銀河皇帝のスペアに転生した元社畜、地球軌道上の要塞でネトゲ三昧の隠居生活を満喫する 〜足元では超大国が滅亡級の異星遺産を巡って暗躍中ですが、主人公(ぼく)の命は絶対安全なので特等席で傍観します〜 作:パラレル・ゲーマー
ワシントンD.C.。
セレスティアル・ウォッチの広大な分析施設の中枢。
メインモニターには、何千、何万というモノクロの古い写真と、タイプライターで打たれた色褪せた機密報告書のデータが、滝のようにスクロールしては自動的にカテゴリ分けされていく。
日本政府から極秘裏に《時渡りの通行手形》についての情報共有を受けて以来。
アメリカ合衆国の中枢では、かつてない規模の【過去資料の全面的な再調査(洗い出し)】が強行されていた。
FBIの地下書庫に眠る、未解決の失踪事件。
CIAが「証拠不十分」として握り潰した異常事象の記録。
米軍の訓練中に起きた、死体が見つからない事故報告。
冷戦期の極秘研究所で発生した、物理法則に反する説明不能な現象。
一般の新聞写真や、家族のホームムービーの背景に映り込んだ、異質な影。
そして、かつては陰謀論者たちが「あれは未来人だ」と騒いでいた、時代錯誤な(オーパーツ的な)衣服を着た人物たちの映像解析。……さらには、時刻や日付の奇妙なズレ、現場に残された「本来その時代には存在しないはずの物品」、証言者全員が口を揃えて同じ『時間の跳躍(ワープ)』を訴えた案件まで。
ほんの数ヶ月前までなら、これらはすべて「物的証拠不足」「単なる都市伝説」「集団ヒステリーの記憶違い」、あるいは「熱心すぎる陰謀論者の妄想」というスタンプを押され、永遠に閉じられていたはずのファイル群だった。
しかし。
今は、前提が根底から覆ってしまった。
アーティファクトが存在し、しかもそれが【時間】に干渉し得るという事実を、世界で最も力を持つ国家が知ってしまったのだ。
『――再分類作業の進捗、十一・六パーセント』
モニターの向こう側で、アルファの無機質な声が報告する。
『一次候補として抽出された特異事象、三千八百十二件。
……そのうち、既存の物理現象および論理的な推論による説明が【完全に困難】なもの、四十七件』
円卓に座るキャサリン・ヘイズ大統領は、こめかみを揉みながら、呆れたようにため息をついた。
「……何万人も動員してスパコンをフル稼働させて、まだたった十一パーセントなの?」
傍らに立つ科学主任のケンドール博士が、少しだけ弁解するように言った。
「大統領。……我が国アメリカは、建国から二百五十年近くの間、世界で最も情熱的に『怪談』と『陰謀論』を大量生産してきた国です。母数が桁違いなのです。UFO、ビッグフット、政府の秘密実験……これらの中から『本物の時間干渉』だけを濾し取るのは、砂漠から特定の砂粒を探すようなものです」
「……随分と、誇らしげに言わないでちょうだい。国民の想像力がたくましすぎるのも考えものね」
大統領は、肩をすくめた。
『大統領』
アルファが、数万のデータの中から一つのファイルをピックアップし、メインモニターの中央へ拡大表示した。
『その「説明が完全に困難な四十七件」の中から。……現在、極めて確度の高い、一つの【時間干渉疑い案件】を特定しました』
モニターに映し出されたのは、色褪せたモノクロの現場写真と、FBIの分厚い未解決事件ファイルだった。
『――一九五七年十月。ネバダ州の、とある失踪事件です』
***
表示されたのは、果てしない荒野を貫く幹線道路沿いにポツンと存在した、古いロードサイド・モーテルの写真だった。
ネオンサインの文字は欠け、周囲には乾燥した土とサボテンしかないような、典型的なアメリカの田舎の安宿。現在はすでに営業を停止しており、建物自体は朽ち果てて残っているものの、数ヶ月後には再開発のために解体される予定の廃墟である。
そのモーテルで、今から約七十年前の冷戦のさなか、一人の男が不可解な形で消え失せた。
「名前は、レイモンド・ハロウェイ。当時三十六歳。既婚、子供あり」
ケンドール博士が、経歴を読み上げる。
「職業は、大手防衛産業の下請け企業に勤める、電子工学の技術者です。専門は、主にレーダーと信号処理のチューニング。
……決して、世紀の超天才でもなければ、軍の巨大な国家機密を一人で握っているような大物でもありません。冷戦時代の兵器開発ラッシュの中には山ほどいた、『軍事関連の仕事をしている、ちょっと優秀な技術者』という程度の存在です」
「それが、どうしてFBIの未解決ファイルに?」
ヘイズ大統領が問う。
「その【消え方】が、あまりにも異常だったからです」
一九五七年十月某日。
ハロウェイは、ネバダ州の軍事施設へ向かう出張の途中、車でこのモーテルの「12号室」へ宿泊した。
午後七時頃にチェックイン。近くのダイナーでハンバーガーとコーヒーの夕食を済ませ、午後九時過ぎに部屋へ戻ったことを、モーテルの従業員が確認している。
ここまでは、ごく普通の出張の夜だ。
だが、翌朝。
迎えに来るはずだった同僚が約束の時間になっても、ハロウェイは部屋から出てこなかった。
何度ノックしても応答がない。不審に思った同僚が管理人を呼び、マスターキーで開けようとしたが……ドアは、内側から【チェーン】がしっかりと掛けられていた。
隙間から声をかけても、中の人間が倒れている気配すらない。
