悪魔に利用されてますが、その悪魔を人に戻すことにしました 作:白井ライ
ミストが眠りに落ちた頃――ボクは、すでに魔王城へと帰還していた。
空間を裂くように開いた異界の門をくぐり、音もなく玉座の間へ降り立つ。
見た瞬間――理解が止まった。
目が、それを“現実”として受け取るのを拒んだ。
直径数メートルはあろうかという、底の見えない漆黒の大穴。
その上空には、脈動するように揺らめく黒い繭。
――魔王。
幾百年の時を経てなお眠り続けるそれは、存在するだけで空間を歪ませていた。
――“そこにあるはずの距離”すら、意味を失うほどに。
「――ありゃ? コモくんだ!」
軽薄な声が、静寂を破る。
視線を向けると、玉座の間にはすでに先客がいた。
尖った耳に、黒のボブカット。
ミニワンピースの背からは、小さな翼が揺れている。
「……モレラ」
柱の上に座る彼女が、光がない緑色の目でこちらを見下ろしていた。
短く名を呼び、警戒を解かぬまま、引きずってきた“獲物”を床に落とした。
乾いた音が、やけに大きく響く。
「ウチはこんなに取れたよ♪ コモくんは一人だけ? 殺したにんげんさんは……」
無邪気な声。
常に笑顔を浮かべた彼女。
降りてきた。
ミストと同じくらいの背丈をした少女。
唇に残った血を、舌で舐め取る。
牙が、月明かりに鈍く光った。
それが誰のものだったのか、もう覚えていない顔で。
その背後に積み上げられているのは――死体の山。
血を抜かれ、干からび、原形すら曖昧になった成れの果て。
ボクはそれを視界から外すように、懐から取り出した数個の魔物の核を床へと放った。
「今日はこれだけだ」
「おいおい、それじゃ魔王軍幹部の名が廃るぜ?」
――来た。
背筋が、凍る。
空気が変わる。
震え出す身体を押さえ込むように拳を握りしめ、ゆっくりと振り返る。
「オレがまた、狩り方を教えてやろうか? なあ……コモエディア?」
そこには、地獄が“残っていた”。
焼き焦げた無数の死体。
その中心に立つ、一人の男。
銀髪に褐色の肌。
口元に浮かぶのは、愉悦に歪んだ笑み。
「イブくん!」
「……イブリス」
モレラが嬉しそうに駆け寄る。
イブリスは外套を翻しながら、背後に築いた“成果”を指し示した。
「これだけ集めりゃ、魔王様の【再誕】も早まるだろうな」
「ほんとぉ? 数百年続けても、あんまり変わってなく見えるけどぉ〜」
「見かけ上はな」
肩をすくめる。
「だが確実に近づいてる。かつて“勇者”に滅ぼされたとはいえ――魔力が満ちるこの世界じゃ、魔王は何度でも蘇る」
イブリスは背後の繭を見上げて笑った。
――終わることなど、ありえない。
「さあ、投げ込むぜ」
イブリスの号令で、ボクたちは動き出す。
死体と魔物の核を、あの底なしの穴へと投げ落としていく。
――ゴポリ。
何かが“受け取る”ような、不気味な感触。
「おお〜!」
モレラが歓声を上げる。
黒い繭が、目に見えて膨張していく。
魔力を貪るように取り込み、脈打っている。
「こりゃすげえ……復活、案外早いかもな」
「もっとにんげんさんあげたら、大きくなるのかな?」
モレラは手を水平にして額に当て、繭を見上げる。
「ああ、期待してるぜ?」
「じゃあまた持ってくる~!」
モレラは両肘を引き、体の前で握り拳を作る。
「ちゃんと全部、食べてね〜?」
まるでペットに餌をやるかのような軽さで、モレラは次の獲物を求めて立ち去った。
残されたのは――ボクと、あいつ。
「……お前もだ。コモエディア」
顔を上げることができない。
それでも――
次の瞬間、イブリスはすでに目の前にいた。
逃げられない。
肩に触れようとするその手を、拒むことすらできない。
「……綺麗な顔してやがる」
指先が、頬をなぞる。
「――っ!」
頭が横に弾け、視界が白く飛んだ。
気づけば、口の中に鉄の味が広がっている。
「オレがもっと綺麗にしてやるよ」
胸ぐらを掴まれ、強引に引き寄せられる。
「震えてるな」
拳が、腹を抉るようにめり込んだ。
内臓が、ひっくり返るような感覚。
「――ッ……!」
空気が、消えた。
だが、声は出さない。
出せばどうなるか――もう知っている。
《教育》されてきたからだ。
声を出せば、もっと壊されると――知っている。
「いい顔だ。お前の両親も、オレの腹の中で喜んでるだろうぜ」
――乗るな。
怒りが込み上げる。
――だが。
唇を、噛みしめた。
その沈黙が気に入らなかったのか、イブリスはボクを踏みつけた。
顔面に、重い圧がのしかかる。
「……おっと、悪い悪い」
わざとらしく笑う。
「お前はもう“人間”じゃねえ。立派な“悪魔”だ」
足が離れる。
その直後――
蹴りが、顔面に叩き込まれた。
鼻梁に鈍い衝撃が走り、視界が歪む。
「オレが壊して、削って、作り直した最高の【芸術品】――それがお前だ」
視界が滲む。
それでも、倒れたまま動かない。
「だからもっと狩れ。人間を」
ボクを見下ろす。
「オレが――綺麗にしてやる」
ふざけるな。
そう叫びたいのに――声は出ない。
代わりに、冷たい光が降り注いだ。
「【熾天使の戯れ(エンジェル・ハミング)】――」
傷が、なかったことになる。
――痛みだけを、綺麗に残して。
ありえない――。
こんな奴が――まだ“聖なる力”を使えるなんて。
治せるから壊していい。
その理屈で、暴力は際限なく繰り返される。
やがて、イブリスはボクの顔を覗き込んだ。
「なあ、コモエディア」
囁くように。
「ずっと面倒見てやる。どこにも行かせねえ。お前は――オレのもんだ」
そして笑う。
狂ったように。
高らかに。
そのまま、玉座の間から去っていった。
「っ……お父さん……お母さん……」
声が震える。
かすかに残る、“人間”だった頃の思い出。
両親と手を繋いで、笑っていた自分――
もう、取り戻せない。
押し殺していたものが、堰を切ったように溢れ出す。
涙が止まらない。
奪われたもの。
変えられてしまったもの。
戻らない時間。
そして――終わらない地獄。
「……誰か、助けて……」
意味がないと分かっている。
なのに零れてしまう。
それでも、立ち上がる。
朝までに、もっと供物を集めなければならない。
恐怖に突き動かされるままに。
あいつのために。
魔王のために。
――違う。
(あいつさえ……殺せれば……)
胸の奥で、黒い炎が揺らめく。
憎しみ。
それだけが、ボクを動かしていた。
玉座の間を後にする。
あいつを殺せる存在――“勇者”。
ミスト。
ただ一人、場違いなほど“光って見えた”彼女を――
「……キミに託す」
もう限界だった。
心も、身体も。
壊れる寸前だった。
だから――縋る。
その可能性に。
その少女に。
どうか。
(キミなら……)
(いや、違う)
(キミしかいない)
(あいつを――殺してくれ)
そして――
未練はない――はずだった。
(最後は――)
喉が、詰まる。
(ボクも、殺してくれ)