悪魔に利用されてますが、その悪魔を人に戻すことにしました   作:白井ライ

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魔術師 リネア

 数日後――あの戦いが嘘のように、街は静かだった。

 

 あたし達は身支度を整え、ホテルをチェックアウトした。

 

「忘れ物、ないよね?」

 

 荷物を軽く叩きながら振り返る。

 

「大丈夫だよ。買い物も完璧だし!」

 

 ナキリが自信満々に胸を張る。

 

 ……その自信、どこから来るのよ。

 

 一抹の不安を覚えつつも、あたしは肩をすくめた。

 

「それじゃ、船着き場に向かいましょうか」

 

 あの騒動から数日。

 街は何事もなかったかのように、いつもの喧騒を取り戻していた。

 

 けれど、あたし達の旅は、まだ続いている。

 

 港へ向かう足取りは軽い。

 次の目的地はシンベリー。カイルさんの故郷だ。

 

「ちゃんと礼、言わないとね」

 

 ぽつりと呟くと、胸の奥がじんわりと温かくなった。

 

 やがて辿り着いた港には、大型船が悠然と停泊していた。

 

「ミスト様とその御一行ですね? どうぞご乗船ください」

 

 受付はすでに話が通っていたらしく、手続きは驚くほどスムーズに終わった。

 

 船内へ足を踏み入れた瞬間――

 

 軋む木の床の感触とともに、潮の匂いがふわりと鼻をくすぐる。

 それに混じるのは、焼きたての肉や甘い菓子の香り。

 

「なになに……ビュッフェに演奏会まであるのか」

 

 案内板を見上げ、トウマの目が輝いた。

 

「一週間の船旅だからね~」

 

「一緒に回りましょうね、トウマ♡」

 

 ナキリが自然な動きで腕を絡める。

 

 ……ほんと、相変わらず。

 

 その背中を眺めながら、あたしは小さく息を吐いた。

 

 やがて、しばらくぶりの風が吹き、船体がわずかに震えた。

 

 ゆっくりと港を離れていく。

 

 遠ざかる街並み。

 水平線の向こうに広がる、まだ見ぬ世界。

 

 胸の奥が、じわりと熱を帯びた。

 

「……コモエディアも来ればよかったのに」

 

 ぽつりと呟く。

 

 あいつはマリッツァで別れた。

 何か用事があるらしいけど――

 

 悪魔の考えなんて、分かるはずもない。

 

 それでも。

 

 少しだけ、物足りなさを感じてしまうのは――きっと、気のせいじゃない。

 

 ――だが。

 

 この時のあたし達は、まだ知らなかった。

 

 魔王の領域へ近づくほど、世界そのものが牙を剥くということを。

 

「うぇぇ……船酔いヤバ……」

 

「トウマぁ、しっかりして」

 

 出航して間もなく、案の定トウマはベッドに沈んでいた。

 

 顔色は真っ青。完全にダウンしている。

 

「だから食べ過ぎるなって言ったのに……」

 

「くそっ……ビュッフェが……」

 

 後悔するポイント、そこなのね。

 

 ナキリが優しく背中をさする。

 

「ナキリ、看ててくれる? あたし、水とか薬探してくる」

 

「ええ、任せてちょうだい」

 

 頷き合い、あたしは部屋を出た。

 

 *

 

 食堂に足を踏み入れた瞬間――

 

 ざわめきと歓声が一気に押し寄せてきた。

 

「すげえ! 一発で治ったぞ!」

 

「次、お願いできますか!?」

 

 視線の先――

 

 人だかりの中心にいたのは、一人の少女だった。

 

 とんがり帽子を深く被り、灰色の髪を揺らす小柄な体。

 年は――どう見ても子供。

 

 なのに。

 

 周囲が無意識に距離を取っている。

 

「横になって。……体内魔力を調節する」

 

 静かな声。だが逆らえない圧がある。

 

 少女が手を取ると、淡い光が滲んだ。

 

「【調律(チューン)】――ほら、直ったよ」

 

 その瞬間。

 

 ぐったりしていた男の顔色が、嘘みたいに戻る。

 

 (……なに、あれ)

 

 思わず息を呑んだ。

 

 見ると、長い列ができている。

 どうやら船酔いの治療をしているらしい。

 

「ねえ! あたしの連れもお願いできる?」

 

 気づけば、声を上げていた。

 

 少女はくるりと振り向き――

 

 ほんのわずかに、笑った気がした。

 

 だがすぐに次の患者へと向き直る。

 

 ……順番待ち、か。

 

 しばらくして列が途切れた頃。

 

「お待たせ。……次は誰?」

 

 ようやく声がかかった。

 

「あたしの仲間で、客室で休んでるの」

 

「ん……少し休憩したら行く」

 

 短く答える。

 

「ありがとう。ところで名前、聞いてもいい?」

 

 ほんの一瞬、少女は視線を逸らし――

 

「……リネア。しがない魔術師、よろしく」

 

「リネアちゃんね」

 

 軽く手を振り、踵を返した――その瞬間。

 

 ドンッ!!