やむを得ず地元警察を呼び、ボルトカッターでチェーンを切断して中に踏み込んだ。
室内には。
……誰も、いなかった。
「窓は、すべて内側から施錠されていました。浴室にも、クローゼットにも人はいない。換気口は、猫一匹通れないほど狭いサイズです」
ケンドールが、密室の状況を説明する。
「そして何より……財布、腕時計、度の強い眼鏡、翌日着るはずだった衣服、軍事データが入った仕事用のブリーフケース、そして外に停めてあった彼の車。
……それらすべてが、部屋に『そのまま』残されていたのです」
つまり。完全に内側から施錠された密室から、【ハロウェイの肉体だけ】が、文字通り煙のように蒸発して消え失せていたのである。
「当時は冷戦の真っ只中です。当然、FBIと軍の防諜部隊が真っ先に介入しました」
ケンドールは続ける。
「『彼がソ連のKGBに拉致されたのではないか?』あるいは、『軍事技術を手土産に、自ら共産圏へ亡命したのではないか?』という疑いが強く持たれました。
……しかし、調査の結果はすべてシロ。彼の銀行口座の預金を動かした形跡は一切なく、外国の工作員との接触の痕跡もゼロ。思想調査でも共産主義への傾倒は見られず、家族関係も極めて円満でした。
そして何より……眼鏡も財布も車も残し、靴すら履かずに、あの内側からチェーンの掛かった密室から、彼が『どうやって亡命したのか』が、物理的に全く説明がつかなかったのです」
結局、FBIも軍も匙を投げ。
この事件は、奇妙な【未解決失踪事件】として、巨大な地下書庫の奥深くに長年封印されることとなったのだ。
「……だが、一つだけ」
ケンドール博士が、モニターのテキストの一部をハイライトした。
「当時、FBIの捜査官が聞き取った、モーテルの夜勤従業員の調書の中に。……極めて奇妙な【証言】が、たった一つだけ残されていたのです」
調書によれば。
深夜、午前二時過ぎ。夜勤の従業員が、見回りのために12号室の前を通った際。
中から、ハロウェイとおぼしき男の、大きな声が聞こえたというのだ。
『――誰だ!?』
男は、明らかに驚愕した声で叫んだ。
少しの間を置いて。
『……どうやって入ってきた!?』
さらに、従業員は、ドア越しに「複数の人間が喋っているような、低くくぐもった声」を聞いている。
ただし、ドアが厚かったため、相手の人間が何を喋っていたのか、その内容は全く聞き取れなかった。
その後、ハロウェイの声が再び響いた。
『待て。……何を言っている?』
そして、最後に、男はこう叫んだのだという。
『――何年だって!?』
当時の夜勤従業員は、「客が部屋に娼婦でも連れ込んだか、酔っ払って電話で誰かと揉めているのだろう」と思い、面倒に巻き込まれるのを避けて、そのまま通り過ぎてしまった。
一九五七年当時、この『何年だって?』という最後の叫び声は、ただの酔っ払いのうわ言として処理され、捜査上は何の意味も持たなかった。
だが。
アーティファクトの存在と、時間干渉の可能性を知ってしまった、202X年の現在。
「…………」
ケンドール博士は、その一文を前にして、押し黙った。
ヘイズ大統領も、極めて嫌そうな顔をして、眉間を深く揉んだ。
「……ええ。私も、今その証言を見て、すごく嫌な予感がしたわ」
「それだけではありません」
アルファが、次の画像を展開する。
「当時のFBIの鑑識が撮影した、12号室の『犯罪現場写真』です。
これを、我々の最新の画像解析アルゴリズムで、ピクセル単位のノイズ除去と立体復元(3Dモデリング)を行った結果。……壁の模様に、ある【異常】を検出しました」
モニターに、ベッドの横の壁紙が拡大される。
一見すると、ただの古臭い花柄の壁紙に、光の加減で影が落ちているだけのように見える。
しかし、コントラストを極限まで調整し、輪郭線を抽出すると。
……ベッド脇の壁紙の模様に紛れるようにして、完璧な【長方形の輪郭】が、うっすらと浮かび上がってきたのだ。
高さ約二メートル。幅は約九十センチ。
それは、どう見ても、人間が通るための【ドアの形】であった。
「……当時のこの建物の建築図面には、そこにドアは存在しません」
アルファが、冷酷な事実を告げる。
「壁の向こう側は、隣の部屋ですらありません。ただの屋外への外壁であり、内部には補強用の構造材と断熱材が入っているだけです」
「……その廃墟のモーテル。まだ残っているのね?」
ヘイズ大統領が、低く鋭い声で問う。
「はい」
ケンドールが答える。
「我々セレスティアル・ウォッチのダミー企業が、すでに数時間前に『連邦政府による土壌の環境汚染調査』という名目で、当該の土地と建物を丸ごと買い上げ、周囲を完全に封鎖しました。……実地調査の準備は、すでに整っています」
***
ネバダ州の荒野。
照りつける太陽の下、完全に廃業し、ペンキも剥がれ落ちたボロボロのロードサイド・モーテル。
その周囲は、迷彩色のテントと、銃を手にした警備部隊によって何重にも封鎖され、完全にセレスティアル・ウォッチの特設前線基地と化していた。
ケンドール博士率いる調査チームが、防護服に身を包み、機材を抱えて、埃まみれの「12号室」へと足を踏み入れた。
室内は、カビとネズミの死骸の匂いが充満していた。
