チャラノ小路チャラ隆の野望 作:ぺこりーにょ
語らねばなるまい…お前達にも教えよう…
なぜ作者が書き上げてから更新を躊躇っていたわけを…
遠ざかる彼らの足音と話し声が完全に消え去ると、あとには再び、紙の匂いが立ち込める図書室特有の静寂が戻ってくる。
私は誰に聞かせるでもなく、今日何度目になるかわからない深い溜息を吐き出した。
腕時計に視線を落とせば、勉強会を開始してからまだ二十分しか経過していない。当初の計画では、最低でも二時間はみっちりと基礎問題の反復に費やすつもりだったのだ。
しかし、すぐに席を立って寮へ引き返す気にはなれなかった。
このまま部屋に戻ったところで、今日の失敗が帳消しになるわけでもなければ、次回の展望が勝手に開けるわけでもない。
私は誰もいなくなった向かいの席に視線をやり、須藤くんが消しゴムのカスすら払わずに去っていった机の上を見つめた。
連立方程式はおろか、分数の通分や一次方程式の移項すら怪しい数学。中学一年生レベルの単語の綴りすら壊滅的な英語。そして何より、問題文の日本語そのものを正確に読み取ろうとしない絶望的な読解力と集中力の欠如。
彼らの学力は、私が事前に想定していた底のさらに数段下を掘り進んでいた。
「……根本から、計画を練り直す必要があるわね」
私は小さく呟くと、一度閉じた自分のノートと各教科の教科書を再び机の上に広げた。
全範囲を網羅して理解させるなどという真っ当なアプローチは、今の彼らには百年早い。二週間後の中間テストで赤点を回避することだけを至上命題とするならば、応用問題や思考力を問う設問は最初からすべて切り捨て、単純な暗記とパターン処理だけで確実に点をもぎ取れる部分だけを徹底的に叩き込むしかない。
国語は漢字の読み書きと、古文の基本的な助動詞の暗記。社会と理科は、授業中に教師が強調していた重要語句の一問一答形式への作り直し。英語は最低限の定型文の丸暗記。
私は静まり返った図書室のテーブルで一人、彼らの壊滅的な頭脳に合わせた超・低次元カリキュラムの再構築に没頭した。要点を抜き出し、彼らでも視覚的に理解できるよう図解を加え、プリントの余白にびっしりと対策を書き込んでいく。
カリカリとペンを走らせること、およそ一時間半。
どれほど分かりやすい教材を作り、どれほど効率的な得点ルートを舗装したところで、結局のところ、彼ら自身がペンを握って机に向かう、という大前提がクリアできなければ、すべては絵に描いた餅に過ぎないという厳然たる事実に、私は改めて突き当たっていた。
ふと顔を上げると、図書室の大きな窓から差し込む光は、いつの間にか濃い茜色へと変わっていた。
時計の針は、当初の終了予定時刻をわずかに回っている。たった二時間机に向かっていただけなのに、凝り固まった肩と首筋に鉛のような重だるさがのしかかっている。
私は筆記用具とノートを鞄にしまい、重い足取りで図書室を後にした。
夕暮れの長い影が伸びる廊下を歩き、一階の昇降口へと向かう。ほとんど一人きりで作業していただけにもかかわらず、フルマラソンでも走り抜いたかのような精神的疲労感が全身を蝕んでいた。
「ウェーイ。お疲れちゃーん、ほりぴー。そっちもちょうど、店じまいか?」
靴箱の前でローファーに履き替えようとしていたその時、不意に背後から、感情の起伏が欠落している聞き馴染みしかない平坦な声がかけられた。
それが誰かなど、振り返って見るまでもない。
どうやら神様は留守のようだ。今日の私にはまだ試練が足りないとでも思ったのか、追加で特大のピザまで注文して、南国へとバカンスに出かけたのだろう。
そんな私の気も知らずに、別会場での勉強会を終えたらしい綾小路くんが、ポケットに片手を突っ込みながら気怠そうに私の隣へと並んだ。
「……ええ、見ての通りよ。あなたの方はどうだったの?」