 

 床が跳ね上がった。

 

「きゃっ!?」

 

 視界が揺れる。体が宙に浮き、背中に衝撃が走る。

 

 息が詰まる。

 

「おっと……大丈夫?」

 

 差し伸べられた手。

 

 リネアちゃんだった。

 

「大丈夫。それより――」

 

 言いかけて、言葉が止まる。

 

 海が、盛り上がった。

 

 いや、違う。

 

 ――“何か”が、海を押し上げている。

 

『皆様ご無事でしょうか!? 当船はただいまクラーケンと遭遇しました!』

 

 魔術で拡声された声が響く。

 

 直後、再び衝撃。

 

 壁に叩きつけられ、肺の空気が一気に押し出される。

 

 息ができない。視界が白く弾けた。

 

 ――いた。

 

 巨大な影。

 

 やがて影は濃くなり、海から突き出した。

 

 うねる触腕はぬめりを帯び、光を鈍く反射していた。

 窓越しでも分かるほど、腐った潮の匂いが風に乗って鼻を刺す。

 

「……なに、あれ……」

 

 喉が渇く。声が震える。

 

「――あなた、一緒に来なさい」

 

 隣で、リネアちゃんが立ち上がっていた。

 

 迷いは、ない。

 

「助けてくれぇ!」

 

「死にたくねえ!」

 

 船内は混乱の渦だった。

 

 人波を押しのけて急ぐ。

 

 そして甲板。

 

 風が唸り、海が暴れている。

 

「来ましたか」

 

 二人の魔術師がリネアちゃんに声をかけた。

 

「時間を稼いで。……あなたも」

 

 見透かすような視線が、あたしを射抜く。

 

「分かった!」

 

 何か策がある。

 あたしは指示に従う。

 

「来るぞ! 合わせろ!」

 

 空では鳥の翼が生えた魔術師が触腕を引きつける。

 

「【氷牙(アイスファング)】!」

 

 甲板にいる別の魔術師は、氷の刃で触手を切り裂いた。

 

「【剛皮(プロテクト・スキン)】!」

 

 続けてもう一人の魔術師が防壁を構築し、受け止める。

 

 防ぎきれない。

 次の瞬間には、もう目の前まで来ていた。

 

「あたしも――【魔風・連脚】!」

 

 蹴り上げた風刃が、触腕を切り裂く。

 

 だが。

 

 切っても、切っても、止まらない。

 

「くっ……!?」

 

 船に絡みつく触腕。

 

 甲板が軋む。

 このままじゃ――もたない。

 

「もう十分。終わらせる」

 

 空気が、軋んだ。

 

 その一言で、空気が張り詰めた。

 

 重く、沈む。

 呼吸すら圧し潰されるような圧力。

 

「――我が身を変えよ。【龍化(ドラコ)】」

 

 呪文が、途切れず紡がれきる。

 

 小さな体が光に包まれる。

 

 次の瞬間。

 

 空を覆うほどの翼が、広がった。

 

「グオオオオオオッ!!」

 

 現れたのは――龍。

 

 巨大で、圧倒的で、理不尽な存在。

 

 ただ“そこにいる”だけで、世界の格が変わる。

 

(……これが、リネアちゃん……?)

 

 クラーケンが逃げる。

 

 けれど――

 

(【並列演算(マルチ・プロセス)】……【雷光(ライトニング)】!)

 

 無数の雷が、放たれる。

 

 空間ごと裂くような閃光。

 

 海面が爆ぜる。

 

 触腕が痙攣し――沈んだ。

 

 ふっと、音が消えた。

 

「……終わった……?」

 

 耳鳴りがする。

 

 立っているだけで、足が震える。

 

「いや、追い払っただけだ」

 

 隣の魔術師が言った。

 

 龍が降り立ち、光が収束する。

 

 リネアちゃんに、戻る。

 

「……詠唱、稼いでくれてありがとう――」

 

 ふらり、と体が揺れる。

 

「リネアちゃん!」

 

 咄嗟に抱きとめる。

 

 軽い。驚くほどに。

 

「大丈夫……ちょっと、疲れただけ……」

 

 弱く笑い、腕の中で目を閉じた。

 

「助かった。感謝する」

 

 振り向くと、毛皮のコートを纏った魔術師が立っていた。

 

 低く通る声だった。場数を踏んだ人間の声だと、直感で分かる。

 

「俺はガルフだ。仲間内じゃ【氷狼のガルフ】と呼ばれている」

 

 その背後に、二人の術師。

 

「我々は《獣翼術師(イグリプス)》――グレイシャの魔獣ハンターだ」

 

「ミストです。冒険者よ」

 

 短く名乗り返す。

 

「……部屋、連れていくね」

 

「頼む」

 

 頷き合う。

 

 荒れた海。

 静まり返った甲板。

 

 そして、新たな出会い。

 

「船旅くらい、のんびりさせてほしいんだけどな」

 

 苦笑が漏れる。

 

 けれど、遠くの海は、まだ不穏に揺れていた。

 

 海は、まだ完全には静まっていなかった。

 

 まだ、あの暗い海の底から見張られている。

 そんな予感がした。

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