壁紙は一九五七年当時のものではなく、その後の営業期間中に何度か安っぽいものに張り替えられ、無残に剥がれ落ちている。
だが、調査チームが、ベッド脇の『問題の壁』に対して、最新の非破壊スキャン(透過レーダー)を照射した瞬間。
モニターを見ていた技術者たちが、全員、息を呑んで固まった。
「……博士」
ケンドールがモニターを覗き込む。
壁の内部。石膏ボードと断熱材の奥に。
……地球上の既知の建築素材(木材や鉄骨)のシグネチャと全く一致しない、【未知の金属の反応】で構成された、細いフレーム状の物体が存在していた。
その位置と形は、一九五七年の古い写真に浮かび上がっていた長方形の輪郭と、ミリ単位で完全に一致していた。
「……壁を、剥がせ」
ケンドールが、静かに命じた。
作業員たちが、電動カッターとバールを使い、慎重に、まるで爆弾を処理するように石膏ボードと壁紙を切り取り、撤去していく。
粉塵が舞う中。
壁の内部から、ついに【それ】が姿を現した。
「…………これは」
鈍い、銀灰色の輝きを放つ、完璧な長方形。
それは、まるでドアの『枠』のように見えた。
しかし、そこにはドアを開け閉めするための蝶番(ヒンジ)もなければ、取手(ドアノブ)もない。そもそも、ドアと枠の間の『隙間』すら一切存在しなかった。
枠に囲まれた中央部分は、ただのコンクリートと断熱材の壁が剥き出しになっているだけだ。
要するに、それはドアではなく、未知の金属で作られた【ただの四角い枠だけ】が、壁の中に埋め込まれている状態だったのだ。
「放射線反応、なし。電磁波の漏洩、バックグラウンドノイズレベル。熱源反応、なし」
技術者が、震える声で数値を読み上げる。
「……構成材質は不明。既存技術外(アーティファクト)の物質であること以外……機能も目的も、何も分かりません」
「……外部からの刺激を試せ」
ケンドールが指示する。
電気ショック、強力な電磁波の照射、レーザー、さらには特定周波数の超音波まで。
あらゆる物理的な干渉を試みたが、銀灰色の枠は、微かな音一つ立てず、完全に無反応だった。
「……博士。全く反応しません。完全に沈黙(デッド)しています」
ケンドールは、顎に手を当てて考え込んだ。
アーティファクトは、必ず何らかの『起動条件』を持っている。物理的な刺激ではないとすれば。……それは、人間の『意思』か、あるいは『特定の行動』に反応するのかもしれない。
「……枠の『中央』に。何か、物理的な干渉を試みろ」
ケンドールは、直感に従って命じた。
「人間が入る前に。……まずは、伸縮式の観測ポール(プローブ)を、枠の中央の『ただの壁』に向かって、ゆっくりと差し込んでみろ」
完全防護服を着た研究員が、ゴクリと唾を飲み、先端にカメラとセンサーがついた長い金属製の棒を手に持った。
彼は、枠の中央の、ただのコンクリートの壁に向かって、ゆっくりと棒の先端を押し出す。
コツン、と。壁に当たるはずだった。
だが。
「…………っ!?」
研究員が、ビクッと身体を強張らせた。
棒の先端が、コンクリートの壁に触れる直前の、何もない空中の位置で。……まるで、水面に棒を突き刺したかのように、抵抗なく、スッと【消えた】のだ。
「……止めて!!」
ケンドールが叫ぶ。
研究員は慌てて棒を引き戻した。
消えていた棒の先端部分は、切断されることなく、そのままスッと元の空間へと戻ってきた。
「……先端のセンサーのデータを読め!」
「はい! ……ええと。放射能や有害なガスの反応はありません。……ただ」
技術者が、先端のカメラユニットに付着したデータを見て、首を傾げた。
「……微弱な、『煙草の煙』の粒子と匂いが付着しています」
「煙草?」
「はい。さらに、付着している微細な埃の成分を分析した結果。……一九五〇年代に、この地域で一般的に使われていた、古い建材の顔料成分と一致します」
ケンドールの顔色が、スッと変わった。
「……遠隔操作の有線ドローン(ローバー)を、枠の向こうへ入れろ。映像をこちらへ回せ」
小型の車輪付きドローンが、枠の中央の『見えない水面』を超えて、向こう側の空間へと進んでいく。
数秒後。
モニターに、信じられない映像が映し出された。
そこは、今彼らがいる廃墟の12号室とは、全く違う部屋だった。
壁紙は真新しく綺麗で、家具はピカピカに磨かれている。ベッドの上にはパリッとしたシーツ。机の上には分厚いブラウン管のテレビ。ダイヤル式の古い電話機。煙が立ち上るガラスの灰皿。
……そして、机の上に置かれた、真新しい新聞。
そして。
その部屋のベッドの脇に。……一人の男が、信じられないものを見るような顔で、硬直して立っていた。
三十代半ば。白いシャツに、仕立ての良いスラックス。太いフレームの眼鏡。
男もまた、壁から突然ぬるりと現れた「見たこともない小型の機械(ドローン)」を、恐怖に満ちた目で見下ろしていた。
スピーカーから、向こう側の音声が拾われた。
『――……誰だ?』
男は、震える声で、ドローンのカメラに向かって呼びかけた。
ワシントンD.C.のシチュエーションルームと、現地の調査テントの全員が、完全に凍りついた。
男は、カメラの向こうでパニックになり、叫んだ。
『……どうやって入ってきた!?』
その言葉を聞いた瞬間。
ケンドール博士の顔から、一気に血の気が引いた。