平田くんや櫛田さんたちと受け持っていた教室組の様子を尋ねると、綾小路くんは私の隣で歩みを止め、全く感情の読めない真顔のまま小さく頷いた。
「バッチリさ」
そう短く答えながら、彼は胸の高さに両手をスッと掲げ、虚空に向かって「グーパー、グーパー」と、何か見えない柔らかな球体を執拗に揉みしだくような、ひどく生々しい手つきを繰り返した。
「…………」
私はこめかみに走る鈍い痛みを指先で押さえ、氷点下の視線でその両手を射抜いた。
「……その下品極まりない手の動きを今すぐやめなさい。私はさっきまで、言葉の通じない連中を相手にして、かつてないほどストレスフルな環境にいたのよ。私にさらにストレスを与えるつもり?」
「心外だな。今日の勉強会で得た確かな手応えを、視覚的にわかりやすく表現しただけだぜ」
綾小路くんは揉みしだく手をピタリと止め、肩をすくめ、私と並んで昇降口から夕暮れのキャンパスへと歩き出した。
「それより、ずいぶん疲労困憊な顔だな。図書室の方はそんなに荒れたのか?」
「荒れる以前の問題よ。勉強会自体は、開始からたった二十分で終わったわ。残りの時間は、図書室に一人で残って対策を練り直していたの」
私が忌々しそうに告げると、綾小路くんはわずかに眉を動かした。
「二十分? そりゃまた、ずいぶんと早漏な幕引きだったな。何かトラブルでも?」
動きだけでなく言葉でも相変わらずストレスを与えてくるが無視して話を進める。
「トラブルも何も、始める以前に崩壊したわよ。池くんも山内くんも、そして特に須藤くんに至っては、机に向かわせるだけで精一杯だったわ。私がどれだけ基礎の重要性を説いて、噛み砕いて教えようとしても、最初から聞く耳を持たないの。すぐに騒ぎ出すし、ペンを投げ出すし、しまいには帰ると言い出す始末よ。あんな連中、どう指導しろっていうの」
抑えていた苛立ちが堰を切ったように溢れ出し、思わず吐き捨てるような愚痴がこぼれた。
すると、隣を歩く綾小路くんは少しだけ首を傾げ、至って真面目なトーンで口を開いた。
「なるほどな。ほりぴー、それはお前のナンパのノウハウが圧倒的に不足しているせいだ」
「……は? ナンパ?」
予想の斜め上を行く単語に、私は思わず足を止めかけた。しかし、彼は私の困惑など気にも留めず、淡々と言葉を継ぐ。
「ああ。俺が愛読しているファッション誌の恋愛コラムに、こんな至言が載っていたぜ。『ガードの固い女子を落とす時は、自分の魅力やスペックを一方的に押し付けるんじゃなく、まずは相手の趣味や価値観、何を求めているのかを徹底的にリサーチしろ』ってな。要するに、兵法で言うところの、敵を知り、己を知れば、百戦危うからずってやつさ」
──その雑誌は、青少年への悪影響を鑑みて今すぐに発禁処分にすべきではないかしら。
真剣な面持ちでうなずく彼の横顔を見ながら、私は日本の出版業界の倫理観に深い疑念を抱かずにはいられなかった。勉強会の対策を相談しているはずなのに、なぜ返ってくる答えがナンパの極意なのか。
そもそも、入学初日から今日に至るまで、周囲の空気を凍りつかせる妙ちくりんな言動と奇行ばかりを繰り返しているこの男が、したり顔で『己を知れ』などと説いている時点で、特大のブラックジョークでしかない。
他人に兵法を説く前に、まずはその狂った己の言動と行動を徹底的に顧みるべきなのは明らかだ。
私が内心で冷酷なツッコミを浴びせていることなど露知らず、綾小路くんはさらに持論を展開していく。
「相手のこともろくに知らずに、ただ頭ごなしに正論ばかりぶつけるのは、初対面の女子を口説くのに連れ込み宿の前で待ち合わせするくらいナンセンスなムーブだぜ」
「……誰がそんな下劣な例え話をしなさいと言ったのよ」
