悪魔に利用されてますが、その悪魔を人に戻すことにしました 作:白井ライ
大地に穿たれた巨大な穴。
その底で――数十体の魔物が蠢いていた。
翼を持つ魔獣。
蔓をうねらせる異形の植物。
こん棒を振り回すゴブリンの群れ。
混沌のるつぼ。
その光景を――見下ろして笑う男がいた。
「壮観だな。……だが、大した強さじゃねえ」
元天使にして悪魔――イブリス。
その手には、ひとつの魔石。
青紫に輝く結晶――ミュータ・クリスタル。
「この程度の純度じゃ、たかが知れてる」
無造作に投げ捨てる。
乾いた音を立てて、結晶が地面を転がった。
「分かるか?」
イブリスが、こちらへ歩み寄る。
「お前には“とっておき”を使ったんだ」
ボクは目を逸らさない。
平静を装い、ただ見返す。
「数百年に一欠片しか見つからねえ代物だ」
距離が詰まる。
黄金の瞳が、すぐ目の前にあった。
「その中でも、お前は特別なんだよ」
指先が、頬をなぞる。
「超レアなミュータ・クリスタルで変異した悪魔――」
ぞくり、と背筋が震えた。
「オレの最高傑作――コモエディア」
その瞳に映るのは――
“壊れていないふり”をしているボクだった。
「クク……ハハハ!」
高笑いが、穴の底に響く。
「さあ、魔の物どもよ!」
イブリスが手を掲げる。
「人間どもを襲え!」
転移魔術が発動する。
次の瞬間、魔物たちは煙のように消えた。
世界のどこかへと、解き放たれていく。
静寂。
――その中で、ボクは口を開いた。
「……なぜ」
イブリスが振り返る。
「そこまで人間を恨む理由を、ボクは知らない」
沈黙が落ちた。
やがて――
「……そうだな」
イブリスは空を見上げた。
魔王領の、濁った空。
「オレは元天使だ。人間を導く存在だった」
低く、語り始める。
「人間は脆い。愚かで、弱くて――」
拳が、ゆっくりと握られる。
「……ある日だ」
声が歪む。
「一組の人間が、天界に辿り着いた」
――異物。
「神々は歓迎した。あろうことか、永遠の命まで与えやがった」
瞳に宿るのは――
憎悪と、嫉妬。
「弱い存在が、オレたちを差し置いて神の領域に立つ」
歯が軋む。
「ふざけるな」
そして――
「だから、殺した」
静かに言い放った。
「神殺しの槍を盗んでな。一突きだ」
空気が凍る。
「男の方は死んだ。代償に、オレは天界を追放されたがな」
肩をすくめる。
「不死性も剥がされた。だが――」
ニヤリと笑う。
「天使の力は残ったままだ」
――狂っている。
理解できない。
「オレから神々の寵愛を奪った人間どもを、許すわけがねえ」
低く、呪うように。
「簡単には殺さねえ。滅ぼし尽くしもしねえ」
笑う。
「“殺し切らないように殺す”」
……吐き気がした。
こいつには――何もない。
他者を思う心も。
痛みを知る心も。
「だが、お前は違う」
再び、指が触れる。
「オレの芸術品だ」
ぞくり、と嫌悪が走る。
「美しい……」
その目が歪む。
「――壊したくなるほどに!」
次の瞬間。
衝撃。
顔面に、拳が叩き込まれた。
「っ……!」
地面に叩きつけられる。
「希少な力を持つ悪魔でありながら――」
胸ぐらを掴まれる。
光が走る。
傷が、一瞬で癒える。
「穢れてる」
再び――殴打。
「人間らしさが残っている限りなァ!」
何度も、何度も。
殴られる。
壊れるまで。
壊れないように。
「あと何回だ?」
笑っている。
「何回殴れば、完全な悪魔になる?」
また、癒される。
そして――また殴られる。
(……壊れる)
体じゃない。
心が。
「お前のことで頭がいっぱいだ」
イブリスは満足げに言った。
「オレが奪われた分、愛してやる」
――狂気だ。
やがて、足音が遠ざかる。
「……チクショウ」
静寂。
荒い呼吸だけが残った。
理解できない。
理解したくもない。
ボクは立ち上がる。
そして――拾い上げた。
捨てられたミュータ・クリスタル。
その瞬間。
「……次の被検体。よし、注入せよ……」
――声。
人間の声だった。
「……は?」
――ありえない。
これは、悪魔の力のはずだ。
なのに。
「人間が……魔物を?」
最悪の予感が走る。
「……許せない」
怒りが、静かに燃え上がる。
「カーヒルか……」
そして。
「……ミスト」
あの時――
彼女を助けるために、
ボクは魔力の核を貫いた。
(生きていられるはずがない)
魔物が跋扈するこの世界では――
そう思っていた。
「……いや」
首を振る。
「死んだんだ」
そう言い聞かせる。
ボクは転移魔術を発動した。
*
夜のカーヒル。
魔術灯が、街を照らしている。
「……なるほど」
一歩踏み出した瞬間、分かった。
(地下にある)
ミュータ・クリスタル。
しかも――
この魔力……でかい。
ボクのものに匹敵する――
間違いない。
「どうやって手に入れた……?」
思考が巡る。
イブリスではない。
あいつが人間と組むはずがない。
「……モレラか」
あり得る。
面白ければ、平気で乗る女だ。
「さて……」
地面に手をかざす。
「壊すか?」
魔術を構える。
――その時。
「聞いたか? 市場の話」
「……っ」
足を止めた。
目立つのはまずい。
イブリスに感づかれる。
ボクは、気配を殺す。
「魔力無しの冒険者が魔物を倒したってよ」
「すげえよな」
――心臓が跳ねた。
「……まさか」
ミスト。
生きている。
「……なんでだよ」
力が抜ける。
裏切ったのに。
傷つけたのに。
イブリスの力だって見たはずだ。
「どうして……折れない」
脳裏に蘇る。
あの言葉。
(人の心の強さを、なめるな!)
――胸が痛い。
「……何やってんだ、ボクは」
気づく。
ようやく。
「ボクは……人間だろ」
悪魔なんかじゃない。
なりたくもない。
「ミスト」
拳を握る。
「戦う」
決意する。
彼女の本当の力になる。
「人間に戻るために」
そして。
「イブリスを倒す」
静かに、燃える。
「……今に見てろ」
奪われたものを――取り返す。
「絶対に」
闇に溶ける。
少年は、再び歩き出した。
――人間として。