アルファの横にいる分析官が、慌ててキーボードを叩き、一九五七年の『あの夜勤従業員の証言ファイル』をモニターに並べて表示した。
完全に。一言一句、同じだった。
「……博士」
現場の技術者が、顔面を蒼白にして報告した。
「対象の男の顔面骨格と網膜のパターンを、一九五七年のFBIの捜査資料にある写真と照合。
……一致率、99.8パーセント以上。
間違いありません。……レイモンド・ハロウェイ【本人】です」
一九五七年に、この部屋から忽然と姿を消した男が。
約七十年後の現在。……まだ、壁の向こう側の『一九五七年の同じ部屋』に、生きて立っていたのだ。
ただし。
ハロウェイ本人からすれば。彼は何十年もこの部屋に閉じ込められていたわけではない。
ドローンのカメラが、彼の左腕の腕時計をズームで捉える。
日付は、一九五七年十月某日。
時刻は、午前二時十三分。
本人の感覚では、ほんの数分前まで、出張先のベッドで寝る準備をして、煙草を吸っていただけなのだ。
突然、何もない壁に『四角い穴』が開き。そこから、見たこともない機械が現れた。ただそれだけのことだった。
ケンドールは、マイクを握り、極めて慎重に、相手を刺激しないように声をかけた。
「……落ち着いてください。危害を加えるつもりはありません」
ケンドールの声が、1957年の部屋に響く。
「あなたは、レイモンド・ハロウェイさんですね?」
『……そうだ。お前たち、いったい何者だ? ソ連のスパイか?』
男は、ベッドサイドにあった灰皿を武器のように構えて警戒している。
「違います。……現在の日付を、確認させてください。あなたが今、認識している『今日の日付』は?」
ハロウェイは、怪訝な顔をして答えた。
『一九五七年、十月――』
現代側の人間たちは、誰も言葉を発することができなかった。
ケンドールは、深く息を吸い込み、残酷な真実を告げた。
「……ハロウェイさん。落ち着いて聞いてください。我々のいるこちらの空間は。……二〇二X年です」
ハロウェイの動きが、ピタリと止まった。
『……待て』
男は、理解不能な言葉に混乱し、首を振った。
『……何を言っている?』
そして。彼は、七十年前の夜勤従業員が最後に聞いた、あの歴史的な叫び声を、寸分違わずカメラに向かって放ったのだ。
『――何年だって!?』
***
ワシントンD.C.のシチュエーションルーム。
「……大統領」
ケンドール博士が、モニター越しに、ひどく掠れた声で呼びかけた。
「ええ。分かっているわ」
ヘイズ大統領は、血の気の引いた顔で、深く頷いた。
一九五七年の夜勤の従業員が聞いた、『誰だ!?』『どうやって入ってきた!?』という奇妙な会話。
……それは。
約七十年後の未来にいる【自分たち(セレスティアル・ウォッチ)自身が発生させていた、歴史の足音】だったのだ。
彼らは、今まさに、自分たちの手で『過去の歴史(未解決事件の証言)』を、寸分違わず完璧になぞり、実行してしまっていたのである。
「……まだ、結論を出すのは早いわ」
ヘイズは、動揺を必死に抑え込み、指揮官としての冷静さを保った。
「パニックにならないで。まずは、対象(人間)を救出できるかどうか、安全性を確認しなさい」
現地のケンドールは、直ちに物理的な通過のテストを開始した。
いきなり人間を引っ張るような危険は冒さない。
まず、現代側からプラスチック製のボールを、枠の中央の『見えない壁』へと放り投げる。
ボールは抵抗なく通過し、一九五七年の部屋の絨毯の上を転がった。
ハロウェイが、おっかなびっくりそれを拾い上げ、カメラに向かって見せる。そして、こちら側へと投げ返した。
ボールは、何の変化もなく、現代の廃墟の床へと戻ってきた。
温度計、空気のサンプル採取器、生体センサーなどを付けたドローンを何度も往復させる。
結果はすべてクリア。空間の境界線で物質が変質したり、放射線を浴びたりする兆候は全くない。
つまり。これは単なる過去の「映像」を見ているわけではない。
過去と未来の空間が、完全に【物質的に往来可能な状態】で繋がっているのだ。
ハロウェイ本人は、当然ながら、すぐにはこの異常事態を信じなかった。
「ふざけるな! 政府の新しい尋問実験か!? それとも幻覚剤でも打たれたのか!?」
ケンドールが、最新のスマートフォンやタブレットを見せても、彼は「巧妙なスパイの道具だ」と逆に警戒を強めただけだった。
最終的に。ケンドールは、最も残酷な『証拠』を彼に突きつけるしかなかった。
現代のニュース映像。現在の高層ビル群が立ち並ぶニューヨークの衛星画像。現代の大統領の顔。
……そして。
彼自身の、『一九五七年の未解決失踪事件』のFBIファイルと、彼が残した妻や子供が、その後数十年をどう生き、どう老いていったのかを記録した、戸籍のデータ。
それを見た瞬間。ハロウェイの顔から、完全に血の気が引いた。
彼は、手から灰皿を取り落とし、ベッドの上にへたり込んだ。
「……嘘だろ」
ハロウェイは、両手で顔を覆い、震える声で呟いた。
「……妻は? メアリーは、どうなったんだ?」
調査チームの誰も、即答することができなかった。彼女は、夫の帰りを何十年も待ち続け、すでに十年以上前にこの世を去っている。
「……息子は? トミーは、まだ五歳だったんだぞ……!」
重く、悲痛な沈黙が流れた。
「……ハロウェイさん」