連れ込み宿など文章の中でしか馴染みがない。下品な雑誌から影響を受けたのか、それともいままでの教育せいなのか。はたまた両方なのか。
「まあ、言葉だけで手綱を握るのは高等テクニックだからな。実はもっとシンプルで、男子連中に一番効果があったアプローチを伝授しようじゃあないか」
綾小路くんは歩みを止め、私の方へと向き直った。
「あっちの会場ではな、櫛田が机の間を移動したり身を乗り出したりするたびに、あの見事なパイオツがぶるんぶるんと惜しげもなく揺れていたんだ。男子どもの視線は完全にそこに釘付けで、誰も席を立とうとしなかったぜ。だからほりぴー、お前も明日はサイズ負けしてる分、その頑固なボタンを二つばかり外して、パイオツをぶるんぶるんと揺らしながら教えてみるべきっしょ」
シュッ!!
私は無言のまま、一切の躊躇なく右腕を振り抜き、綾小路くんの喉仏めがけて鋭利な手刀を突き出した。
「っと。ウェーイ、物騒だな」
しかし、綾小路くんは上半身をわずかに後ろへ反らすだけの最小限の動きで、私の殺意に満ちた一撃を紙一重でかわしてみせた。そのまま流れるような軽やかなステップで、数歩後ろへと距離を取る。
「せっかくの有益なアドバイスを物理攻撃で返すとは、まだまだツンデレの域を出ないな。まあ、せいぜいターゲットのリサーチからやり直すんだな。じゃあな、アディオース」
言いたいことだけを一方的に言い残し、綾小路くんはひらひらと片手を振って、男子寮の方へと去っていった。
「……はぁ」
空を切った自分の右手をゆっくりと下ろし、夕闇に溶け込んでいくその背中を見送りながら、私は今日一番の深く重い溜息を吐き出した。
どうしてこう、私の周りには言葉の通じない馬鹿か、思考回路の破綻した変質者しかいないのだろうか。彼とまともに会話をしようとするだけで、私の貴重な脳細胞が音を立てて死滅していくような気がする。
けれど。
夕暮れの涼しい風に吹かれながら、彼の語った、ナンパだの胸を揺らせ、だのという汚らわしいノイズを頭から完全に削ぎ落としてみると、不思議と一つの言葉だけが胸の奥に引っかかっていた。
──敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。
孫子の兵法。
この状況において、私が攻略しなければならない敵とは誰だろうか。
中間テストという学校側のシステムそのもの? いえ、違うわ。今、私の目の前に立ちはだかる最大の障壁──それは間違いなく、あの三人の中でも一番やる気がなく、集中力が欠如し、すぐに感情を爆発させて机から逃げ出そうとする須藤くんだ。
池くんと山内くんの二人は、良くも悪くも周囲の空気に流されやすい小市民的な性質を持っている。一番声が大きく、腕っぷしの強い須藤くんがやめると言い出すからこそ、彼らもそれに便乗してサボろうとするのだ。逆に言えば、須藤くんという最大の暴れ馬さえ机に縛り付けることができれば、残りの二人も自然とペンを握らざるを得なくなるはず。
ふと、私は並木道の真ん中で立ち止まり、自問する。
私は、その『敵』のことをどれだけ知っているだろうか。
小テストの点数が目も当てられないほど壊滅的であること。短気で喧嘩っ早く、教師に対しても平気で反抗的な態度をとること。そして、バスケットボール部に入部し、その競技にだけは異常なまでの執着とプライドを持っていること。
私が彼について把握している情報など、せいぜいその程度だ。
今日の図書室でも、彼は、バスケさえできれば勉強なんていらない、という趣旨の言葉を口にしていた。
私はそれを、単なる劣等生の浅はかな現実逃避であり、努力から逃げるためのくだらない言い訳だと決めつけて、一顧だにしなかった。彼がなぜそこまで勉強を拒絶するのか、そしてバスケットボールという競技に対してどれほどの思いと野心を抱いているのか、その内面に踏み込もうとすらしていなかったのだ。
