにならないけれど……そうね」

 

 ここに来て、彼女は久しぶりに僕の目をきっと見て言った。

 

「人の優しさを踏みにじって、泣く人を無視する。それは、あたしからすれば正しくない行いだと思うの」

 

 僕は正しい行いをしているつもりはない。正しいと教わった行いをしている。いや、それにしても今の僕は酷いやつだろうか。

 

 ああ、分かった。僕は李徴、というか、虎になってしまったんだろう。

 

「優しさも入れないくらい、あなたの心はいっぱいになってしまったのね」

 

 虎というのはおそらく、李徴からして『なりたくない自分』。自分を俯瞰して見た時に、こんな僕は最低だと思うような、そんな自分。周りに迷惑ばかりをかける、自分のクソの後始末もできぬ、まさに獣のような存在。

 

「でも、大丈夫よ。あたしはあなたを見放したりしない。みんなが敵になっても、あたしだけは、ずうっと傍にいるわ」

 

 自分が虎になりゆく様を、どこか他人事のように見れる自分がまた嫌になる。ああ、そうしてやがて人間に戻ることが苦しくなり、元から自分がけだものだったように思えてくるのだ。ダムの底に沈んだ村を、村と呼べないように。

 

「……だから……ッ……だから、もっと頼ってちょうだい。あたし、あなたがいなくなってしまうなんて耐えられないわ」

 

 まさに蟻地獄。自分のやることなすこと全て否定され始め、それでも虎であることしかできない。当人としては、ただただ生にしがみついているだけだから。そうして、生きているだけで迷惑をかけ続け、死にたくなっていく。人間であることを忘れ、棄てていきながら。

 

「……颯舞?」

 

 虎になるとはそういうことなのだろうと、俺は山月記を思い出しながら。

 

 目眩に身を任せた。

 

「!!!」

 

 倒れた時、地面に頭がぶつかった時にようやく感じた。いつものように、逆らえる大きさの目眩ではなかった。

 

 人はもともと四つん這いに近い状態から立ち上がり、今の姿になった。目眩というのは、いわゆる先祖返り。人間の頭が、地面が遠いのに耐えられなくなり、地面に近づこうとして倒れるような目眩をおこすのだろう。

 

「颯舞っ!!!」

 

 こころは僕のことを、軽々とお姫様抱っこで持ち上げる。目を開けることさえおっくうになり、僕は目を閉じたままこころの叫びに近い声を間近で受ける。ああ、ちょっとうるさいな。

 

「どうしたの!! ねえっ!!」

「……よく、ある。気に、するな」

「こんなのが……よくある……??」

 

 信じられないといった眼差しが僕を刺す。まあ、普通の人間はそんなこと、徹夜を連続でするか、病にかかるかをしない限りはないものだからな。

 

 肩をぽんぽんと叩くと、こころはその場で僕を降ろしてくれる──かと思いきや、近くのベンチまで運んでくれる。

 

 硬い木のベンチに寝そべる僕は、少し赤くなった空を薄目で見て。

 

「帰れ」

 

 こころは「嫌よ」と返すが、僕もそう迷惑ばかりかけてもいられない。「黒服さん、そこら辺にいるんだろ。すぐ帰れるはずだ」と、無理して笑ってみせる。

 

 大丈夫だ、と言いたかったのだが、こころはそれでも泣きそうな顔で僕を見ている。

 

「あなた、人のことばかりね」

「人のことばかりな、自分のこと、ばかりで……僕は、どうでもいい」

「ッ!! 二度とそんなことを言わないでちょうだい!!」

 

 そう言って、僕を睨むこころは、僕の胸に顔を埋める。怒ってるのか怒ってないのか、それとも今にも泣き出しそうなのか、はたまたその全部か。僕は分からずに困惑していた。

 

「あなたが人を愛するように、人もあなたを愛するのよ! 人が救いを求め、主が救いを望むようにッ!」

「……神なんてのは……罪という概念を考えた、つまらんヤツさ……」

「残される側の気持ちは、考えてないのかしら」

「知らない。死んだ後の、この世界に、興味は無い」

「あなたは人のことが考えられるの! 少し頭を回せば分かるはずよ!」

 

 口からの出まかせが、すべて打ち砕かれていく。いい気はしないな。イライラしてくる。自分に。

 

 僕はそういうことを言いたいわけではないのに。口下手なのだろうか、僕という人間は。イラつきにまかせて少しヒートアップしてきた僕は、普通にベンチに座り始める。こころもその隣に座り、僕らは首だけを互いの方に向ける。

 

 しばし言い合ったのち、こころは「だからっ!!」と大声で言い、ふと冷静になったように肩で息をする。そして、僕の頬にキスをし、抱きしめる。

 

「あなたのこと、愛してるわ。あたしは……あなたのことが大好きよ。いつもみたいに、あたしを笑わせてくれるくらいの、生きてゆく力がなくっても。あなたのいいところでもある、少し真面目すぎるところが、悪目立ちしても。あたしは絶対に、あなたを見捨てたりしない。離れたりしない」

 