ケンドールが、絞り出すような声で言った。
「まずは、こちら側(現代)へ移動してください。……その後、我々が責任を持って、あなたの家族に何があったのか、すべてをご説明します」
この一連のやり取りだけで。彼がどれほど残酷に、自分の人生の『七十年という重み』を理不尽に剥奪されてしまったかが、痛いほどに伝わってきた。
***
シチュエーションルームでは、彼をこちら側へ引き入れるかどうかの、激しい議論が交わされていた。
「危険すぎます!」
国防長官が反対する。「まずは動物や無機物で、この装置のタイムトラベルのメカニズムを完全に検証すべきだ。もし彼がこの境界線を越えた瞬間に、七十年分の『時間』が一気に押し寄せて、ミイラのように老化して死んだらどうするつもりだ!?」
「ですが、長官!」
科学者が反論する。「このアーティファクトの接続が、いつ途切れるか分かりません! 今彼を見殺しにすれば、二度と助けられないかもしれない!」
「……彼をこちらへ連れてきなさい」
ヘイズ大統領が、議論を断ち切った。
「人間が向こうにいるのよ。……目の前で助けを求めている自国民を、実験のデータ取りのために見捨てる大統領など、アメリカにはいらないわ」
現地のケンドールが、ハロウェイに最終的な意思確認を行う。
「ハロウェイさん。境界線を越えれば、あなたの肉体に何が起きるか、我々にも完全に保証することはできません。
……それでも、こちらへ来ますか?」
ハロウェイは、一九五七年の部屋を見回し、そして、力強く頷いた。
「……ここに残っても、俺の家族はもうどこにもいないんだろう?
なら、ここに残る理由はない。……俺は、行く」
彼は、ドローンから受け取った生体センサーを腕に巻き付け、ゆっくりと、あの銀灰色の枠の前に立った。
全員が、息を呑んで見守る。
ハロウェイが。
一九五七年の空間から。……二〇二X年の現代の廃墟へと、一歩、境界線を跨ぎ越した。
***
何も、起きなかった。
彼が境界線を越えた瞬間、骨と皮だけのミイラになることも、灰になって崩れ落ちることもなかった。
三十六歳の、健康な肉体のまま。……彼は、七十年後の未来の世界へと、完璧な形で足を踏み入れたのだ。
待機していた医療班が即座に彼を保護し、隔離テントへと連れ込む。
最新の機器で、数分以内に徹底的な身元確認が行われた。
指紋は、一九五〇年代の軍の古い入館記録のデータと完璧に一致。
身体の古傷、盲腸の手術痕、そして歯科の治療記録も、完全に本人。
念のため採取されたDNAも、データベースに登録されていた彼の血縁者(孫)のDNAと、矛盾なく一致した。
つまり。
一九五七年に密室から消えた男、レイモンド・ハロウェイが。
本当に、現代の世界へと【タイムトラベル】を果たしたのである。
「……時間開口を、遮断しろ」
ケンドールが命じる。
枠に取り付けられたスイッチ(あるいは物理的な遮蔽物)によって、空間の接続が閉じられる。
銀灰色の枠の向こうには、再び、ただの廃墟のコンクリートの壁が剥き出しになった。
現地の調査テントと、ワシントンD.C.のシチュエーションルームに。
ようやく、安堵の深いため息が漏れた。
救出成功。
七十年前のアメリカの未解決事件が、ついに解決したのだ。
歴史の謎を解き明かしたという、一種の高揚感と、科学的勝利の空気が、ほんの一瞬だけ、部屋を包み込んだ。
だが。
『――一九五七年・ハロウェイ失踪事件についての、【因果関係の再評価】を完了しました』
モニターのアルファの、氷のような声が、その安堵の空気を一瞬にして凍りつかせた。
「……どういうこと? 聞かせて」
ヘイズ大統領が、嫌な予感を顔に張り付かせながら言った。
アルファは、極めて冷酷に、今回起きた出来事の【歴史的な因果律(タイムライン)】を整理して提示した。
『一九五七年。ハロウェイは自分の部屋にいました。
午前二時十三分。……彼の部屋の壁に、突然「開口部」が現れた。
彼は、未来の人間たちと会話を交わし、自らの意思で、未来側(現代)へと移動した。
……その後、一九五七年側の部屋には、誰も残らなかった。開口部は閉じられ、壁は元に戻った。
そして翌朝。内鍵の掛かった密室の部屋から。……男の肉体だけが、完全に消えていた』
アルファは、決定的な結論を口にした。
『……つまり』
ケンドール博士が、顔面を蒼白にして、アルファの言葉を引き取った。
「……彼を、一九五七年のあの部屋から【消し去った(誘拐した)】犯人は。
……他の誰でもない。……【我々自身】だった、ということです」
ヘイズ大統領は、背もたれに深く寄りかかり、天を仰いだ。
「……未解決事件を、解決したんじゃないわね。
私たちは……『今、まさに自分たちの手で、あの七十年前の失踪事件を【引き起こした】』のよ」
我々が、今日ハロウェイを未来へ救い出したからこそ。……過去の一九五七年に、『ハロウェイ失踪事件』という謎の事件が【発生】した。
そして、その奇妙な失踪事件のFBIの記録を、約七十年後に我々が読んだからこそ。……現代の我々がこのモーテルを調査し、壁の中の扉を見つけ、そして彼を救出した。
それは、始まりも終わりもない。……完全なる【因果の円(タイム・パラドックスのループ)】であった。
誰が最初にそれを始めたのか。歴史の鶏と卵のどちらが先なのか。