自分の正論と基準だけを一方的に押し付け、相手が動かないことに苛立つ。
それは確かに、彼が言った通り、相手を見ない独りよがりなアプローチだったのかもしれない。
「……癪に触るわ。
私は夕焼けに染まる空を見上げて小さくかぶりを振ると、鞄の持ち手を強く握り直した。
次に図書室で顔を合わせる時までに、少しだけ『敵』の土俵について調べておく必要がありそうだ。
頭の中で次なる作戦の輪郭を組み立て直しながら、私は少しだけ軽くなった足取りで、学生寮への道を歩き始めた。
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後日。放課後の図書室には、再び池くん、山内くん、そして須藤くんの三人が顔を揃えていた。
前回の集まりがわずか二十分で空中分解したことを思えば、彼らが今日こうして同じテーブルに着いていること自体、小さな奇跡と呼ぶべきなのかもしれない。もちろん、彼らが自発的に勉学の重要性に目覚めたわけではなく、今日も今日とて櫛田さんの笑顔と「みんなで一緒に進級しようね」という声援に背中を押され、半ば催眠状態のまま連行されてきたに過ぎないのだけれど。
静まり返った図書室の一角で、カリカリというシャープペンシルの音だけが小さく響く。
私は手元のノートに視線を落としながらも、意識の半分を向かいに座る三人の観察に割いていた。
池くんは先ほどから英語の単語帳を眺めているものの、ページをめくる手が完全に止まっており、その視線は文字ではなくページの余白を虚ろに彷徨っている。隣の山内くんに至っては、数学の公式を書き写す作業に早々に飽きたのか、消しゴムの角を少しずつちぎっては指先で丸めるという、生産性のかけらもない作業に没頭し始めていた。
そして、最大の問題児である須藤くんはといえば、最初からノートを開くことすら億劫そうに、貧乏ゆすりで机を微かに揺らし続けている。
案の定、
「あーっ、クソッ! もうやめだやめ! こんなもんやってられっかよ!」
静寂を破り、真っ先にシャープペンシルをノートの上に投げ出したのは、やはり須藤くんだった。
転がったペンが机の端から落ちそうになるのも構わず、彼は椅子を乱暴に鳴らして背もたれにふんぞり返り、苛立たしげに短い赤髪をガシガシと掻きむしった。
「だいたいよぉ、なんで俺がこんな訳わかんねー数式や英単語なんか、放課後にまで居残って覚えなきゃなんねーんだよ! 時間の無駄だろうが!」
須藤くんが吐き捨てるように声を荒らげると、待っていましたと言わんばかりに、池くんと山内くんの顔がパッと明るくなった。
「そ、そうだぜ! 俺たち、今日だってもう十分頑張ったよな!?」
「いきなり二時間も机に向かうなんて、人間の脳の構造上ムリがあるって! 少しずつ慣らしていこうぜ、なっ?」
一人では私に逆らう度胸もないくせに、須藤くんという防波堤ができた途端、二人は水を得た魚のように便乗して騒ぎ立て始める。
前回の私なら、この救いようのない怠慢を前にして、こめかみの痛みを堪えながら冷たく突き放すか、氷のような視線で無言のまま睨みつけていたところだ。
だが、今日の私は違った。
私は手元の参考書をパタンと静かに閉じると、背筋を伸ばして腕を組み、須藤くんのその浅はかな言葉を「フッ」と明確に鼻で笑ってやった。
「……ああん? てめぇ堀北、今、俺を笑ったかコラ」
須藤くんの眉が険しく吊り上がり、猛獣の唸り声のような低い威嚇が飛んでくる。両隣の二人がビクッと肩をすくめる中、私は眉一つ動かさず、極めて平坦で冷ややかな声で言い放った。
「ええ、笑ったわ。あまりにも滑稽で、聞いていられなかったものだから。時間の無駄、と言ったかしら? 自分がクラスの足を引っ張る赤点候補の筆頭であるという現実も忘れて、よくそんな寝言が言えるものね」
