悪魔に利用されてますが、その悪魔を人に戻すことにしました 作:白井ライ
ついに――イブリスと、相対した。
けれど。
その背後に立つ“それ”を見た瞬間、思い知らされる。
――勝てない。
悪魔、アテルラナ。
ただそこにいるだけで、空気が、重く歪む。
次の瞬間には、もう遅かった。
三人まとめて叩き伏せられ、あたしたちは地面に転がっていた。
身体が、動かない。
指一本すら、言うことをきかない。
「殺せ――アテルラナ」
淡々とした声。
たった一言で、すべてが終わる。
悪魔が腕を振る。
空間ごと削り取るような、鎌状の斬撃。
逃げ場なんて、どこにもない。
――動け。
――動け、動け、動け……!
頭の中で叫ぶのに、身体はぴくりとも動かない。
迫る刃。
首筋に触れる、死の気配。
――間に合わない。
そう思った、その時だった。
ドクン――
心臓が、跳ねた。
「……おきろ……」
誰かの声が、聞こえた気がした。
次の瞬間。
あたしの身体は、弾かれたように跳ね起きていた。
考えるより先に、手が動く。
振り下ろされた斬撃を――
素手で、受け止めていた。
ギギギ……と、空気が軋む。
ありえない。
それでも――止まっている。
あの一撃が。
斬撃は、砕け散った。
「……は?」
イブリスの声が、遠くに聞こえた。
どうでもいい。
今はただ――はっきりと分かる。
身体の奥で、何かが噴き出している。
熱でも、光でもない。
もっと、生々しい“力”。
ゆっくりと、息を吸う。
自然と、足が開く。
腰が落ちる。
両の拳が、正中に収まる。
【三戦《サンチン》の構え】。
構えた瞬間、世界の音が遠のいた。
――静かだ。
いや、違う。
あたし以外が、遅い。
アテルラナが動く。
一瞬で距離を詰めてくる。
けれど――
遅い。
「――はっ」
拳を突き出す。
「グッ……!?」
巨体が、宙を舞った。
何十メートルも先へと吹き飛び、地面を抉りながら転がる。
――すべて、見えている。
魔力の流れも。
力の起点も。
どこに触れれば崩れるのかも。
「……面白いね」
背後で、コモエディアの声がした。
やけに、冷たい。
あたしはゆっくりと顔を上げる。
イブリスを見る。
その表情に――初めて、戸惑いが浮かんでいた。
「何が起きてるか……分からないわよね?」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「……死にたくないって、思った」
それだけ。
ただ、それだけのはずなのに――
辿り着いていた。
この領域に。
身体の奥で渦巻く力が、答える。
――限界を越えろ、と。
「この力……そうね」
小さく息を吐く。
「“ゾーン”って呼ぶことにするわ」
地面を蹴る。
景色が弾ける。
一瞬で間合いを詰める。
「あんた達から見れば、人間なんてちっぽけかもしれない」
迎え撃つアテルラナの拳。
魔力で強化された一撃。
けれど。
わずかに身体をずらすだけで、軌道は逸れる。
「それでも」
踏み込む。
腰を回す。
全身を連動させて、拳を突き出す。
「それでも、人間は――生きてるの!」
衝撃。
拳が、めり込む。
止まらない。
そのまま、奥へ。
さらに奥へ。
「人の心の強さを――なめるなッ!!」
全てを乗せた一撃。
骨を砕き、肉を貫き――
あたしの拳は、悪魔の胸を突き破った。
沈黙。
そして。
巨体が、崩れ落ちる。
遅れて、呼吸が戻ってくる。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
終わった――そう思った。
ゆっくりと腕を引き抜く。
悪魔の身体が、砂のように崩れていく。
手の中に残ったのは、小さな核。
「……生きてる」
実感が、遅れて押し寄せる。
――勝った。
そう思った、次の瞬間。
視界が、揺れた。
膝が、崩れる。
――まずい。
力が、急速に抜けていく。
「……嘘だろ」
イブリスの声。
さっきまでの余裕はない。
「アテルラナが……やられた?」
けれど、その目がすぐに変わる。
「――危険だ」
拳に、炎が宿る。
「ここで潰す!」
踏み込まれる。
速い――見えない。
避けられない。
「――ッ!」
直撃。
身体が宙を舞い、地面を何度も転がる。
息が、詰まる。
動けない。
立たなきゃ。
立たなきゃ――
「今度こそ終わりだ」
イブリスが迫る。
それでも。
あたしは、歯を食いしばる。
「……戦う……」
震える脚で、立ち上がる。
「……あたし一人でも……!」
踏み込む。
残った力を、全部込める。
拳を――
叩き込む。
――はずだった。
止まった。
目の前で。
見えない何かに、阻まれている。
「……効かねえよ」
イブリスが、静かに言った。
「オレは元天使だ」
拳が、届いているはずなのに。
何も壊せない。
「【神偽の境界】――人間ごときじゃ、触れることすらできねえ領域だ」
終わった。
そう思った瞬間。
腕を、掴まれる。
「逃がさねえ」
振り上げられる、灼熱の手。
終わる。
今度こそ。
目を、閉じた。
――その時。
「――チリアット」
小さな声。
一瞬だけ、目を開く。
視線が、合った。
コモエディアと。
次の瞬間。
衝撃。
胸に、激痛。
「……え?」
視界が、揺れる。
血が、溢れる。
身体が、吹き飛ばされる。
「コモ……エディア……?」
そんなはず、ない。
さっきまで、隣にいたはずの仲間。
その目は。
冷たく、凍りついていた。
「動きを止めてくれて助かったよ」
淡々とした声。
「借りは返さないとね」
何が起きたのか、頭が拒絶する。
視界の端で、二人が去っていく。
「こいつは?」
「そのうち死ぬ。核をやってる」
遠ざかっていく声。
コモエディアが、ほんの一瞬だけ振り返る。
その時。
笑みが、消えた。
口が、わずかに動く。
――ごめん。
音にならない。
「……ふざけ……ないで……」
もう、声も出ない。
意識が、沈んでいく。
暗く。
冷たい底へ。
――そこで、すべてが途切れた。
*
「――ねえ! あそこ、人が倒れてる!」
少年の声。
ブレーキ音。
スクーターが急停止する。
「本当だ……急ぐよ!」
白衣の女性が飛び降りる。
駆け寄り、状態を確認する。
「ひどい……全身損傷、出血多量……この子は――」
ミストの胸を見る。
「……貫通してる。まだ息はある、急いで!」
「はい!」
「出血多い! 圧迫続けて!」
手際よく止血処置が始まる。
「脈、弱いです!」
「落とすな! 気道確保、輸液準備!」
女性はミストの手を握る。
その指先が、かすかに震えているのを感じた。
「……この子、まだ戦うつもりだ」
小さく、呟く。
「なら――」
顔を上げる。
「絶対に死なせない!」
医療テントが展開される。
「準備完了!」
「……始めるよ」
それは――
命を繋ぐための、もう一つの戦いだった。
第一章 悪魔との出会い 完
――第二章へ続く