人間の論理では、もはや絶対に証明不可能な領域だった。
***
「……これは、極めて重要な事実です、大統領」
ケンドール博士が、震える声で時間理論の核心に触れる。
「今回、我々が過去に干渉し、人間を一人連れ去りました。……しかし、それによって、現代の歴史が『変化(上書き)された』形跡は、どこにもありません」
「ええ」ヘイズが頷く。「人間が一人、歴史の途中でいなくなったのに。私たちの知っている歴史は、何一つ変わっていないわ」
「はい。……なぜなら、彼が1957年にいなくなること【それ自体】が、我々の知っている【正しい歴史(正史)】だったからです」
ケンドールは、恐怖に目を細めた。
「……我々の行った『過去への干渉』は、新たに歴史を改変したのではない。……我々の行動は、最初から【過去の歴史の因果の中に、すでに組み込まれていた(予定されていた)】のです」
ヘイズ大統領は、その理論が孕む『本当の恐ろしさ』に気づき、ゾッと背筋を震わせた。
「つまり……。アーティファクトで過去へ行くこと『だけ』が、危険なんじゃない。
……私たちが、これから未来において行うであろう【決断】や【行動】そのものが。……すでに、過去に起きた悲劇や歴史的事件の【原因】として、今のこの世界に存在している可能性がある、ということね」
「はい」
ケンドールが、重く頷く。「それこそが、今回の時間アーティファクトがもたらした、最大の恐怖です」
会議室は、底知れぬ時間と因果の迷宮の前に、完全に言葉を失った。
「……こんな悪魔の扉は、直ちにコンクリートで完全に埋めて封印すべきだ!」
国防長官が、パニック気味に叫んだ。
「馬鹿な! これほどの情報資産を捨てるつもりか!」
CIAの長官が猛反発する。「過去の未解決事件の真相や、敵国の失われた軍事機密を、この扉から直接覗き見ることができるかもしれないんだぞ!」
「少なくとも、装置の【機能確認】だけは絶対に必要です!」
科学技術顧問が声を上げる。
「静かにしなさい!」
ヘイズ大統領の鋭い一喝が、会議室の混乱を断ち切った。
「……今日は、この装置をどう兵器利用するかを決める会議じゃないわ。
……まずは、このアーティファクトの『開口先』が、一九五七年のあの部屋に【固定】されているものなのかどうか。それだけを確認しなさい」
ケンドールが、現地のチームに指示を出す。
「……全員、退避しろ。部屋から出ろ。
無人の遠隔操作ドローンのみを残し……もう一度だけ、枠を起動(開口)させろ」
***
誰もいなくなった廃墟の12号室。
無人のドローンが、銀灰色の枠の中央のスイッチ(センサー)を作動させる。
空間が、再び揺らぐ。
だが。
カメラが捉えた枠の向こう側の景色は。……先ほどの、一九五七年の夜のモーテルの部屋ではなかった。
『……なんだ、ここは』
モニターを見ていた全員が、息を呑んだ。
明るい昼間。屋外。
見渡す限りの、凄まじい群衆の波。
沿道に翻る、無数のアメリカ国旗。
片側三車線の広い道路。
行き交う、古い流線型のクラシックカーのパレード。
「……ドローンを前進させろ。現在位置と、時間を特定しろ!」
ケンドールの声が響く。
ドローンの望遠カメラが、沿道で歓声を上げる群衆の一人……初老の男性が手に持っていた、地元新聞の日付の欄を極限までズームアップした。
そこに、印刷されていた日付。
【NOVEMBER 22, 1963】
(一九六三年 十一月二十二日)
「…………冗談だろ」
国防長官が、顔面を蒼白にして呟いた。
さらに、ドローンのGPSと周囲の建物の形状から、AIが即座に空間の【位置座標】を照合・特定する。
『――場所。テキサス州……【ダラス】。ディーリー・プラザ近辺』
セレスティアル・ウォッチのシチュエーションルームは、もはや恐怖すら通り越し、完全な沈黙の極地へと叩き落とされた。
【ダラス。一九六三年十一月二十二日。】
それは、アメリカ合衆国の歴史において、最も暗く、最も陰謀に塗れ、最も解明されていない、最大のトラウマの日付。
ジョン・F・ケネディ大統領が、暗殺された日。
ケンドール博士の顔が、恐怖に引き攣った。
「……大統領」
「分かってるわ」
ヘイズは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
モニターの向こうでは、遠くから割れんばかりの群衆の歓声が近づいてきている。
オープンカーのパレードの車列が、すぐそこまで迫っている証拠だ。
現地の時計は、午後十二時二十九分前後を示している。
あと数分、いや、数十秒後には。……世界史上、最も有名な【あの銃声】が鳴り響く。
「……閉めて」
ヘイズ大統領は、一秒の迷いもなく、即断した。
「今すぐ、扉を閉めなさい」
「大統領!」
CIAの長官が、立ち上がって抗議した。「我々は今、歴史の真実を直接観測できる位置にいるのです! 誰が撃ったのか、どこから射線が通ったのか、陰謀の黒幕は誰だったのか! すべての真相が分かるかもしれないのですよ!」
「だからこそよ!」
ヘイズが、机を叩いて怒鳴り返した。
「CIAが何十年追っても決着しなかった、この国最大の呪いよ! 真相が見えるかもしれない。……でも、見えた結果、この現在の世界に『何が起こるか(どんな歴史の崩壊が起きるか)』、誰にも保証できないでしょう!