「うるせぇ! 赤点だかなんだか知らねぇが、俺には勉強なんて必要ねぇんだよ!」
須藤くんは机をドンと拳で叩き、自分の胸を親指で誇らしげに指し示した。
「いいか、よく聞いとけ! 俺はなぁ、将来プロのバスケ選手になって、本場のNBAに行く男なんだよ! サインやコサインだの、古文だのができなくたって、コートの上で誰よりも点を取れりゃあそれでいいんだ! わかったら、とっとと部活に行かせろ!」
彼はそう息巻くと、乱暴に鞄を掴んで席を立ち上がろうとした。
その直前、私は彼の動きに待ったをかけるように、淡々と言葉を投げかけた。
「そう。感情に身を任せて、今ここで席を立って部活に行くことを、私はもう止めないわ。どうぞお好きになさい」
「……あ? なんだよ、最初からそう言えってんだ」
拍子抜けしたように鼻を鳴らす須藤くんを見上げながら、私はわずかに口角を上げて言葉を継いだ。
「ええ、無理に引き止める必要なんてないもの。だって、このまま行けば、あなたは夏休みを待たずに、それこそ毎日朝から晩まで好きなだけバスケットボールができるようになるわ」
「は? どういう意味だコラ」
「簡単な話よ。二週間後の中間テストで赤点を取って、この学校から退学処分を受けるという意味よ。学校という枠組みから放り出されれば、嫌いな授業を受ける必要も、テストに怯える必要もなくなるわ。近所の公園のコートで、日が暮れるまで一人きりでボールを突いていればいいじゃない。誰にも邪魔されない、理想の環境じゃなくて?」
「てめぇ……っ! 俺が退学になるって決めつけてんじゃねぇぞ!」
須藤くんの顔に再び朱が差し、握りしめた拳が怒りで震え始める。しかし、私はその威圧を涼しい顔で受け流し、さらに核心へと踏み込んだ。
「決めつけではなく、客観的な事実を述べているだけよ。それとも、今のその壊滅的な学力で、どうやって赤点を回避するつもりなのかしら? ……ああ、そういえばあなた、さっきNBAに行くと言っていたわね」
私は組んでいた腕を解き、机の上で指先を軽く組んだ。
「NBAは、あなたも知っての通りアメリカのプロバスケットボールリーグよ。世界中から選び抜かれた一握りの天才たちが集う、文字通り世界最高峰の舞台だわ。けれど、今あなたが投げ出したそのアルファベットや中学レベルの文法すら理解できない状態で、英語も全くわからないまま、どうやってアメリカでやっていくつもりなの?」
「ぐっ……そ、それは、実力さえあれば通訳くらい……」
「通訳がコートの中まで一緒に入って、ドリブルでもしてくれるのかしら?」
私が冷ややかに切り捨てると、須藤くんは言葉に詰まったように口ごもった。
「現地での日常生活や契約交渉は百歩譲って他人に任せるとしても、試合中はどうするの? ヘッドコーチからの複雑な戦術の指示も、タイムアウト中の修正も、コート上でのチームメイトとの咄嗟の声かけも、すべて英語で行われるのよ。それとも、身振り手振りだけでパスがもらえるとでも思っているのかしら」
「う、うるせぇな! 細かいことをごちゃごちゃと……!」
「細かいことではないわ。根本的な競技の性質の話よ」
私はさらに口角を上げ、彼のプライドを真正面から逆撫でするように、あえて挑発的な笑みを浮かべた。
「私はバスケットボールという競技を、五人がコート上で絶えず意思疎通を図り、緻密なフォーメーションと戦術眼をもって得点を奪い合うチームスポーツだと思っていたのだけれど。あなたの話を聞く限り、どうやら言葉も交わさずに、ただ一人でボールを持ってゴールにねじ込むだけの単純な個人競技みたいね。それくらいなら、複雑な連携も頭脳もいらないし、素人である私でも今すぐできそうだわ」
バンッ!!
