暫く歩いて、今夜の狩場になるであろう地へ辿り着く
苔むした湿地
沼の湿った臭いが、鼻をかすめている
足を踏み入れると、ぬちゃぬちゃと靴底に冷たい土がまとわりついた
当たり前だが、今は静かだ
此方側には民家もないし、外を出歩く人の姿も見えない
夜になれば、騒がしいほどの羅刹さんの群れで五月蝿くなるのだろう
毎日のことだ
しかし、其れでもあの鼻につく血の異臭には、いつまで経っても慣れないものだった
慣れないまま十年が経ち、とうとう後、幾ばくかでお役御免という瀬戸際まで来てしまった
木々の隙間から、相変わらず厚い雲に覆われた空を見上げ、結局また物思いの再開だ
つくづく思う
たった一ヶ月にも満たぬ出会いに過ぎないが、あなたは私を、きっと並々ならぬ想いで見てくれているのだろう
けれど、もう遅い
何もかも、幕が下りようとしている
いや、元々下りていた幕が、今度は一縷の光も差し込まぬ暗黒へと切り替わるだけだが
だって私はずっと、死者でしか無かったのだから
動く屍は、理の違反者
ならば、元へと戻るだけ
あともう少し
葬れる限りの羅刹さんを葬り去ったならば
其うしたなら、あなたとの日々は晴れて「幻」へと還る
あなたと私を繋ぐ唯一の契約も、白紙へと戻るのだ
私の様な化け物が、此の世に残す痕跡なんて…
ガリ――
顔を手で覆った時に、鈍い金属音がした
指輪だ
あなたが記念品として作ってくれと言った、狩衣さんとお揃いの其れ
あなたの虹色は綺麗だからいい
でも、私のは…化け物の色でしかない
あなたの一挙手一投足の度に、どうしたって視界に映ってしまう其の色
私の黄緑は、あなたに相応しくないのに…
あの時、やはり嵌めたくは無かった
其して「斯くはエンゲージリングではあれど、間違っても結婚指輪では無い」という主張もしたかった
しかし、あなたに嵌めてもらったあの日以来、ずっと嵌め続けてしっかり手に馴染んだ其れを改めて眺める
(…此れは私の一部ではないですゆえに、消滅後も残ってしまうものかもしれませんですね)
物といえば、指輪だけでもない
あなたがわざわざ大枚はたいて仕立ててくれた、地味を好む私には全く趣味ではない桃色の巫女服や、よそ行きの上等な拵えの着物
お仕着せにも程があるが、何度かは着ることになった
別に、あなたを喜ばせようとしたのではない
服をいただくのを丁重に断ろうとした私に、あなたは言ったのだ
シノハユちゃんもね、とうとう最後まで一度も貰ってくれなかったんだ
俺、やっぱりなんか趣味が悪いのかなあ…
寂しそうに虹色の瞳を伏せるあなたを見て、思わず私は…
別に、悪いわけじゃないと思いますです
其う、言わされてしまっていた
後はもう、目に見えて頬を紅潮させるあなたを見遣れば、「もう着ない」などという選択肢も取りようがなかった
其れに、よく考えたらあなたと共寝をした次の日に、私が全裸のあなたを見兼ねて其の場で仕立てた夜着のこともある
衣配りはお互い様だったのだ
いや、其うか…あの時は忘れていたけれど、今にして思えば、あれの御礼として私に衣をくれたのかもしれない
なら、まあ…
礼儀としては受け取るべきだったのだな
間違っていなかったのなら、良かった
他にも、訪れた狩場で開かれていたお祭りのこと
あなたは「初めて見た」と言ってはしゃぎ、その様子を見ていたらなんだかおかしくて、私は気紛れに夜店の手土産をくれてやった
あなたが扇の端にそれを結んでいるのを、手合わせや狩りをする度に見掛けて、なんだか複雑な心境になるけれど
其して――
私は胸元に手を突っ込み、しまってからは一度も取り出していなかった木簡を、久々に取り出す
あなたと交わした初夜の明け方に贈られたもの
勿論あなたの筆跡で、風流に書き作ろわれた歌
(「此れからよろしく」…でございますですか、確かに、色々とよろしくされましたですね)
やはり、長居し過ぎたかもしれない
気付けば「物」という形で、思い出が其処彼処にできてしまったではないか
あなたと過ごした、たった一ヶ月にも満たないその時間で、私ははたして、それまで生きてきた十年間よりもずっと多く、誰かと言葉を交わしてしまった
私は元より、羅刹狩りという使命のみ果たすべき化け物であるというのに
其う、人らしくありたいなど、夢のまた夢
――あの日の決断と、同じだ
琉堂院を訪れる前、敬愛する先輩を羅刹さんの魔の手から私自らが救い出すと決心した時にも、同じ問いを自身に投げかけたではないか
過去の集落でのトラウマ以降、私は胡蝶先輩のことがあるまでは、徹底的に「二十四節巍」と思われる羅刹さんとの接触を避けてきた
殺せない相手の前に立ち、また同じ過ちは決して繰り返さない
強くなってもあの日の戒めは忘れない
当然、人とも一定の距離を置く
…其れが、化け物でしかない私ができる、精一杯の「人らしい決断」だった。
まあ、先輩と出会い憧れ、つい羅刹狩り組織の門を叩いてしまったのも戒律破りと言えなくもないけれど、ほとんど言葉は発しなかったし、前髪で顔は隠していたしで、怪しいことこの上なく周囲から勝手に距離を開けられていたのでヨシとする
いざとなれば、記憶を消して去ることも当然視野に入れていた
しかし私は、羅刹さんのことに関しては自ら掟を破り、結果、単なる二十四節巍どころか、その頂点に位置する「大寒の弐番」のあなた、「狩衣さん」と深く関わることになってしまった
羅刹狩り組織の幹部さんでも太刀打ちできないほど強いあなたを抑え、被害を最小限に留めて先輩を救出できるのは、私だけと考えた
…考えたはいいが、実行に移すかは別問題だった
どう考えても強力な羅刹さんの前に姿を晒すことになり、「私」という存在が露呈する
此れまで化け物が密かに動いていたという情報を与えれば、羅刹さん側が警戒することになり、其の後の狩りに支障をきたしかねない
人々が待ち望む未来の平和のためには、迅速な羅刹さんの殲滅が求められる中で、たかが強いとは言え、先輩一人を見捨てた方が、むしろ助かる命の方が結果的には多いかもしれない
ゆえに、自身に問うた
「私は先輩一人を見捨て、多くの人々が助かる可能性の高い『人らしい決断』をするか?」 「其れとも、私情で先輩を優先する『化け物としての決断』をするか?」
私は其の時、初めて意識して、其れまで全く望んではいなかった「化け物として進む道」を選んだのだ
確かに、先輩は救出できた
だが、あなたは他の羅刹さんとは違い、頭が良く、「実力で勝てないなら」と私に駆け引き、いや「脅迫」を持ち出してきた。
脅迫内容は、先輩とその周囲…つまり、組織の人々の命を天秤にかけるもの
もちろん乗らなければ話も其れまで
けれど私には、万が一を考えて慎重に事に臨む向きがあった
何より、折角わざわざ化け物に堕ちる決断までして助け出した先輩が、また危険に晒されるなど耐え難かった
――選択肢などなかった
首尾よく契約を私に取り付けた時に、あなたが見せた、花咲くような笑みを覚えている
今思い出しても、口惜しいこと此の上もないが、其の時点ではまだほんの短かった交流だけで私の性格を読み切った、あなたの完全勝利だったのだ