……今は、閉めて!!」
「……待ってください、大統領」
そのヘイズの決定を止めたのは。
他ならぬ、科学主任のケンドール博士であった。
「……何?」
ヘイズは、鋭い視線をケンドールに向けた。
ケンドール自身も、決して「暗殺の真相を見たいから」止めたわけではない。彼の顔色は死人のように青白く、額には冷や汗が浮かんでいた。
「……今すぐ、あそこに踏み込んで観測を続けるべきだ、と言っているのではありません」
ケンドールは、震える声で言葉を紡いだ。
「……ですが。単純に、『見なければ(扉を閉めれば)安全だ』とも……言い切れないのです」
ヘイズの顔が、さらに険しくなる。
「どういう意味よ」
ケンドールは、モニターに映る【一九五七年】のファイルと、【一九六三年】のダラスの群衆の映像を、二つ並べて表示した。
「……ハロウェイの事件を、思い出してください」
ケンドールの声が、重く響く。
「我々が彼を救出したという『未来の行動』は、すでに我々が生まれるより前の、一九五七年の歴史の中に【完全に織り込まれて(予定されて)】いました。
……もし、今回も、あの事件と全く同じ構造(因果のループ)なのだとしたら……」
ケンドールは、極めて慎重に、最悪の可能性を口にした。
「……我々が、一九六三年のあの日に介入し、『何かを観測すること【自体】』が。
……すでに、現在の我々の歴史(ケネディ暗殺の真実)を成立させている、【不可欠な因果の一部】である可能性があるのです」
ヘイズ大統領は、息を呑んだ。
「……ちょっと待って。
あなたはつまり。……私たちが今、ここでビビって扉を閉めて『見物しない(何もしない)』ことで。……逆に、ケネディが死ななかった別の歴史が生まれてしまったり、我々の現在の歴史が崩壊する(変わってしまう)可能性がある、と言っているの?」
「……その可能性を、物理学的に否定できないのです」
ケンドールは、絶望的な顔で答えた。
これが、この時間アーティファクトの、真の恐ろしさだった。
普通のタイムトラベル映画なら、「過去には絶対に触るな。触らなければ安全だ」というのがお約束だ。
だが、今回は違う。
我々の行動が、すでに過去の因果へ組み込まれているのだとしたら。
【予定されていた行動を『しない』ことすらも】。……歴史に対する致命的な干渉(改変)になり得るのだ。
アルファが、無感情な声で、さらに絶望的な補足データを提示した。
『――ダラスの過去の映像記録には。銃撃発生前から特定の不自然な位置に留まり続け、銃撃後も通常の群衆のパニック行動を示さなかった【未確認の不審人物(アンブレラ・マン等)】が複数存在します。
……そのすべてが、「未来からの時間観測者」であると示す証拠は、今までありませんでした。
……しかし。今回の装置が、ピンポイントでこの日時のダラスへ接続した事実により。……彼らが未来人であったという仮説の【再評価の必要性】は、極限まで上昇しました』
つまり。
あの日、ダラスの広場で、暗殺の瞬間をただ静かに見つめていた不審人物の誰かが。
……未来の(今の)セレスティアル・ウォッチから送り込まれた、観測員(職員)なのかもしれないのだ。
だが、まだ誰にも分からない。
ヘイズ大統領は、目を閉じ、深く、重い思考の海に沈んだ。
目の前のモニターでは、六十年以上前のダラスの群衆が、歓声を上げて動いている。
あと数十秒後には。……世界を永遠に変えてしまった、あの銃声が鳴る。
パニックになりそうな極限状態の中で。
ヘイズは、大統領として、腹を括った。
「……分かったわ」
ヘイズは、目を開け、ケンドールを見据えて言った。
「その『私たちが何もしないことで歴史が変わるかもしれない』という可能性も含めて、早急に検討する」
そして、彼女は決然と言い放った。
「……でも。だからといって、“過去の歴史が私たちを待っているかもしれないから”なんていう曖昧な理由だけで。……何の準備も、覚悟もせずに、いきなりあの日(ダラス)に飛び込むほど、私は馬鹿じゃないわ」
ヘイズは、現場の操作員に向かって、絶対の命令を下した。
「今は、閉めて」
その決断は、極めてヘイズらしかった。
恐怖に飲まれるわけでも、知的好奇心に負けるわけでもなく。ただ、為政者として最もリスクの低い「一時停止」を選んだのだ。
「……了解」
現場の操作員が、スイッチを押す。
モニターに映っていた、一九六三年の青空、古い自動車の排気ガスの匂い、そして割れんばかりの歓声。
そのすべてが、一瞬にしてフッと消え去った。
後に残されたのは、ただの古びたコンクリートの壁に埋め込まれた、鈍く光る銀灰色の枠だけだった。
***
危険な時間ゲートは、閉じられた。
普通なら、これで一安心だ。パンドラの箱の蓋を閉めたのだから。
だが、シチュエーションルームの全員の顔には、安堵の色は微塵もなかった。誰もが、胃の奥底に鉛を飲み込んだような重苦しさを抱えていた。
(……本当に、閉めてよかったのか?)