乾いた破裂音が響き、図書室の重厚なテーブルが激しく揺れた。周囲で静かに自習していた他の生徒たちが、何事かとビクッと肩を震わせてこちらを振り返る。
しかし、当の須藤くんは周囲の視線など目に入らない様子で、顔を耳まで真っ赤に染め上げ、今にも私に掴みかからんばかりの凄まじい剣幕で立ち上がっていた。
「ふざけんな!! バスケを舐めんじゃねぇぞてめぇ!! お前みたいな素人に何ができるってんだ! 試合で勝つためにはなぁ、毎日毎日、汗流して地味なドリブルやパス、フットワークの基本練習を積み重ねることが一番大切なんだよ!! その土台がねぇ奴がコートに立ったって、一秒だって通用しねぇんだ!!」
静かな図書室に響き渡る怒声。隣の池くんと山内くんが、今にも暴力沙汰になるのではないかと顔を青くして引きつっている。
だが、私は微動だにせず、上から睨みつけてくる須藤くんの目を真っ直ぐに射抜いて、静かに言葉を返した。
「──勉強も、そうじゃないの?」
「……っ!?」
須藤くんの言葉が、喉の奥でピタリと詰まった。
「あなたが今、面倒だ、意味がないと言って投げ出したその公式や英単語は、バスケットボールで言うところのドリブルやパス……つまり『基本練習』そのものよ。基礎という土台から逃げ出す人間が、将来、世界のコートに立てると本気で思っているの? 土台のない人間は一秒だって通用しない。そう言ったのは、他の誰でもない、あなた自身よ」
「なっ……それは、バスケの話であって、勉強は関係ねぇだろ……っ!」
自分の言葉がそのまま刃となって返ってきたことに動揺しながらも、須藤くんは必死に言い逃れの言葉を探すように視線を泳がせた。そして、苦し紛れに声を張り上げる。
「だ、だいたいよぉ! 今はそんな悠長なこと言ってる場合じゃねぇんだよ! もうすぐインターハイの予選が迫ってて、俺は一年生の中でユニフォームがもらえるかどうかの瀬戸際なんだよ! 放課後にこんなところで油を売ってたら、他の奴らにレギュラーの座を奪われちまうだろうが!!」
彼にしてみれば、それは切実な理由であり、勉強会を抜け出すための正当な免罪符のつもりだったのだろう。池くんも「そ、そうだぞ堀北! 須藤はバスケ部の期待の星なんだからな!」と援護射撃を飛ばす。
しかし、その必死の反論を聞いた瞬間、私は心の底から呆れ果てたように、今日二度目の冷笑を漏らした。
「あら。随分と自信がないのね」
「……なんだと?」
私の静かな一言に、須藤くんの眉がピクリと跳ねた。
「だって、そうでしょう? 将来は海の向こうのNBAで活躍しようと豪語するほどの選手が、たかが日本の高校の部活動で、毎日必死に練習しなければ一年生でユニフォームすら取れないなんて。あなたの実力というのは、テスト勉強で練習時間を少し削っただけで、他の選手に簡単に取って代わられる程度のものだったのね」
「っ……! てめぇ、俺の実力をバカにしてんのか……っ!」
「バカになんてしていないわ。あなたの口ぶりから、そのまま導き出される事実を言ったまでよ。もし本当に規格外の才能と実力があるのなら、放課後の二時間程度を勉強に充てて退学のリスクを確実に潰しつつ、限られた練習時間の中で圧倒的な結果を出してユニフォームを勝ち取るくらい、造作もないはずじゃないかしら」