 何回かこうしてハグをされたことはあるが、今回はその中でも特に強いもので。決してどこにも行かせないという気持ちがあらわれているかのようだった。

 

「好きよ」

 

 もう片方の頬にもキスをされる。キリストって多分そういう事が言いたかったんじゃあないと思うぞ。

 

 というか。

 

 えっ、なにキスしてるの。付き合ってもないのに。言い合いで体力を使い切ってしまったからか、それに突っ込む間もなく、僕はいいようにキスをされてしまう。

 

「……海外では挨拶よ。これがあたしなりの、親愛なるあなたへの、挨拶……」

 

 明らかに動揺する僕を、彼女は思い切り抱きしめてうやむやにする。

 

「少し歩きましょう。ゆっくりでいいの……いきなり帰り道にまっすぐだと、身体がびっくりしちゃうわ」

 

 立ち上がってこちらを向き、まるで姫をエスコートするかのようなこころの手。

 

 僕は少し赤くなった頬でこいつの横にいるのは、いささか恥ずかしいと思い、首を横に振る。もう十分だ。先程よりも少しだけクリアになった頭がその証拠。

 

 今日は死ぬって気分でもなくなったんだ。

 

「ひとりで……帰れるさ」

 

 だから、大丈夫。

 

「じゃあな」

「!!!」

 

 そうひらひらと振った手に、こころが噛み付くような勢いですがる。

 

「……何」

「今のあなたを、一人にできるわけがないわ」

「子供じゃあ、ないんだぞ」

「次会う時には!!! あなたは死んじゃってるかもしれないじゃないっ!!!」

 

 ビリビリと、空気が揺れる。その一言で花でも散りそうだった。

 

 死んだらその時はその時だ。墓に僕の大好きなチェリオでもかけてくれればいいさ。まあ、今となっては口にするものの味など、殆どが砂や鉛のように感じて、分かりはしないが。

 

 こころはまるで、僕が事の重大さを分かっていないかのように、後ろから肩を持ってしっかりと言い聞かせる。

 

「またね、って、言ってちょうだい。まだ話していないことが、沢山あるのよッ」

 

 僕は雨。彼女は桜だ。僕は彼女のことが好きで、彼女のいる地上へと降り立つが、その度桜の花びらは雨粒や風にうたれ散ってゆく。

 

「だから……死なないで……お願い、消えないで……ッ」

 

 彼女を気遣おうとするも、ずっと空回り。それどころか彼女の精神が削れていく。ああ、こんなに優しくて可愛くて、僕みたいな奴にでも優しくしてくれる彼女を傷つけるだなんて。

 

 彼女という桜を散らしてしまう僕なんて、きっと台風級の大雨に違いない。大粒の涙をこぼすこころを見て、僕はそこではじめて、ああ、僕の思考回路はこいつの思考回路とまるきり噛み合っていないんだなと感じた。

 

「だから、もっとあたしに甘えていいの。周りを頼っていいのよ。文を書くことを休んでもいいし、少しくらいなら学校に行かなくてもいい。あなたは、ひとりで……生きているわけじゃあないんだから……あたしが、いるんだから……」

 

 はっきり言えば、言ってしまえば、僕は彼女にとって、害となる存在だ。それでも彼女は、僕に手を差し伸べた。それを払い除けるなんて、僕は蜘蛛の糸を噛みちぎろうとしていたのかもしれない。

 

 先程まで話していたかすてらもそうだ。そしてここで、僕はもうひとつはじめて感じたことがある。

 

 今の僕は、存外に無理をしていたらしい。その言葉を聞いて、『甘えていい』という彼女の言葉を聞いて、僕の目からは温かいなにかがこぼれていた。

 

「……いいのか」

「?」

「あ、甘え……て……いいのか……??」

 

 泣き顔を見せることもいとわず、僕は彼女の方を振り返る。すると、彼女も僕と同じくらいの泣き顔だった。

 

「いいに決まってる!!!」

 

 そうして僕は、本日何度目かも分からないこころの抱擁を受け、なんだかその身体の柔らかさに安心感を覚え、せきをきったように声を上げて泣き出してしまう。

 

 いい歳して、と一瞬思ったが、まだ17なんだ。大声上げて泣くくらいは大目に見てくれ。

 

「甘えちゃダメとか、あなたが苦しむくらいなら決めないでちょうだいっ!! あなたが嫌と言っても、あたしはあなたに頼られたいと、ずっと、ずうっと思っているのよ!! また今みたいに言い合ってスッキリできるなら、あたしが相手になるし!! かすてらもそれを望んでいるはずよッ!!」

 

 はあはあと息を切らすこころは、一区切りして、僕と目を合わせる。僕の顔を両手で持って。

 

「みんな……あなたが、好きだから」

「ッ…………」

「苦しい時は泣きなさい。辛い時はもがきなさい。痛い時は叫びなさい。そうじゃあないと、あなたの助けてって声が届かないじゃない……助けて欲しい時は、言えばいいの。周りの人の迷惑なんて気にせず、大声で助けを求めるのよ」

 