全員が、自問自答している。
ハロウェイを救出したという自分たちの行動は、すでに過去の歴史の中に「最初から存在」していた。
なら。
ダラスであの日に扉を開け、自分たちが何かを観測するという行動も。……本当は、もうすでに『歴史の一部』として存在している(確定している)のではないか?
もしそうなら、自分たちは今、とんでもない歴史のピースを「欠落」させてしまったのではないか?
「……ケンドール」
ヘイズ大統領が、重い沈黙を破って、一つだけ確認した。
「……我々が、次にあの扉を開けた時」
彼女は、少し間を置き。
「……また、『一九六三年のダラス』に繋がるという保証は、あるの?」
ケンドールは、首を横に振った。
「……ありません。ハロウェイの部屋からダラスへと切り替わった原理すら、我々はまだ何も解明できていないのですから」
「……でしょうね」
ヘイズは、この日一番の、深いため息をついた。
すると、モニターのアルファが、無感情な声で、さらに嫌な『補足』を入れた。
『――大統領、補足します。
現在、映像から確認されている「一九六三年ダラスの未確認不審人物」の中に。……現代のセレスティアル・ウォッチの職員の顔と、骨格や網膜パターンが【完全に照合可能】な人物は、現時点では確認されていません』
会議室の空気が、ほんの一瞬だけ緩む。
(なんだ。自分たちの組織の人間が未来から送り込まれたわけじゃないのか)
しかし、アルファは間髪入れずに、冷徹に続けた。
『……ただし。
当時の古いフィルム映像の【解像度】と、顔が帽子やサングラスで隠れているという条件を考慮した場合。
……彼らの中に、我々の職員が「一人も混ざっていない」と、明確に【否定することも不可能】です』
「……余計な補足、どうもありがとう、アルファ」
ヘイズ大統領は、心底うんざりした顔で、冷たく言い捨てた。
***
一方、その頃。
セレスティアル・ウォッチの医療隔離区画。
約七十年という途方もない時間を超えて、未来の世界へとやってきてしまった男、レイモンド・ハロウェイは。
窓のない隔離部屋のベッドに座り、壁に掛けられた薄型の液晶テレビの画面を、ただ呆然と眺めていた。
画面に映し出される、月面着陸の過去のニュース映像。
誰もが持っている、板のような薄い電話(スマートフォン)。
空力を計算し尽くされた、流線型の現代の自動車。
そして、彼が知っていた時代とは全く国境線の形が変わってしまった、世界地図。
自分が生きていた一九五七年から、この世界は、あまりにも遠く、恐ろしい場所へと来てしまっていた。
彼が、防護服を着た担当の捜査官に、静かに問いかけた。
「……なあ。あの、俺の部屋に開いた『扉』は。……いったい、何だったんだ?」
担当の捜査官は、申し訳なさと、同情の入り混じった顔で答えた。
「……我々にも、全く分からないんです」
ハロウェイは、自嘲気味に笑った。
「……あんたたちは、七十年も先の技術を持ってる『未来人』なんじゃないのか? 分からないことなんか、あるのか?」
捜査官は、苦笑して首を振った。
「あなたから見れば、我々は確かに未来人です。
……でも、ハロウェイさん。未来の時代に生きているからといって。……世界のすべての謎が、分かるわけじゃないんですよ」
***
数日後。
セレスティアル・ウォッチの地下アーカイブの最深部に、一つの新しい【最高機密ファイル】が登録された。
【TEMPORAL ARTIFACT CASE-02】
【暫定名称:THE DOOR(扉)】
【機能:異なる時間・空間座標間における、物質的な接続】
【接続先の選択原理(法則性):一切不明】
【歴史改変能力の有無:不明】
【因果の自己整合性:存在する可能性が極めて高い】
【使用状況:大統領の直接命令により、完全凍結】
【次回の開扉予定:未定】
そして、そのファイルの末尾には、一つの別添資料が紐付けられていた。
【一九五七年十月――レイモンド・ハロウェイ失踪事件】
『STATUS:SOLVED(解決済み)』
ただし、その「解決」の理由として記されていたのは。
犯人の名前でも、ソ連の陰謀でもなく。
『原因:二〇二X年、セレスティアル・ウォッチによる本人の回収(誘拐)』
その報告書を読んで、笑える者は、アメリカ政府の中に誰一人としていなかった。
約七十年前の、不気味な密室未解決事件は、見事に解決した。
犯人も分かった。……それは、未来のアメリカ政府自身だった。
そして、もう一つ。
地下深くで厳重に封印された、あの閉ざされた銀灰色の扉の向こうでは。
一九六三年十一月二十二日の、あのダラスの青空が。
……彼らが再び扉を開き、歴史の観測者として現れるのを、ただじっと待っているのか。
それとも。
彼らがいつか、必ずその扉を開く運命にあるからこそ。……一九六三年のダラスは、すでに「あのような陰謀に塗れた歴史」として完成してしまっているのか。
今はまだ、世界の誰にも、分からなかった。
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