私は一度言葉を区切り、彼の目をじっと見つめた。
「それとも何かしら。ユニフォームをもらい、その直後の中間テストで赤点を取って退学になり、ユニホームを着ることもなく荷物をまとめて学園を去る……というのが、あなたの目指すプロフェッショナルの姿なの?」
「ぐっ……う、うぐ……っ」
須藤くんはギリギリと奥歯を噛み鳴らし、顔を真っ赤にしたまま立ち尽くしていた。
何かを言い返そうと何度も口を開きかけるが、あらゆる退路を論理的に塞がれ、自分の誇りであるバスケの理屈で首を絞められた彼には、もはや反論の言葉など一つも残されていなかった。
図書室の時計の針が、カチ、カチ、と静かに時を刻む。
張り詰めた沈黙の中、須藤くんは握りしめた両拳を震わせながら、机の上のノートと私の顔を交互に睨みつけていたが──やがて、大きく鼻から荒い息を吐き出すと、乱暴に椅子を引き、ドカッと音を立てて座り直した。
「……クソッ! わかったよ!! やりゃあいいんだろ、やりゃあ!!」
吐き捨てるようにそう叫ぶと、彼は先ほど投げ出したシャープペンシルをわしづかみにし、芯が折れそうなほどの筆圧でノートへと視線を落とした。
「えっ、す、須藤……? マジでやるのかよ……?」
「うっせぇな寛治! とっとと終わらせて部活行くぞ! 俺はなぁ、こんなテストくらい余裕でクリアして、ユニフォームも絶対に取ってやるんだよ!!」
須藤くんに凄まれ、逃げる口実と最大の防波堤を同時に失った池くんと山内くんは、顔を引きつらせながらも観念したように慌ててペンを取り直した。
まだ粗削りで、単なる意地と反発心に過ぎないけれど、今の須藤くんの瞳には、先ほどまでの投げやりな態度とは明らかに違う熱が宿っている。自分のプライドを守るために机に向かうというのなら、動機としてはそれで十分だ。
私は内心で小さく安堵の息を吐き、閉じていた参考書を再び開いた。
まだようやく、彼らをスタートラインに立たせることができたに過ぎない。彼らの壊滅的な頭脳に基礎を叩き込むという本当の戦いは、ここから始まるのだ。
「それじゃあ、さっきの続きから始めるわよ。須藤くん、まずはそのペンの持ち方から直しなさい。そんな握り方では、1時間ももたずに手首が疲れてしまうわ」
「ああん!? うるせぇな、俺の勝手だろ……っ、チッ、こうかよ!」
悪態をつきながらも、素直にペンの持ち方を直す須藤くんの姿を見届け、私はペン先でノートの数式を軽く叩いた。
窓の外から差し込む夕陽が、ようやく軌道に乗り始めた私たちの不格好な勉強会を、静かに照らし出していた。
更新期間が空いたから書き上げたはいいものの更新ボタンを前にただブルっていただけだということを…
あと櫛田ちゃんの屋上イベをどう処理すればいいかわかないから執筆から逃げていたということを…
それといまなお良い処理の仕方は何一つ思いつていないということを…
やはり綾小路くんの性格をこんなんにしといて原作ルートは無理があったんじゃないかということを…
でもオリジナルルートはそれはそれで大変でとても楽ではないことを…
というか結局これまだ一巻の内容終わってねえじゃねえかよということを…
それとここに書いてる事柄を毎回言ってる気がするということを…
だが感想と高評価とここ好きをくれる人々が強すぎた…というわけで更新☆