 少し見上げて僕のことを撫でるこころの目は、涙ながらにも微笑んでいて。まるで、愛しいわが子を抱き上げた時のような、晴れ晴れとした表情になっていた。

 

 彼女は「やっと泣いてくれたんだもの。大丈夫、涙のあとは必ず笑顔があるわ……」と、優しい笑みを浮かべて僕を見つめる。

 

 彼女の好きな詩には、『涙や痛みは肥えとなり、やがて笑顔という花を咲かす』というものがあった。

 

 そうか、そうかと、しだいに僕の口からは、我慢していたあれこれがぽつぽつと漏れ出てきた。

 

「い……生きていても、いいと……言ってくれ」

 

 一度はおさまったはずの涙が、言葉と共にぼろぼろ出てくる。話せば話すほど、僕の中の後悔や、反省や、呪いや、恨みや、その先の希死念慮までもが出そうになる。

 

「そんなこと、と……思うかも……しれない。でも……最近、ぶ、文が……小説がっ、か、か……書け……なくっ、て……」

 

 途中で崩れ落ち、どうしても泣いてしまって言葉の続きが出てこない僕を、目線を合わせてしゃがみながら撫でてくれるこころ。

 

 彼女はそうして僕を見て、「そんなこと、だなんて思わないわ。あなたにとっての大きな悩みなんでしょう?」と微笑む。

 

「今のあなたも、昔のあなたも。過去も未来もひっくるめて、全部……全部が颯舞なの。あたしはその総てを愛しているわ。だから、書けなくてもあたしは嫌いになんかならない。ましてや死んで欲しいだなんて思いもしないわ」

「っ……う、あ……」

「あなたは、生きていてもいいのよ」

「ああ……ああっ……!!」

 

 こころは僕をベンチに再び座らせ、泣き止むまでずっと背中を撫でてくれた。

 

 これから何度も僕は、僕自身に心を砕かれ、打ちひしがれ、また死にたくもなるだろう。きっと、こころや、みんなの助けを拒んでしまうことも、またあると思う。

 

 でも、彼女がいるなら。こころがいるなら、僕の人生の涙、その先にあるのは笑顔だと教えてくれるだろう。彼女は世界を笑顔にする、みんなのヒーローなのだから。

 

 僕は彼女のような人のことを、ヒーローと呼ぶんだと思う。アンパンはくれないけど。いや、多分言えば山ほどくれる気はする。

 

 そのうち、僕の味覚が戻った時は、彼女とご飯を食べよう。めいっぱい、もういらないって言えるくらい。そうして沢山寝よう。彼女の隣で眠り、彼女と共に目覚め。彼女と共に、歯磨きをしたい。少し、欲張りすぎかな。

 

 前にお泊まり会は何度かしていたんだ、断られることはないだろう。久しぶりに、彼女の家に行きたい気分になってきた。

 

 頭の片隅の希死念慮は、完全に消えきってはいない。いや、多分このままでもいいんだろう。死にたいという気持ちなんて、人によっちゃあいつ出てもおかしくない。誰に出てもおかしくないのだ。

 

 ただ、僕はそれが身近にあるだけ。それだけなんだと思う。

 

 考えれば問題は山積み。新学期にきちんと学校にいけるか。病院にはきちんと行くべきか。部誌も完成するか心配だ。作品を見ることが億劫になって、積んでいるゲームや小説の山もある。

 

 春休みを使って、ゆっくり考えるとしよう。少なくとも僕には、死を悲しんでくれる人がいる。そして何も、それはこころだけじゃあない。

 

 生きることに少し義務感が出てくるかもしれないが、僕は僕を取り囲む人間たちのことが嫌いではない。だから、その人たちのためにも、もう少しだけ生きてみる……いや、死ぬのを先延ばしにするのも、寄り道をしてみるのもいいだろう。

 

 ようやく泣き終わったあとのしゃっくりも終わったところで、こころは「颯舞」と優しく声をかけてくれる。

 

「行きたいところはあるかしら? どこにでもついていくわ」

 

 素直に僕は、スマホを見ながらなどして少し考えて。

 

「吉祥寺……パトレイバーの、デッキアップがあるらしい」

「ぱと……?」

「……かっこいい……ロボットがいる」

「まあっ! 素敵ね!」

 

 正式に言うならば、特殊車両というかレイバーだが、というかイングラム、もっと言えばアルフォンスだが、ロボはロボだ。

 

 前までのワクワク感こそ少ないものの、それも今だからなんだと思う。いずれ、僕は生きていてもいいと心の底から思えるようになる。

 

 そして、こころと笑い合える日が来る。

 

 この人生は、死ぬまでの大きな寄り道のようなもの。好きなことをして、たまには嫌なこともして、色んなことをして。

 

「……颯舞、耳を貸してちょうだい」

「ん」

 

 いつの間に来ていた吉祥寺行きリムジンに乗り込む前、彼女は黒服さんには聞こえないような声で、あることを耳打ちする。そして。

 

 僕は息の苦しくなるくらいの愛を受け取った。むちゃくちゃなこころの行動に、口角が少しだけ上がった気がした。


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